
“超絶技巧”“ジャンルレス”─。こんな言葉を冠して語られるピアニスト、上原ひろみ。ピアノに愛された彼女の素顔とはどんなものなのか? こんな問いからまずは始めたい。
8歳でジャズのレコードと出合う
ピアノを嫌いになったことってありますか?
「ないです。子どものころから考えてみても、一度もありません。ピアノを弾くというのは、自分にとって日常で、ずっと面白いままなんですよ。もちろん、技術が追いつかずに弾けないというのはありましたけど、そういった壁は常に越えるためにあるので(笑)」
質問を遮るように、瞬時にこんな言葉が放たれた。そして、
「その挑戦をやめたいと考えたことはないですね。それは初めてステージに立ったときから、今までずっとライブが楽しい。何かごはんを食べるのに似ているというか、毎日ライブがあってうれしいというのが、おいしいごはんを食べる感情に近いから。明日も頑張ろうという気持ちになれるというのはあるのかな」
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1979年、静岡県浜松市に生まれた上原。ピアノを始めたのは6歳のころ。このときすでに作曲も学び、8歳でピアノ講師の自宅でジャズのレコードと出合い、そこからジャズに目覚めていく。
'95年、来日中の世界的なジャズ・ピアニスト、チック・コリアと出会い共演。'99年、米国の名門音楽大学、バークリー音楽院ジャズ作曲科に入学し、同大学を最優等で卒業。'03年、アルバム『アナザー・マインド』でデビュー以後、'11年、グラミー賞受賞、'16年、ビルボード・ジャズ総合チャート1位なども達成。ジャンルを超えた多種多様なコラボレーションなど、活躍はもはやジャズシーンだけにとどまらない。
そんな彼女の存在は世界で知られるところだが、さまざまな音楽のエッセンスが絡み合い、育まれた才能と、誰もが認める技術力、それを支え続けている日々の積み重ねによる練習量。それに加えて毎年、世界各地で繰り広げている、決して年間100本を下回ることのないライブの数々によって、今もさらに進化し続ける類例なき存在であるのは周知の事実だ。
同時にまるでピアノが生命維持装置かのように、ピアノを弾ける楽しさを目を輝かせながら語る姿からは、たぶんこの人はピアノを始めた幼少期から、今も変わらない思いをひたむきに貫いているのだ、と改めて感じさせる不思議さがあるのだ。
やる気のなさそうな人ほど、積極的に話します
彼女の経歴を振り返ってみると、天才肌のジャズ・ピアニストとして唯我独尊的なエピソードが並ぶのでは、と思ってしまうが、むしろ上原の性格はその真逆であるから面白い。
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「ツアーを続ける中で私は日々違う人と仕事をして、そのすべてを最高のライブとして作り上げたいと思い、仕事をしてきました。そんな中でも、機材トラブルとかは当然あるわけです。
例えば'07年、イタリアのピサのライブで停電になり、1時間半待っても電源が復旧しなかったことがありました。そのときは手持ちのマイクでピアノの音を拾い、演奏したこともあります。音響的には最悪で、今まででいちばん大変でしたけど、それはそれで盛り上がるわけですよ。お客さんを楽しませようという気持ちがあれば」
しかし、彼女がいちばん問題だと感じることは、ステージ上でのトラブルではなく─。
「スタッフの中に私から見て、なんだかやる気のなさそうな人がいたときです(笑)。そういった場合、私は積極的に話しかけてみるようにしています。現場の仕事中にYouTubeとかを見ているスタッフを、その日のプライオリティーを自分に向けてもらうようにするにはどうするかは、苦心しますね。
例えばリハのときには、そういった人をずっと見ながら演奏します(笑)。でもそうしていると、私の音楽に興味が出てくる感じもあるんですよ。最終的には音楽でやる気になってもらうのがいちばんいいことなので、それ以前にそういったことをやるのも当然だとも思うので」
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なぜ彼女はここまで他者にコミットするのか、その過剰なまでのコミュ力が、周りも動かしてきた歴史であったのが容易に推測できる。彼女が日々世界中を回る中、自然と身につけた人との接し方なのだろう。
さらに、彼女がライブのMCで必ず語る「今日ここでしか生まれない音楽」という一期一会の信念を表す言葉がある。
それは毎日のように彼女と世界中のスタッフによる、美しき刹那の重なりによって成り立つが、20年以上、日々の研鑽を繰り返し続けてきたからこそ築き上げられたのだ。彼女が所属するユニバーサルミュージックの斉藤嘉久さんによると、
「この20年以上の間には、さまざまな困難があったことも事実です。世界ツアーを始めたころは会場にオーダーしたピアノがないこともあったという話も聞きました。ただ、それでも状況を改善するためにしっかりと言うことは言うけど、ライブが終わって会場を出るときには、スタッフと笑顔でハグをして別れるということを信条にして、丁寧にキャリアを積み重ねてきたことで、現在の彼女があるのだと思います。
近年でも彼女のトリオのベースとドラムの2人が体調を崩して参加できなかったときも、代替案を立てて何とかツアーを遂行したこともありました。困難があっても、その状況から逃げずに自分なりの最善策を探し続ける姿勢には、純粋に尊敬の念を抱いています」
たとえそのミュージシャンがどれだけ才能があったとしても、世界を相手に活動するためには、その舞台に立つまでにさまざまなトラブルをクリアしなければならない。
そこで自己の精神力や肉体をキープし、高い次元での平常心で日々のライブに新鮮な気持ちで挑み続けられる者は、彼女も含めて数多くはいないということも事実だ。しかしながら、
「近年の日本のジャズシーンが、上原ひろみ以前・以後と明確に分けられるように、ジャズだけでなく角野隼斗や石若駿などの現在の若手ミュージシャンに彼女が与えた音楽、そして存在の影響は計り知れない」(斉藤さん)
このように、彼女の長年の貴重な経験が新たな世代の糧になっていると感じられる節はある。本人にとっては、日々の壁を越え続けただけなのかもしれないのだが、それもまた彼女らしいといえるのだろう。
「ラーメンが大好き」まさかのメンバーも…
4月に発表された彼女の新たなバンドHiromi's Sonicwonderの2作目となる『OUT THERE』は、超絶無比のバンド・アンサンブルでありつつ、これまでになく自由度が高く希望の匂いが全体に漂う作品だ。中でも、もはや自他共に認める無類のラーメン好きで、ジャズ・ピアニストのMVとしては前代未聞といえる、ひたすらラーメン店に向かい食べるだけの映像の、楽曲『Yes! Ramen!!』。キャッチーでオリエンタルなメロディーは少しコミカルではあるが、メンバー全員の演奏が一見バラバラでありながら、その“カオスを保った調和”でグルーブが生まれて不思議な高揚感を与えてくれる。上原の新たな代表曲として、定着する予感がある。
「新しいバンドをつくる上で、このメンバーは演奏技量が高く、何よりも人の演奏を聴いて解釈する能力に長けているのは実感していました。それからライブをやるようになって、メンバー間のパーソナリティーがわかるようになってきたら、私自身まったく知らなかったのですが、全員私と同じでラーメンが大好きだったんですよ(笑)。
私がいろいろな場所でラーメンが好きだと言い続けたので、最近はラーメン以外で何かないですか?と聞かれるようになりましたが“ラーメンがあれば十分です”と答えるくらい今も好きです(笑)。
それに自分の音楽生活のキャリアと、この20年ぐらいでラーメンが世界に認められていった過程がリンクしているような気がしています。そんな中、ラーメン大好きのメンバーが集まった今、ついにラーメンの楽曲を書くときが来たと感じたのが動機なんです(笑)」
今作『OUT THERE』は、これまで以上にバンドメンバー、それぞれの個性の当て書きで楽曲が書かれた要素が大きく、それが良い形で反映されたエピソードといえるだろう。
自分から勝手に譜面を書いていた“あの作品”
求道的、かつエンターテイナーとして、その両面を併せ持つ上原の音楽人生をひと口で語ることは難しい。“求道者”としての彼女について、以前インタビューした際には、こんなことを語っていた。
「私の音楽の本道は、自分で楽曲を書き、アルバムを作ってツアーをすることです。でも、それ以外にもイレギュラーなオファーが来ることがあって。それをやると、自分では思いつかなかった発想が得られて、その影響を自分本来の音楽活動に反映させていくようにしています」
そのイレギュラーなオファーの最たるものが、'21年の東京オリンピック開会式出演と、'23年の映画『BLUE GIANT』で音楽担当をしたことだろう。この2つは、大きな話題を集めたといえる。
「東京オリンピックに関していえば、私は会場でピアノを弾くだけでしたから、みなさんが考えるよりは大変じゃなかったかもしれません。自分が他人との共同作業で大切にしているのは、まず作品に何を感じるかですけど、その仕事を受けるかどうかは、例えば映画であれば、監督などのスタッフと話してみてひとつのチームとして仕事ができると感じられるかを判断しているところが大きいんですよ。
もっというと“人ありき”かもしれません。『BLUE GIANT』に関しては、その前から原作者とテレビで対談していて、編集の方ともコミュニケーションも取れていました。
私自身、原作の漫画が始まったときから読んでいて、もう自分の中で勝手に音が流れていたんです。それで漫画の原作者から、作品の中で譜面を書くのが大変だという話を聞いて、それなら私、もう音ができているので、譜面書きますよ、って」
正式オファーが来る前から、すでに上原の中には曲が頭の中で作られていたという。
「私から勝手に書かせてもらっただけなんですけど(笑)。その時点では、私が譜面を書いていたのも公表していませんし、クレジットも出ていませんでした。
ただそれは“上原ひろみ”が楽曲を書いたということではなく、漫画の登場人物として楽曲を書くという側面が大きかったですね。映画の音楽を担当したときも演技ではないけど、その登場人物に擬態して演奏したというニュアンスが正しいのかもしれません」
彼女の面白いところは、他者が持つ情熱に納得できれば、ジャンルがどうであれトライすることに矛盾はないと考えているところだ。そこが彼女のエンターテイナーといえる部分かもしれない。
その最たるものとして、彼女のライブに足しげく通うことでも知られる、嵐の松本潤が主演を務めたテレビドラマ『となりのチカラ』でのサウンドトラックだ。名曲『上を向いて歩こう』を全10テイク異なるバージョンで収録するという、1人のクリエイターの発想の限界に挑むかのような創作に取り組んだ。
「あ、でもあれもあまり苦労しなかったかもしれない(笑)。もともと大好きな楽曲だし、ひょっとしたら、もっとオファーされていたら、まだできたかもしれないですね」
さまざまな可能性にチャレンジしている彼女。『BLUE GIANT』では登場人物に擬態しての演奏と話していたが、もし俳優としてのオファーが来たら挑戦するのだろうか?
「……それは200%ないです(笑)。例えば、ピアノを弾くだけの役とかなら考えられるのかもしれないけど、演技をするのは無理なので、もっと強めに言います。20000%無理です(笑)」
どんな人にも、苦手なモノはあるというオチに普通はなる。しかしながら『Yes!Ramen!!』のMVで見せる、彼女の魅力的な表情に惹かれる人がいることも事実。それに、ルイ・アームストロングが映画『上流社会』に出演したように、映画に出演した人気ジャズマンも多い。上原もいつか機会があれば─。
そのときの自分が弾けない楽曲を書く
上原にジャズ界でも異質な立ち位置をもたらした理由は、彼女の経歴で「バークレー音楽院ジャズ作曲科卒業」とあるように、ジャズの歴史と伝統を学びつつ、作編曲家として楽曲を作り続けていることに起因していることだろう。
無論、その魂までも爆裂させるような演奏が印象に残るのも事実だが、実はそこに緻密な設計図の上に構築された構成美があるからこそ、あの縦横無尽な奏法が生きてくる構造仕立てになっている。本人としては、作編曲家とピアニストのバランスは、どのように配分しているのだろうか。
「私の中で、作編曲家とピアニストのどちらが上というのはありません。それは、完全にセパレートして考えているので。だけど、楽曲を書き始めたころから、その段階のピアニストの自分がまったく弾けないような楽曲を作って、それを弾けるようになっていくというのが、ずっと続いてきた感覚があります。
今回のアルバムは、プロデューサー&作編曲家の自分が、ピアニストの自分を雇っていると考えてもらえたらいいかもしれない。彼女なら、こう弾くからこういった感じで楽曲を書く、という点はあるんじゃないかな。
だから作曲家としての自分は、世界中からピアノ以外の楽器で私の楽曲を演奏したYouTubeの動画が送られてくると、何か楽曲が成長して帰ってきたみたいでうれしいんですよ(笑)。楽曲を書くのは自分の欲求ではあるけど、そこで誰と演奏するか、そしてその人がどんな解釈をするのかが、自分にとっての重要なインスピレーション・ソースになっているんだと思います」
アスリートと遜色ない体力
表現者には誰しも必ずエゴがあり、時に作品以上に自己のエゴが肥大して自滅する人も少なくない。上原は自己の楽曲で他者がどう感じるかによって、エゴが解消されるレアケースなのかもしれない。彼女の日本におけるホームグラウンドで、そこで彼女と長く仕事をしているブルーノート東京の人見良一さんによれば、
「例えば、1時間以上も激しいソロピアノのライブ後は彼女も疲労困憊するはずなのに、楽屋に行くと訪れた古くからの友人たちと楽しそうにおしゃべりしているんですよ。この人どれだけ体力あるんだろうと驚かされます(笑)。
アスリートと比べても、遜色ないぐらいかもしれないですよね。ただ誰に会っても態度は変わらないし、うちのスタッフにも丁寧に接してくれるのを見ると、本当に人が好きなんだろうなあ、と改めて思わされますね」
しかし、ステージに向かうとき“ピアニスト・上原”が登場すると……。
「ライブの前もラーメンの話とかを気さくに話してくれる穏やかな人なのですが、ステージに向かう直前、何分か前に表情が変わる瞬間があるんです。そこからはミュージシャンとしての上原さんになる。
初めてライブを見たときに、これだけ弾けて一音一音が響くピアニストが同世代にいたんだと驚愕しましたけど、それから毎回、遊び心を加えた異なる演奏をファンに披露する姿勢を持ち続ける人は珍しいと感じます」
そんな弾き方をする上原だけに、ほかのピアニストにはまずありえないエピソードを人見さんは語ってくれた。
「ピアノのアタックが強すぎて、チューニングしたばかりのピアノの弦を切ってしまい、調律師が頭を抱えたのも彼女以外には記憶にありません(笑)。でもそのハプニングでさえ、その日の演奏の面白さに変えてしまう強さがある。
彼女のすごさを改めて感じた、こんなことがありました。リハ終わりにチック・コリア・トリビュートのビデオを撮影してくれないかと頼まれて収録していると、その最中、何かが彼女に降りてきたかのように感じて、寒気がしたんです。いつもリハでは近くで音を聴いているのですが、やはりそのときの彼女の気迫には、圧倒されたのを今も強く覚えています」
人見さん、そして斉藤さん共に、国内外の優れたピアニストと仕事をしてきた、いわば“超一流”を知る2人。その2人が、上原と同種の資質を持つ日本人は1人しかいないと明言。また筆者もチック・コリアに生前取材した際に彼は、「日本人のピアニストですごいと感じたのは、オゾネとヒロミだね」と即答した。
ジャズとクラシックの壁をいとも容易く突破する“巨人”小曽根真と上原が、並び称されることに納得される方も多いのではないだろうか。
2人のピアニストとしての個性は、'21年のサントリーホールでの共演ライブでも、異なるピアノへのタッチやアプローチでも表現されてはいたが、2人とも音楽に対する狂おしいほどの渇望がチックにまで届いたということでは、同族であったといえるのではないだろうか。
さらにいえばピアノの弦を切るほどの激しい情熱は、どこにもない彼女のオリジナリティーではあるが、しかもその思いがどこかで他者に対して、シェア可能であるようなピアニストは、小曽根クラスでなければ確かに難しいのかもしれない。
私が全部のスケジュールの穴を埋めてみる!
上原は想像をはるかに凌駕する過剰なエピソードの宝庫のような人だが、最も驚愕と感動を与えてくれるのはこれしかない。上原と長い共演歴があり、ブルーノート東京で共演した矢野顕子がライブのMCで、
「上原ひろみは、ブルーノート東京に住んでいます!」
と言わしめた理由─。それは世界中がコロナ禍に陥った'20年から、彼女がブルーノート東京で開催した企画ライブ『SAVE LIVE MUSIC』にある。通算110回という、想像すらできないブルーノート東京支援ライブだ。同企画の責任者であった人見さんの談話からは、これこそが上原ひろみの真骨頂だと呼べる魂のすごさが伝わってくる。
「コロナ禍で海外渡航が禁止となり、当然、海外からのミュージシャンも招聘できないので、ブルーノート東京の存続が苦しい状況にありました。そんな中、上原さんから“私が空いたスケジュールの穴は全部埋めてみる”といってスタートした企画が『SAVE LIVE MUSIC』。
ライブハウス営業自粛の流れの中、いくつものジャズクラブが閉店する、先の見えない状況だったので、なんとか自分の知り合いのライブハウスを守りたい一心だったのだと思います。彼女には東日本大震災のときも、一週間公演をやってくれた経験もあったので、何かあれば一緒にやってくれるという信頼感はありました。ただ、今振り返ると、まさかここまでやってくれるとは、さすがに考えてもみませんでした」
危機的状況であっても、そこでライブができるのなら何をやるか、そして自分が今、何をするのがベストかを判断する冷静さ。本来ならライブは生の触れ合いだと考えている彼女にとって、懐疑的であったはずの配信ライブを受け入れる柔軟さ、そして何よりも先の見えないときに動き続ける強靱な精神力─。上原がこれまで育んできたよき資質は、今回このためにあったかとも感じられるほど発揮されていく。
「もともと上原さんのライブは、常にソールドアウトしていた上に、ソーシャル・ディスタンスもあったので、会場の動員は通常の約半分でした。なので配信ライブへの参加は、こちらとしてもありがたかったです。配信の視聴者数は、上原さんが断トツに多かったですし、ブルーノート東京の存在をアピールすることにも大きく役立ちました」(人見さん)
彼女の配信ライブのおかげで、当時、ライブに飢えていた地方在住のファンたちにアピールでき、これまでブルーノート東京に足を運んだことのない人たちといった、新たな客層も開拓できたという。
「上原さんに対しては、あの日々を共に乗り越えてくれた感謝しかないです。コロナ禍だけでなく、その後どうするかにもたくさんアイデアを頂きましたし、ライブの際には、どうすれば感染を避けられるかまでも想定して座席のレイアウトも一緒に考えてくれました。
本来ここまで、ミュージシャンはやらなくてもいいんですよ(笑)。多くのミュージシャンの協力はありましたし、その方々にもありがたいと思っておりますが、やはりあそこまでやってくれた上原さんには、特別な思いがあると申し上げずにいられません」(人見さん)
ふと、上原と矢野のジョイントライブで披露された上原の作詞による『月と太陽』を思い出した。機会があればぜひ歌詞を読んでほしい。人が生きることは誰かを支え、また誰かに支えられていることを描いた静謐な詞を。
ある意味、彼女の人生観はここに全部記されているのではないか。寡作ではあるが上原ひろみは人の心の陰影が描ける、極めて優秀な作詞家だといえるだろう。
激烈かつ衝動的な演奏の先にある繊細なタッチ
シンプルにいえば、今後の上原ひろみは楽曲を作り、ライブを世界中でやり続ける。そしてそのとき出会った人に対して、誠意を尽くした仕事をしていく、その基本ラインから大きく外れることはないだろう。そもそも、この20数年が、他者から見れば、ある種、ジェットコースターに乗り続けているような音楽人生であったのだから。
「彼女はゴールを決めずに走り続けている人。例えば、グラミー賞を受賞しても、それ自体が目的になることはなく、これから50年後もずっとピアノを弾き続けていくのを目標にしている。もう十分、ベテランや巨匠の域に入っていますけど、上原ひろみの自己更新がこれからもずっと続いていく様子を、われわれスタッフは伝えていきたいですね。
それから彼女は自分自身には厳しい人ですが、それを他人に強要することはありません。だけど、彼女と仕事をすると、周りのスタッフのモチベーションが自然と高められるという点では、あれほど理想的なリーダーはいないかもしれません」(斉藤さん)
人見さんも斉藤さん同様、こんな言葉を続ける。
「上原さんと仕事をすると、この程度でいいやという気持ちはなくなります。仕事のステージを下げるよりは、毎日少しずつでも上げていこうとするほうが気持ちいいわけですから。
彼女と共に長く仕事をしてきて、一つわかったことがあるんです。人の動かし方って、ボスタイプとリーダータイプってあると思うのですが、彼女は決してボスタイプではないんですよ。自分が先頭を切って困難に立ち向かう姿を見せて、周囲を動かしていくという意味において、紛れもなくリーダータイプの見本ではないかと思っています」
彼女のキャリアから見ても今後、何らかの形で音楽界のリーダー的役割を期待されるのは当然であるし、イレギュラーな事態に対応したことで、また自らの音楽への刺激へと導くことにもなるだろう。その上で彼女自身は、これからの自分の未来をどのように考えているのだろうか。
「例えば、自分の音楽の独自性とかを意識せず、書きたい楽曲を書いていく上で、結果として独自なモノになっているというのが、いちばん理想的かなとは思っています」
筆者としては、ブルーノート東京、そして'23年、紀尾井ホールでの『BALLADS』において、会場の自然な残響を生かし、バラード中心のライブでの繊細かつ粒立ちがいい美しいピアニシモの響きが忘れられない。
激烈で衝動的な超絶技巧というパブリックイメージとは一見真逆のように見えて、これもまた彼女の神髄のようにも感じられた。上原ひろみ、いまだ底知れず、だ。
<取材・文/吉留大貴>
よしどめ・ひろき 文筆業、音楽関係を中心としたポップカルチャーでの取材執筆。ライブハウスなどのイベントのプロデュース&司会も多数。CD『ロフト・セッションズ・アウトテイクス』再発コーディネートなども担当。