「わいせつか、芸術か」議論された「愛のコリーダ」はじめ過去作、旧作 現代に改めて見る意義

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2025年04月14日 05:01  日刊スポーツ

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「愛のコリーダ」(C)大島渚)プロダクション

<ニッカンスポーツ・コム/芸能番記者コラム>



24年に没後10年を迎えた、高倉健さんの代表作の1つである75年の「新幹線大爆破」が再構築、リブートされ、23日からNetflixで配信がスタートすることが話題となっている。高倉さんの12年の遺作「あなたへ」で共演を果たした草なぎ剛(50)が主演し、樋口真嗣監督が手がけた。元となった高倉さんの作品は東京・丸の内TOEIで開催中の特集上映「昭和100年映画祭 あの感動をもう一度」で見るチャンスがある。今年が昭和100年にあたることを受けて、昭和の時代を彩った名作・ヒット作42本を一挙上映する同企画で、22日に「新幹線大爆破」が上映される。


過去に作られた作品が、後世に時代に合わせて作り替えられて発表、公開されることがある。作品に時代を超える力があるからこそ、なせる業だろう。一方で、配信の普及やDVD、ブルーレイ化で作品を見る機会はあったとしても、新作の映画、ドラマが次々、世に生み出される中、わざわざ見ようという人は、どれくらいいるだろうか?


ただ、過去作、旧作と言われる作品は、その時代だからこそ作ることができたもの…裏を返せば、現代においては作ることが難しい、もしくは不可能と思われる作品が少なくない。CG、VFX(特殊視覚効果)の技術が進んだ現代であれば、ブルーバックなどを背に俳優が演じるところを、そうした技術がない時代は、危険なシチュエーションでも俳優自ら体を張って演じている。実際に演じただけに、映像から伝わってくる迫力は真に迫っている。


現代においては、そこまで表現すること自体、難しいのでは? と思われる作品もある。3月16日に都内で行われた第6回大島渚賞記念上映会で上映された、1976年(昭51)年の藤竜也(83)の主演映画「愛のコリーダ」も、そうした作品の1つだろう。同作は、愛人の女性が交際中の男性を殺害し、切断した性器を持ったまま逃亡した、1936年(昭11)の猟奇事件「阿部定事件」をモチーフに、大島渚監督が男女の情念と官能の世界を描いた。藤が料亭「吉田屋」の主人の吉蔵、11年に亡くなった松田英子(暎子)さんが、店の住み込み女中の定を演じた。


世界3大映画祭の1つ、カンヌ映画祭(フランス)に併設して開催される、フランス監督協会主催の監督週間に出品され、11回も上映されるなど大きな反響を得た。一方で、性器が露出するなど濃厚なセックスシーンが多数、描かれたことから、76年10月に日本国内で公開された際は、フィルムが2分間以上もカットされ、性器が露出したセックスシーンなどにはボカシを入れるなど、大幅な修整が施された。海外では無修整のまま上映された国もあり、大島渚監督は当時「これは私の作品ではない」と憤慨した。


「わいせつか、芸術か」の議論は、社会現象となった。さらに、作品のスチール写真や脚本を掲載した同名の単行本が、刑法175条に規定された、わいせつ物頒布罪に当たるとして、同監督と出版社社長が77年8月に起訴された。大島監督は「わいせつ、なぜ悪い」と、憲法で保障された表現の自由を主張し、79年の1審、82年の控訴審ともに同監督らに無罪判決が出た。製作から足かけ7年にわたった裁判だった。


2000年には、再上映された。上映にあたり、配給はカットされた部分の復活と、ボカシのないオリジナルプリントの上映を目指し、大島監督の許可を得て性描写をめぐる映倫との協議に入った。ノーカットでの上映こそ実現したが、性描写に対する映倫規定は「性器、恥毛は原則として描写しない」となっており、15カ所にボカシが入った「愛のコリーダ2000」として24年ぶりに劇場公開。21年には「愛のコリーダ 修復版」として公開された。


第6回大島渚賞記念上映会では、主演の藤と、藤を03年の映画「アカルイミライ」で起用した黒沢清監督(69)のトークショーが開かれた。トークショーの前に「愛のコリーダ」本編が上映され、本編の鑑賞含め取材した。以前、鑑賞したのはずいぶん前のことで、性交シーンは腰から下がカットされていた覚えがあった。それが、第6回大島渚賞記念上映会で上映されたバージョンは、ぼかしこそ入っていたが下半身はカットされておらず、アンダーヘアなども、ずいぶん見えており、過去に見たものとは、ずいぶん違う印象を受けた。


第6回大島渚賞記念上映会で上映されたバージョンは「愛のコリーダ 修復版」。HDカムSR素材を元に、作品全体のフィルム傷やゴミを除去するレストア処理をした上で、退色しているシーンのカラーコレクションを行い、当時の色を再現している。オリジナル版から足されたシーンはないが「愛のコリーダ2000」の時にはなかった、子どもの裸にボカシを入れる指示が映倫からあったという。


藤はトークショーの中で「最初、私の予定じゃなかったみたいで」と、当初は吉蔵役にキャスティングされていなかったと明かした。「製作発表の2、3日前に崔さんから『赤坂の事務所で大島さんに会ってくれませんか?』と電話があった」と、大島組のチーフ助監督だった崔洋一さんから連絡があったと説明。その後、台本を手にしたが「その場で読んで欲しいと読み始め…セックスシーンが多いんで、ぼうぜんとしちゃいましたけど。これ、映画になるのかな? と」と、セックスシーンがあまりに多く、驚いたと振り返った。それでも「セックスシーン、セックスシーンと重ねた向こうの、男と女の情念を表現できる。実際、人間は、そうだもんな、いいなと思った」と納得したという。


鑑賞し、藤の話を聞きながら、現代において「愛のコリーダ」のような作品、表現をすること自体、相当難しいだろうと思わずにはいられなかった。ここまでのセックスシーンを演じることに、抵抗を感じる俳優も少なくないだろうし、事務所に所属していたら、なおさら出演を許すだろうか? 俳優の方でやると腹を決めて出演し、演じたとしても、作品を完成させる過程の編集段階で、局部と分かるシーンは、そもそも入れないのではないか。


そうした、現代では製作、表現が難しいと思われる名作、旧作をスクリーンで鑑賞する機会は、名画座の減少により少なくなった。一方で「昭和100年映画祭」のように、特集上映などでチャンスはある。古いもの、過去のものとしてではなく、現代では見ることができない、ある意味、新鮮なものとして見てみてはいかがだろう? きっと、新たな発見があるはずだ。【村上幸将】

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