ブリヂストン・エンライトンのロゴが入る展示タイヤと一緒に笑顔をみせる今井弘氏。2025年2月末にブリヂストンに復職、3月1日付で常務役員モータースポーツ管掌に任命されている 2025年3月1日付で、ブリヂストンの常務役員モータースポーツ管掌に就任した今井弘さん。マクラーレンF1でレースエンジニアリング・ダイレクター、つまり現場の責任者としてチームを2024年コンストラクターズチャンピオンに導いた今井さんに、ブリヂストン復職の経緯と現在の役割、今後のブリヂストンのモータースポーツへの方向性、そしてパパイヤルールといったF1ファンが気になる点について聞いた。
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──今年2月のリリースで古巣のブリヂストンへの復帰が発表されて、まずは驚かされました。改めて、16年ぶりに今井さんがF1マクラーレンから復職した経緯を教えてください。
今井弘(以下、今井):僕が2008年までブリヂストンに在籍していたときはタイヤエンジニアとして“タイヤからクルマはどう見えるか”を仕事にしていました。非常に面白かったのですけど、同時に“クルマからタイヤはどう見えるのか”という気持ちをずっと持っていました。
そのことを勉強してみたい、チャレンジしてみたいという気持ちと、いろいろなご縁があり、マクラーレンでは16シーズンにわたって仕事をすることになりました。マクラーレンとの契約書には『我々のミッションは参戦するすべてのレースに勝ち、チャンピオンを取ることである』と書かれており、その任務を達成するまで頑張ってみようという想いでした。
2024年シーズンにコンストラクターズチャンピオンを獲得し、次のチャレンジを模索していたとき、ブリヂストンさんからお話を頂いて。そこで、タイヤとクルマを両面からみたときの知見を活かして、レースでみなさんにより良い製品を届けられる仕事ができればいいなと思い、この役職に就くことになりました。
──さまざまな人から、タイヤや足回りのエンジニアとしてだけでなく、今井さんのマネジメント能力の高さを聞きます。マクラーレンではレースエンジニアリングダイレクターにまで昇格し、その先のチーム代表という立場も狙えたと思いますが?
今井:そう思って頂けたことは非常にありがたいですね。たしかにチーム全体をマネジメントすることは面白いと思います。ただ、やはり僕はチャレンジすることが好きで、それまでとは違うことをしたいという考えがあります。仮にチーム代表を考えたとすると、何となく『こういったことをすればいい』という想像がつくと思いますが、そうではなく、違うフィールドと立場で仕事をしたほうがチャレンジだと思いました。
──ブリヂストンでは常務役員、モータースポーツ管掌という立場ですが、実際の役割はどのようなものでしょうか?
今井:ブリヂストンは世界中でレース活動を行っており、僕はグローバルモータースポーツ全体のタイヤ開発・技術開発の責任者となります。日本のスーパーGT、スーパー耐久などはもちろん、アメリカのインディカー・シリーズ、2026/2027年シーズンから供給を開始するFIAフォーミュラE世界選手権、オートバイのEWC(FIM世界耐久選手権)などを含め、全体を見る立場ですね。
──少し聞きづらいのですが、給与面ではマクラーレンのほうが高いのかなという想像があるのですが、それよりもチャレンジすることを選ばれたのでしょうか?
今井:どうなのでしょうか(笑)。でも、やはりチャレンジや新しいことが好きです。結果的にはマクラーレンに長年在籍しましたけど、そこで留まっているのではなく『もっと自分で違うことができるのでは?』ということは常に思っています。
もともと僕の専門分野はタイヤですので、マクラーレンにいたときもタイヤからスタートしました。ですが『もっとこういったことができるのでは?』という考えは忘れないようにしていました。ブリヂストンに戻って新しい仕事を始めるにしても、その考え方を持ち込み、一緒に働く仲間、周りで協力してくれる仲間を含め、チャレンジしていく姿勢で仕事をしたいです。
──では、今井さんのチャレンジを含め、ブリヂストンという会社から期待されている部分はどういったものになりますでしょうか?
今井:僕が担当させていただく分野はモータースポーツタイヤ開発・技術になります。ですので、良い製品、良いタイヤを作ることが一番の根底にあります。ですが、それが最終目標ではなく、レースで言えばチームとドライバー、レースオーガナイザー、観客のみなさん、一緒に働いている人に楽しんでもらえるものを供給し、サポートしていくことがミッションだと思います。
F1の仕事をしているときには『仕事をしている人が一番楽しそう』とよく言われていました。そのときは『そんなことないですよ〜』と返していましたけど、実際には楽しんでいたのだと思います(苦笑)。だからこそ、見ている人にもそれが自然と伝わり、みなさんが興味を持つことでF1の人気が出るのだろうなと思いました。
たとえばMLBの大谷翔平選手は、もちろん凄い人気もありますけど、おそらく彼自身、野球が大好きで楽しんでいるのだと思います。そのことが自然と伝わって大谷選手の人気があるでしょうし、野球そのものの人気が出ているという構図なのでしょうね。
ブリヂストンもそう思ってもらえるような、より楽しんでいる姿を見せられるようにしていきたいです。そして、ブリヂストンと一緒に働いているみなさんにも、それを広げていけるような活動ができるといいですね。少し風呂敷を広げすぎている感もありますけど(笑)、それが僕のチャレンジかなと思っています。
──実際、来季から供給が始まるフォーミュラEには、今井さんはどのように関わっていくのでしょうか?
今井:僕はフォーミュラE初年度(2014/2015年シーズン)の最終戦ロンドン大会を見に行ったことがあり、電気自動車がストリートレースをすることに『すごい世界があるのだな』と思ったことを覚えています。その後も何度か現場で見るチャンスがあり、今もどんどんと進化をしています。
我々がタイヤを供給するのは次の『GEN4』マシンからということで、まさしく今、開発の佳境に入っています。さまざまなサプライヤーが密接に開発を行っており、タイヤだけでなく、全体のパッケージとして良いクルマを作っている最中で、非常に面白いクルマができるのではないかなと思っています。
──これまでのフォーミュラEは全天候型のタイヤが供給されていたかと思いますが、ブリヂストンもコンセプトは継続になるのでしょうか?
今井:全天候型スペックという意味では、そのコンセプトを継続することになっていますが、クルマのスペックそのものがまったく別クラスになっています。従来のマシンより数段階、パフォーマンスが上がるクルマになると思うので、タイヤもそれに対応できるスペックを供給しないといけません。
我々はレースだけではなく、さまざまな商品カテゴリーのタイヤ開発において『ENLITEN(エンライトン)』という商品設計基盤技術の搭載を進めています。エンライトンはひとつの性能だけではなくタイヤ性能全体を向上させたうえで、特に強化したい性能にエッジを効かせるというコンセプトです。当社が持っているさまざまな技術を活用することで、マシンに必要な性能と、天候への対応力を両立させる難しいフォーミュラEのタイヤ開発テーマに、今まさに取り組んでいます。
──ブリヂストンは2023年に、F1次期タイヤサプライヤーへの入札を行いました。結果としてはピレリの継続ということになりましたが、次の再入札の可能性はあるのでしょうか。
今井:期待していただくことは非常に嬉しいのですが、現在はフォーミュラEに注力を注ぐということで、特にお話できることはありません。また、現時点ではスーパーGT、スーパー耐久、インディカー、フォーミュラE、EWCなど、いろいろなチャレンジがあり、それを乗り越えていかないといけません。
僕は今までスーパーGTのタイヤ開発は外から見ていましたけど、日本に戻ってから実際に見てみると『こんなことをやっていたのか!?』と、驚くことがたくさんありました。チャレンジし続けてくれたことに対して嬉しく思った一方で、これで終わってはいけない、もっと挑戦しようという気持ちも湧きました。
──スーパーGTには他のタイヤメーカーも参戦していますが、コンペティションとワンメイクレースでは開発、アプローチの仕方は異なるのでしょうか。
今井:レースを見ていただく方、関わる方、周りの方に喜んでもらうものを作るという意味ではまったく同じです。ただ、それを達成するための手段として、クルマのなかでタイヤが唯一地面と接している重要性を常に念頭に置きながら、ワンメイクであれば性能が高く安定した製品を供給すること、コンペティションであれば、高い性能のものを安心して使用できるように供給することが使命だと考えています。また、レースの成功とみなさんが喜んでいただけるものを供給することが最終目標だということは忘れないようにしたいです。
──今井さんはモータースポーツ管掌という立場ですが、たとえばブリヂストンの市販車用タイヤへのフィードバックなどには関わるのでしょうか。
今井:僕の担当はモータースポーツ用タイヤの開発ですが、当然市販車用タイヤの開発部門とも非常に密接に連携しています。ゴムや化学薬品の配合、構造といったタイヤそのものの技術だけではなく、開発プロセスも期日が決まっているモータースポーツのスケジュールは参考になると思っています。最近よく言われるサスティナブルの分野でもモータースポーツの場で技術を極めていくことは重要で、共通している部分はモータースポーツと市販車部門で手を組んで進めています。
──16年ぶりに、東京都小平市のブリヂストン技術センターに戻られた印象はいかがですか。昨年『Bridgestone Innovation Gallery』にモータースポーツギャラリーが新設されるなど、変貌を遂げています。
今井:場所としては同じなのですが、全然違う場所のように感じますね(笑)。日本に戻る機会もなかなかなく、ブリヂストンの現状をまったく知りませんでしたが、みんなタイヤが好きで、開発にチャレンジしていることを知ってすごく嬉しくなりましたね。
僕や当時のメンバーがF1を担当していたときのスペックは『これはかなり凄いものを作ったぞ』という僕なりの自負があり、世界中にタイヤエンジニアが何人いるかは分かりませんけど、おそらく誰に言っても『こんなことをやったのですか!?』と言われるようなタイヤを作っていたと思っていました。
ですが、今回戻ってきたら、さらに進化していて凄いなと思いました。詳しい内容を説明できないことが残念なのですが、個人的には非常にワクワクしています。そういったワクワク感を含め、ブリヂストンのみんなに『自分たちは凄いことをしている』という認識をもう一度してもらい、見ていただくみなさんにも、そういったことが少しでも伝わるような仕事ができるといいなと思っています。
──改めて、ブリヂストンにとってモータースポーツはどのような位置づけにあるのでしょうか。
今井:ブリヂストンにとってモータースポーツは『極限への挑戦』の場であり、『走る実験室』として人材や技術を磨いていく場です。そういった意味では、僕が1990年になぜブリヂストンに入社したかというと、1983年ヨーロッパF2選手権の第8戦ドニントンにスポット参戦した星野一義さんが4位に入ったとき、星野さんのタイヤをブリヂストンが供給していました。
そのときの映像をブリヂストンがテレビコマーシャルとして使用していて、チョークで『ホシノガンバレ』と書かれたすごく印象に残るシーンがありました。ほんの0.2秒くらいのシーンでしたが、それを見たとき、もちろん星野さんのいろいろな想いでレースをしていることを思ったと同時に、ブリヂストンで仕事をしている人たちの想いも乗っているのだと感じました。
そのシーンを見てゾクゾクっとして『僕はブリヂストンに行かないといけない』と思ったことがキッカケです。少し質問から外れてしまったかもしれないですけど、そういったことは非常に大切だと思いますし、ブリヂストンはそんな想いを昔から持っている会社だと思うので、その情熱をモータースポーツを通じて表現できればなと思っています。
──F1から撤退した2008年、2009年以降、ブリヂストンのモータースポーツ活動が一時的に小さくなっていった時期がありましたが、近年はさまざまなカテゴリーに供給を増やしています。今後のモータースポーツ活動にも期待して良いでしょうか。
今井:2023年にブリヂストンのモータースポーツ活動は60周年を迎え、石橋秀一グローバルCEOから『モータースポーツは我々の原点で、もう一度グローバルモータースポーツをふたたびやっていこう』というメッセージをいただいています。そんななかで僕も全力を尽くして取り組んでいきたいです。
──ここからはオートスポーツweb視点、F1ファン目線で質問させていただきたいのですが、今井さんはマクラーレンとの契約は当然クリアになってブリヂストンに戻られたわけですが、いわゆる『ガーデニング休暇(F1で他チームへの情報流用を避けるために活動を制限する契約内容』のような縛りはなかったのでしょうか?
今井:契約はもちろん問題ありません。縛りの部分は契約書にさまざまな条件が書かれていましたね。ですが、今回は他チームではなくブリヂストンに移るということなので、マクラーレンには事前に話をして、しっかりと話し合いをしてクリアになっています。
──2025年のF1では古巣のマクラーレンが好調です。昨年よりも強くなっていることを感じますが、今季の活躍をどのように見ていますか。
今井:そこまで強いですかね(苦笑)? たとえば中国GPは決勝でワン・ツーでしたけど、予選はワン・スリーだったじゃないですか。まだ全然足りていないですよ。現場で仕事しているときと比べると、中継から得られる情報量は圧倒的に少ないですけど、見ていれば『こういったことを考えているのだろうな』ということは分かります。
2024年はコンストラクターズタイトルを獲得しましたが、何年も前から僕を含めたチームメンバーがいろいろな準備をして、それが花開いてきたのが2023年から2024年シーズンでした。今年はその延長線上でレースを戦っていると思いますが当然、他チームもマクラーレンが何をしているかは、よく見ていると思うので、すぐにキャッチアップしてくるでしょうね。
──さすが、厳しい見方ですね。では、マクラーレンの『パパイヤルール(チームメイト同士で自由なレースを許可すること)』は、いつぐらいからチーム内で言われていたのでしょうか。
今井:パパイヤルールは、正直に言うと報道されているような感じで使用されている言葉ではありません(笑)。いろいろな話をしているなかで、レース中にはすべての内容をずっと話すわけにはいかないので、説明を短くするために使われているキーワードの言葉なだけです。ミーティングなどで言っていたわけではありませんし、パパイヤルールの内容もレースによって変わります。
──そうだったのですね。最後になりますが、今季の今井さんは開発の現場での研究仕事がメインになるのか、それともレース現場に来場するのか、どのようなものなるのでしょう。
今井:どちらも合わせたミックスになると思います。国内のスーパーGTやスーパー耐久にも時間があれば行きたいと思っていますし、アメリカのインディカー、フォーミュラEの開発テスト、EWCなどを含めてカレンダーに入れると『どうしたらいいのか……』というほど忙しくなります(苦笑)。
インディカーの開発拠点はアメリカ・オハイオ州に、フォーミュラEの協力拠点はイタリア・ローマにあるので、日本を含めた3拠点を回りながら仕事をする予定です。でも、仕事のプレッシャーがないところからF1を見たら、どんなふうに見えるのかということには少し興味がありますね。
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モータースポーツ活動60周年を迎えたブリヂストンが初めて設置したモータースポーツ管掌に就任した今井さん。相変わらずのスマートな印象とともに、今まで以上にタイヤエンジニアというより、“レース好き”“実は勝負師”的な面を感じさせた。四輪レースの最高峰であるF1をトップチームのマクラーレンで経験した今井さんの知見、そして旺盛なチャレンジング精神で、今後のブリヂストンのモータースポーツ活動はどんな展開を迎えるのか。日本のモータースポーツにまた、楽しみな要素が増えた。
●プロフィール 今井弘(いまい・ひろし)東京大学大学院卒業後、1990年にブリヂストン入社。日本とヨーロッパで自動車メーカー向けタイヤ開発に従事した後、2003年からF1タイヤを始めとしたモータースポーツタイヤ開発およびレースオペレーションに携わる。2009年にはマクラーレン・レーシングに加入し、タイヤ、車体のプリンシパル・エンジニアを務め、近年はサーキットで現場の指揮を取る『ダイレクター・オブ・レースエンジニアリング』および『ダイレクター・オブ・タイヤ&ブレーキパフォーマンス』でチームに貢献した。2024年シーズン終了後にマクラーレンを退職し、2025年2月末にブリヂストンに復職、3月1日付で常務役員モータースポーツ管掌に任命されている。
[オートスポーツweb 2025年04月10日]