画像はイメージです世の中は「ブラック企業」「人手不足」というような言葉に代表される仕事への悲壮感に溢れているが、本当の絶望はそんな優しいものではない。石の上にも3年なんて通説は真っ赤な嘘で、3日で逃げるべき仕事が世の中にはたくさんある。はりぼての労働基準法は多くの労働者を強固に守っていない。これは公的な数字にも表れている。
厚生労働省が公表する「労働基準関係法令違反に係わる公表事案」では、過去2455件の企業が掲載され、現在でも400以上の企業が掲載され続けている。
そんな現状からに逃げたくて人は必死に独創的で自分にしかない生き方を模索したりするけれど、大抵は努力実らず行きたくない職場にしぶしぶ足を運ぶのだ。
僕もそんな中で疲弊し、さまざまな職種を転々としてきた。
ハローワークから大手求人誌、日雇いサイト、電柱に貼られた蛍光色の紙に書かれた求人まで、いろいろな媒体で求人に応募し、実際に働いた中で僕が出会った「ブラック企業」を超えた「漆黒企業」をご紹介したい。
◆蒲田の居酒屋で出会った飲んだくれにスカウトされる
流行り病が日本に蔓延しだしたころに僕の勤める会社は倒産した。世の中が不況に喘ぐ中、たった3年間会社に勤めていただけの僕の転職活動がうまくいくはずもなかった。貯金がなくなるストレスが頂点に達して海に飛び込んだが、死にきれず……。生きている実感を持てないまま、日々ボーっと過ごしていた。
失業手当も底を尽きはじめたし、流行り病が家族にうつると村八分にされる恐れがあったせいで、故郷の静岡にも帰れなかった。自らを取り巻く悲壮感を紛らわそうと、老夫婦が営む近所の居酒屋で毎晩気が狂ったように酒を煽っていた。そこに現れたのがのちに僕が勤めることになる防水加工業者の“ヒロさん”だ。
ヒロさんは、時々奥さんと店に来ていたが特に接点はなく、味のあるタトゥーを入れたおじさんぐらいにしか思っていなかった。だが、店主に「仕事見つからないんですよ」とぼやいているのを聞くや否や、自分のテーブルに僕を招いて事情を聞くと「かわいそうに、うちで働けばいいやん! 道具も全部買ってあげるし!」と誘ってくれた。
◆朝7時の時点でレモンサワーの缶を片手に…
それまでオフィスワーカーだったガリガリの僕を温情で雇ってくれるというのだから、それはもう乗り気になった。翌朝から働くことを約束して家に帰ると、仕事が見つかった安堵感からすぐに眠りにつき、翌朝5時に目を覚ました。
「千馬君おはよ〜」
自宅近くのセブンイレブンまで僕を迎えに来てくれたヒロさんは右手に缶をヒラヒラさせながら僕に声をかけてくれた。和やかな勤務初日になりそうな予感がした。それがレモンサワーの缶であることに目を瞑れば……。朝7時前なのに平然と酒を片手に運転しようとしている……。この人を信用していいのかわからなくなり、渋い顔をしているとおもむろに一万円札を差し出された。
「これ、今日の日当! 朝早く起きてくれてありがとうね」
◆“屋根の上”で缶チューハイを手渡され、大いに困惑
一万円を見て全てがどうでもよくなった。貧困という砂漠への水である現金は他の何より優先されるのだ。そうしてレモンサワーを片手に持ったいかついおじさんと共に、横浜スタジアムにほど近い現場に向かった。その日は屋根の防水加工で、ヒロさんは高所にビビる僕を尻目にどんどんと足場を登っていった。
そこにもう一人、初老の太ったおじさん社員の渡部さんが合流し、軽い段取りの説明があり、作業がスタートした。ふたりとも僕に優しく手取り足取り作業を教えてくれて、現場仕事で怒鳴られないことに感動を覚えながら気持ちよく仕事をさせてもらっていたのだった。
そうして少し新たな職場への緊張がほぐれてきた頃「千馬君酒好きだって聞いたよ!」という大声と共に僕の目の前に酒の缶が差し出された。酒は確かに好きだけどまだ昼間の10時、三角屋根の上で仕事をしているなかで缶チューハイを飲むのは明らかにおかしいのではないか。
おかしいけれど、はっきり断れば角が立ってしまう気がして、引き攣った笑いを浮かべながら差し出された酒を受け取った。しかも、当時流行っていたアルコール9%の代物だったから余計にタチが悪く、缶を作業着のポケットに隠して仕事を続けた。
◆覚悟を決めて、缶を開けるも…
その後も食事休憩や15時の煙草休憩が挟まるたびに酒の缶を手渡され、その度に全てポケットに隠していたが、その重量がおそらく2キロを超えたころ、ポケットからカチャカチャと音がするたびに二人が僕を睨んでいるような気がしてきた。酒を隠していることがバレはじめたのだろう。案の定、ヒロさんが僕に声をかけてきた。
「ちゃんと水分とらなきゃだめだよ! せっかく渡井が買ってきてくれたのに」
「余計脱水症状が進むのでは……」と思わず呟きそうになるのをグッとこらえてポケットから一本の酒を取りだし、プルタブを引いた。できれば仕事終わりに聞きたかった軽快な音が鼓膜に届いた瞬間、脳裏に浮かんだのは酔っぱらって屋根から転げ落ちる自分の姿。僕は無意識のうちに缶の中身を屋根にぶちまけてボーっと立ち尽くした。ヒロさんも渡井さんも顧客の屋根に伝う液体に慌てふためき、しばらくしてどうにもならないことを悟って、諦めたような目で僕を見つめた。
「千馬君、悪いんだけど今日で終わりだわ。目上の人間の酒くらいちゃんと飲みなよ」
◆1か月後に聞いた、あまりに残酷なヒロさんの現状
ヒロさんが低い声で発したその一言は数年経った今も鼓膜に焼き付いている。それは、職なし貧乏暮らしの再開を告げる地獄のゴングだった。
そうして仕事をクビになった僕は金が尽きるまで飲んで、生まれ故郷の静岡に引っ込もうと考えた。毎日ヒロさんと出会った居酒屋に入り浸り、宵越しの金は持たないとばかりに酒を飲み続けて1か月ほど経った頃、ヒロさんの奥さんがひとり店に入ってきた。初めて会った時よりも随分やつれ、以前のような軽快な笑顔はどこへやら、強めの悲壮感を漂わせていた。
「千馬君、ヒロが飲酒運転で事故して起きなくなっちゃったの……」
そういって俯く奥さんになんと声をかけたらいいかわからず、その日は店が閉まるまで無言で酒を飲み明かした。その帰り道「千馬君はまっとうに頑張りなさいね!」と肩を叩かれた。なんだかしっかりしなければいけないような気がして、僕は次の日から居酒屋に通うのをやめ、転職活動を再開した。
それからほどなくして、路上で会った居酒屋の常連客から、二人が離婚したという話を聞いた時に自然と涙がこぼれたのは、ここだけの話だ。いつか誰か幸せにしたい相手ができた時のためにしっかりと生きていこうと誓った。
人は誰しも、生きていればふいに誰かを不幸にしたり、迷惑をかけてしまうことがある。酒を飲みすぎるせいだったり、ギャンブルにのめり込むせいだったり、異性にだらしなかったり、仕事が続かなかったり連絡を返せなかったり……と原因は様々だ。これを読んでくれている方々も現在進行形で誰かを不幸に陥れているかもしれない。でもそんな時、大切な人の顔を思い浮かべてほしい。大丈夫、まだきっと取り返しがつくのだから。
<TEXT/千馬岳史>
【千馬岳史】
小説家を夢見た結果、ライターになってしまった零細個人事業主。小説よりルポやエッセイが得意。年に数回誰かが壊滅的な不幸に見舞われる瞬間に遭遇し、自身も実家が全焼したり会社が倒産したりと災難多数。不幸を不幸のまま終わらせないために文章を書いています。X:@Nulls48807788