
連載第47回
サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
今回は、現在サウジアラビアで決勝大会が開催されているAFCチャンピオンズリーグエリート(ACLE)について。日本勢の初優勝は約40年前の古河電工(現ジェフユナイテッド千葉)。超絶アウェーのなか頂点に立った快挙でした。
【サウジアラビア勢強し】
ACLEの決勝大会が、サウジアラビアのジッダで開催されている。
準々決勝が終わった段階で、開催国サウジアラビアの3クラブが圧倒的な強さを発揮して勝ち残ったなかで、川崎フロンターレがカタールのアル・サッドを破って東地区代表として唯一勝ち上がった。
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アル・サッド戦は、相手に個人能力の高い選手がいて苦しい試合になったが、うまくスペースを使って攻撃し、川崎らしいパス回しを見せることもできた。アル・サッドは攻撃力は高かったが、守備の緻密さに欠けていたので、川崎としてはJリーグでの戦いに比べて余裕を持ってパスが回せた印象だった。
一方、横浜F・マリノスは完敗だった。クリスティアーノ・ロナウドやサディオ・マネ、マルセロ・ブロゾビッチといったワールドクラスの選手を揃えたアル・ナスル(サウジアラビア)に対して組織的守備でなんとか耐えていたものの、トーマス・デンの致命的なクリアミスから失点すると一気に4点を奪われ、なんとか渡辺皓太が1点を返したものの、その渡辺が2枚目のイエローで退場となって万事休した。
完敗ではあったが、アル・ナスルの守備強度もそれほど高くなかった。準決勝では、川崎にそのあたりを衝いてほしいものだ。
【中東寄りの大会運営】
いずれにしても、サウジアラビア勢の強さは際立っている。
しかも、準々決勝以降はサウジアラビアでの集中開催なのだ。ジッダの気温は30度を超えており、芝生もスリッピーで日本選手を苦しめている。
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2023−24シーズンの決勝で、横浜FMはホームの第1戦でアル・アイン(UAE)に2対1で先勝したが、第2戦では大敗した。その前のシーズンの決勝(2023年4〜5月)では、浦和レッズがアウェーの初戦でアル・ヒラル(サウジアラビア)と引き分け、ホームの第2戦を1対0で勝利して優勝を決めた。
広大なアジア大陸での大会では、ホーム、アウェーの影響は大きい。
だからこそ、昨季までのACL決勝はホーム&アウェー方式だったし、さらに公平性を期すため、あるシーズンで第1戦が西地区開催だったら、翌年は東地区で第1戦を行なうというレギュレーションになっていた。
ところが、ACLEに衣替えした今季から準々決勝以降は集中開催となり、舞台はサウジアラビアだった。それでも、もし来季の決勝大会が東地区で開催されるのなら公平性は保たれるが、来年もすでにサウジアラビアでの開催が決まっている。
サウジマネーの流入で優勝賞金が1000万ドル(約14億円)とアップしたのはありがたいが、大会形式は明らかに公平性を欠いている。
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ACLだけではない。代表レベルでもアジアカップは2019年UAE大会、2023年カタール大会と中東開催が続いており、2027年大会もサウジアラビアでの開催が決まっている。つまり、アジアサッカー連盟(AFC)は今では中東寄りに運営されているのだ。
日本サッカー協会はどうして抗議しないのだろうか? 韓国や中国、オーストラリアなども糾合して中東中心の運営には異を唱えるべきだろう。競技力(代表チームの実力)では、東アジアは中東に一歩も引けを取らないのだから。
【約40年前の日本勢の初優勝】
しかし、今後も中東での開催が続くのであるとすれば、なんとかアウェーでも勝利する方法を模索しなければならない。
そこで思い出すのが、1986年に行なわれた第6回アジアクラブ選手権(ACLの前身)だ。
サウジアラビアのリヤドで行なわれたこの大会の決勝ラウンドで、古河電工が3戦全勝で優勝したのだ。古河のほか、中国の遼寧省、サウジアラビアのアル・ヒラルとイラクのアル・タラバがベスト4に残っていて、総当たりで優勝を争った。
当初は1月開催の予定だったのが、突然1986年12月末に繰り上がり、天皇杯全日本選手権の日程とバッティング。当初はアジアクラブ選手権を棄権するとも噂されたが、日本サッカー協会が天皇杯への棄権を認めたことで、清雲栄純監督率いる古河は勇躍サウジアラビアに向かって飛び立った。
もっとも、当時、日本から中東への直行便はなかったし、サウジアラビアは国を閉ざしていて容易にはビザがおりない国だった。日本チームが中東で頻繁に試合を行なうようになったのも1990年代に入ってからのこと。当時、サウジアラビアはほとんどの日本人にとってまったく想像がつかない国だった。
つまり、"アウェー感"は今以上に強かったのだ。
日本サッカー界は1980年代に入ってかなり上向いており、1985年のメキシコW杯予選でも日本は最終予選まで勝ち残った。だが、日本はまだW杯でも五輪でもアジア予選を突破できていない時代だった。
それに対して、サウジアラビアはW杯出場こそまだなかったものの、1984年にシンガポールで開かれたアジアカップで初優勝(4年後のカタール大会で連覇達成)。1986年のソウル・アジア大会でも準優勝と、まさにアジアを代表する強豪だった。したがって、古河がアウェーの地でアル・ヒラルに勝てるとはまったく思えなかった。
実際、12月26日の開幕戦でアル・ヒラルと対戦した古河は31分に先制されてしまった。しかし、その後はリベロの岡田武史やディフェンシブハーフの宮内聡を中心に粘り強く守り、40分に奥寺康彦が同点とする。後半には日本サッカーリーグ(JSL)得点王の吉田弘が逆転弾を決め、さらに奥寺が2ゴールを加えて4対1とリード。その後、アル・ヒラルに追い上げられたものの、古河は完全アウェーの試合を4対3でものにしたのだ。
そして、その後、アル・タラバ、遼寧省にも勝利した古河は3戦全勝で優勝を遂げた。
【奥寺康彦が伝説の活躍】
奥寺は古河で活躍した後、1977年に西ドイツ(当時)のケルンに入団。以後、9季に渡ってブンデスリーガで活躍し、34歳になった1986年夏に古河に復帰していた。
西ドイツでプレーしていた時期には選出されなかったので、奥寺はその全盛期には日本代表でプレーしていない。復帰後には1987年のソウル五輪予選に参加したものの、日本は中国相手にアウェーで先勝しながら、ホームで敗れて予選敗退してしまった。
つまり、奥寺は代表ではあまり活躍できなかったのだ。したがって、アジアクラブ選手権での優勝。とくに、アル・ヒラル戦でのハットトリックこそが、日本のサッカーに対する奥寺の最大の貢献だった。
ところが、この古河の歴史的快挙については、残念ながらあまり知られていない。
当時、日本でのサッカーに対する関心は大きくなかったし、開催地がサウジアラビアだったため報道も小さく、もちろんテレビ中継もなかった。
僕はもともと古河のファンだったこともあって、どうしても映像が見たかった。
そこで、古河のサッカー部から現地での中継映像の録画を貰ってきた。VHS方式のビデオカセットで画質はよくなかったが、アウェーの環境に苦しみながら戦う姿を目にすることができた(アラビア語の実況も迫力があった)。
現在行なわれているACLEの中東のチームと同様、あの時のアル・ヒラルも攻撃力は高かったが、守備強度は高くないという印象を受けた。古河のようにアウェーで勝利するためには、そうした相手の守備の甘さを衝くしかない。
ところで、この記事を書くために、そのVHSカセットを探したのだが、見当たらなかった。VHSのビデオは経年劣化によっていずれ見ることができなくなってしまうともいう。本気で探してみなくては......。
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