
日本の専業主婦世帯の割合は、2022年に夫婦がいる世帯全体の29.9%となり、3割を下回った(総務省統計局「労働力調査」より)。この20年で、共働き世帯の半分以下となっている。そんな専業主婦を主人公とした新たなお仕事小説『対岸の家事』(講談社)を執筆したのは、『わたし、定時で帰ります。』など、仕事や労働について多くの作品を執筆する小説家の朱野帰子氏だ。
【写真をみる】“対岸にいる人”を演じる多部未華子、江口のりこ、ディーン・フジオカ
「専業主婦を主人公に、新たな視点で描きたい」という思いから、5年の歳月をかけて執筆した本作は、現在TBS系火曜ドラマ『対岸の家事〜これが、私の生きる道!〜』として放送中。令和7年の今、“対岸にいる人”たちが抱える多様な悩みに、主人公の村上詩穂(多部未華子)が専業主婦の立場から手を差し伸べている。さまざまな立場の人々が多種多様な悩みを抱える本作で、いかにしてキャラクターのリアリティを生み出したのか。
専業主婦の生活に厚みを持たせるために、昼間の景色を大切に描く朱野氏が小説家になったのは2009年。それまでは会社員として働いており、その経験から仕事や労働をテーマにした作品を執筆するようになった。本作に登場する、働きながら育児に奮闘するキャラクターの大枠は、そんな自身の経験から形成されている。しかし、本作の主人公である専業主婦という立場については、全てを理解しているわけではなかったという。
「私はフリーランスなので、外で働いている人たちに比べれば、昼間の街で起きていることはよく知っています。でも、完全に専業主婦というわけではないので、その感情を描けるのかという不安がありました」と朱野氏は語る。
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専業主婦のキャラクターに厚みを持たせるため、実際に専業主婦をしている友人に意見を求めたという。「第1稿時点の原稿を読んでもらったところ、『詩穂と苺が天井に映るメダカの鉢の光に感動するシーンはよかった』とだけ褒めてくれました。ただ、 “家事を完璧にやっている主婦像”にはあまり共感しなかったようです。そうなんだ、と思いながら修正を重ねていきました」と振り返る。
働いていると見る機会が少ない昼間の世界。朱野氏も日中に街を散策する中で、印象的な光景に出合った。「“麦茶が焦げている匂いがする”という描写は、歩いていた時にすれ違った女性から『この家から麦茶が焦げている匂いがするんだけど、あなたはどう思う?』と話しかけられたことがきっかけで入れました」と裏話を明かす。
こうしたリアリティを作品に取り入れるため、主婦パートは全て書き直したという朱野氏。「自分の経験ではないのでどう描くか悩みました。詩穂のキャラクターをもっと尖らせた方へ振ったこともありましたが、最終的には、すぐ近くにいそうな令和の専業主婦にすることにしました。出版まで5年かかったのは、その試行錯誤の結果かもしれません」と振り返る。
“名もなき家事”が他人事にならないためにできること生活するうえで必要な細々とした“名もなき家事”。小説では深掘りすることができなかったというが、ドラマではその“名もなき家事”についても描かれる。朱野氏は「“名もなき家事”は作業そのものの大変さよりも、家庭から、地域から、あるいは社会から、引き受けている労働をないものにされてしまうことへの絶望が大きいんですよね」と自身の考えを教えてくれた。
近年、働き方やライフスタイルは多様化している。「以前は共通のライフスタイルがあり、共感しあえることが多かったですが、多様化によってそれがなくなってきた。孤独に心が蝕まれやすい時代だと思います。自ら選んだ人生だったとしても、これで良かったのかと揺れてしまって、スタンスを保つのが難しくなっているのではないでしょうか」と朱野氏は語る。
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詩穂だけでなく、働くママ・長野礼子(江口のりこ)や、二年間の育休を取得したエリート官僚・中谷達也(ディーン・フジオカ)も、追い詰められるシーンも描かれている。そんな彼らが同じ悩みを持つ人と話すことで、問題解決のためのエネルギーを得ていく姿に背中を押される人も少なくないだろう。「みんなそんなにうまくいってないんだと分かることで、つらい家事も乗り越えられると思うんです。家事従事者は家族の感情ケアをすることになりがちですが、それも”名もなき家事”ですよね。押しやられた自分の感情を復活させるために、誰かと話すことが大事だと思います」と、“話す”ことの重要性を提案する。
なぜ育児や介護は“対岸”になりやすいのか?――朱野氏の視点4月から「改正育児・介護休業法」が施行された。子の看護休暇や残業免除の対象範囲拡大や、介護離職を防ぐための雇用環境整備など、より柔軟な働き方を実現するための措置が盛り込まれている。
ドラマ化と法律改正のタイミングが重なったことについて朱野氏に尋ねると、「子育ては当事者の数が少ないと言われています。子育て経験者も過ぎてしまうと、別の問題にむかってしまう。介護しながら働く人も増えてはいるものの、まだまだ会社の中では少数派ですよね。そのため、なかなか大きな声にならないのではないでしょうか」と語る。
また、小説では中谷が国土交通省勤務の設定だったが、ドラマでは厚生労働省(以下、厚労省)勤務に変更された。これは朱野氏自身がドラマ制作チームに提案したという。「執筆後、元厚労省職員が書いた『ブラック霞が関』(新潮新書)を読み、施策を考える厚労省の人たちがそもそも家庭にいる時間が持てず、昼間の街を見ることができないと知りました。ドラマ化の話をいただいた時、それを思い出し、設定変更を提案しました」。
尽きない“家事”の悩みは朱野氏にも“名もなき家事”をはじめ、家事の悩みは尽きない。朱野氏も例外ではなく、特に苦手なのは整理収納だという。
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「フリーランスには育休もないので、落ち着いて整理収納する時間を作ることが難しかった」と語る朱野氏は、現在、整理収納アドバイザーの力を借りて片付けに取り組んでいる。そのきっかけは、子どもの写真を見返した時。「子どもはかわいいのに、背景に散らかった服や書類が写っていて悲しくなったからです。片付いていない家ではものをなくしやすいので、家事負担も大きくなりがちです」と打ち明ける。
朱野氏は撮影現場を訪れた時、礼子の家を見て共感したという。「詩穂の家は整理収納がきちんとしていたのですが、礼子の家を見たら、自分の家なのではないかと錯覚しました(笑)」。
人生には迷いがつきものだ。たとえ道に迷っても、共感し合える誰かがいれば、また歩き出せる。家事も仕事も育児も介護も、全ては社会の中でつながっているはずなのに、個人の問題として片付けられてしまうことが多い。 『対岸の家事』が共感を呼んだことについて、「作品に登場する人物たちのように、うまくいかない家事について誰とも話せてない人が多いからではないでしょうか」と朱野氏が語るように、この物語は、家庭や職場、社会の中で孤立しがちな人の悩みに光を当てる。誰かの苦しみを“対岸”の出来事で済ませないように、私たちはどう向き合うべきなのか。