(画像:いきものがかり Instagramより) いきものがかりの水野良樹が4月14日に自身のX(旧Twitter)アカウントを閉鎖しました。
その直前の投稿、<ツアーのチケットの売れ行きがヤバくて>との告白に驚きの声が広がっています。
◆三浦大知に続き、いきものがかりもチケット売り上げ不振を明かす
いきものがかりといえば、朝ドラ『ゲゲゲの女房』の主題歌「ありがとう」や、ロンドン五輪のテーマ曲「風が吹いている」、そして卒業式の定番となった「YELL」など、数多くのヒット曲を持つ国民的グループです。2000年代半ばから2010年代のJ-POPシーンを代表するアーティストと言っても過言ではありません。
それぐらいにビッグなグループでも、わずか10年ほどでこのような苦境に陥ってしまった背景には、一体何があるのでしょうか?
同じようなケースで話題になった三浦大知について、筆者は『日刊SPA!』に関連記事を寄稿しました(三浦大知「半分余っています」チケットの“売れ残り”告白が話題に。“ちょっと興味あるから行こうかな”ができない二つの要因)。
チケット代の高騰に収入が追いつかない経済的な状況、そのためアーティストと熱心なファンだけの商業圏が固まってしまい、一般の客が関心を寄せにくくなっていることなどを、チケット売り上げの不振の理由だと考察しました。いきものがかりも、概(おおむ)ねこうした負のサイクルにハマってしまったと言えるでしょう。
しかし、今回はもう一歩踏み込んで考えてみたいと思います。それは、アーティストの価値についてです。
◆CDバブルの時代に音楽の裾野が広がった分、薄まったプロの匂い
平成初期のバンドブームから90年代終わりのCDバブルにかけて、日本の音楽市場はピークに達しました。消費者にとって最も身近な趣味が音楽であり、間口が広がった時代です。
こうして純粋な分母が大きくなった一方で、音楽からプロの匂いが薄まっていきました。技術や知識が豊富な職人、技術屋はいても、聞き手を突き放すような価値観を提示する“大人の玄人”が絶滅してしまった。これが、音楽の裾野が広がったことの弊害です。
歌謡曲を代表する作曲家の浜口庫之助は、かつて“音楽が売れることでアマチュアの裾野は広がったけれども、一方でトップオブトップは全く充実していない”と、自著で語っていました。
CDバブルの遥(はる)か前に指摘されていたこの問題が放置されたまま、玄人の存在しないかりそめの繁栄を迎えてしまった。ここに、アーティストの存在価値が急落した根本原因があるのではないでしょうか?
◆“刺さる”スピードが早いとヒットするが…
そこで今回のいきものがかり。彼らの曲には聞き手との共感が土台にあります。歌詞の面でもメロディ、サウンドの面でも、リスナーオリエンテッド、ユーザーフレンドリーな製品です。つまり、聞き手の価値観に合わせて、アーティストは作風を固めていくわけですね。
いまよく使われる“歌詞が刺さる”などの言い回しは、すべて素人である聞き手の価値観におもねった売り文句です。そして、そのように共感、“刺さる”スピードが早いほどに、その曲やアーティストはヒットする。
けれども、そのようにしてすぐに理解され、共感されることは、食品にたとえるなら足が早いということにはならないでしょうか。
たとえば、<サヨナラは悲しい言葉じゃない それぞれの夢へと僕らを繋ぐ YELL>(「YELL」 詞・水野良樹) という歌詞は、実にわかりやすい。意味も状況も心境も、その場で一義的に把握できます。
メロディもこの詞にふさわしく、マイナーコードを上手に活用して若い感傷を刺激する。
しかしながら、すべての感覚が統一されたクリアな味わいからは、本来音楽が持っている重層的な含みが失われています。だから、曲を聞いたその瞬間以外の味わいがなく、ヒット曲はすべて瞬間最大風速的に消費され、その祭りが過ぎたあとには何も残っていないという状況が生まれるのですね。
◆市場とヒットチャートの高速サイクルにひそむ貧しさ
すぐに共感、理解されるものは、何年も寝かせておけません。けれども、市場とヒットチャートの高速なサイクルが、音楽を良い意味で飼い殺しにしておける社会的な豊かさを許してくれない。
いきものがかりの一連のヒット曲も、売り上げの数字と反比例するように、この潜在的な貧しさを示していると言えないでしょうか?
だから、水野良樹の告白には慢性的な疲労が滲(にじ)んでいたのだと思います。
<文/石黒隆之>
【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4