【今週はこれを読め! ミステリー編】世界の理不尽さを描く〜チェスター・ハイムズ『逃げろ逃げろ逃げろ!』

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2025年05月07日 11:50  BOOK STAND

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『逃げろ逃げろ逃げろ! (新潮文庫 ハ 62-1)』チェスター・ハイムズ
 身も蓋もない現実を小説として描くならばそれは必ず喜劇になる。
 そのことを教えてくれた作家が幾人もいる。一人がチェスター・ハイムズだった。
 ニューヨーク・ハーレムの黒人警官、通称棺桶エド・ジョンソンと墓掘りジョーンズのコンビを主人公とするシリーズで知られる作家だ。著作の多くは既訳であったが、未訳長篇が残っていた。1966年に刊行されたRun Man Runである。このたび田村義進訳『逃げろ逃げろ逃げろ!』の邦題で新潮文庫から刊行された。
 印象的な題名は冒頭で展開される状況設定から来ている。12月28日の深夜、酔っ払って街をうろついていた白人刑事のマット・ウォーカーは、自分の車が駐車した場所にないことに気づく。近くに居合わせた黒人を詰問した結果、ウォーカーは彼をあっけなく射殺してしまう。口封じのためにもう一人も。さらに一人、ウォーカーの意図に気づいて逃走しようとしたジミー・ジョンソンという清掃員も撃って傷を負わせるが、彼は助かって病院に収容される。
 逃がしてしまっては自分の身が危ないと、ウォーカーはジミーを殺して口封じをする機会を窺い始める。白人刑事が黒人の自分を殺そうとしたと証言しているのに誰も取り合ってくれないことに絶望したジミーは、ひたすら逃げるしかないと覚悟を固める。恋人のリンダさえ、彼の言葉を信じようとしないのだ。逃げろ、逃げろ、逃げろ、である。
 1950年代から1960年代前半にかけてアメリカは公民権運動が高まり、尖鋭的な黒人による過激派団体が組織されるなど、一部で武装蜂起の機運さえ高まった。そうした時代を経由した後に書かれた作品だが、ハイムズは1950年代にフランスへ移住しており、当時の熱気を生で体験していない。ここが重要な点である。
 いかに人は自分の信じたいことのみを信じるか。他人の心の中にあるものを信じることができないか。そうした普遍的な題材を扱った作品である。ウォーカーはリンダに近づき、甘言を弄してジミーの居場所を教えさせようとする。誠実、とさえ見える態度にリンダは心をほだされ、刑事を信用してしまうのだ。心の中にウォーカーが棲みついてしまったため、ジミーの言葉に耳を貸せなくなる。リンダがウォーカーは殺人をしそうな白人に見えないと言う。では人殺しはどう見えるというのか、とジミーが訪ねるとリンダは言うのである。

「いかにも残忍そうに。南部の黒人嫌いの保安官みたいな。それなら納得しやすい。でも、あの男のふるまいにはなんの偏見も感じられなかった」

 リンダの中にあるのはステロタイプである。やや戯画化されてはいるが、これは自分の考えがいかに自身だけで作り上げたものではなく、社会からの刷り込みによって成立しているかということを現わした発言だ。心の中にいるのは自分自身だけではないのである。
 ジミーを殺さなければいけないという思いに支配されたウォーカーも自分の行為を正当化するうちに、視野狭窄へと陥っていく。浮浪者らしく見えるからそれは浮浪者なのであり、娼婦だから軽蔑してしかるべき対象なのだという固定観念が彼の思考を虜にしている。ジミー・ジョンソン殺害も、ウォーカーの中では完全に正当化されているのだ。
 ハイムズはこのウォーカーを、魂を喪失した哀れな存在として描いているように見える。この刑事は街のハイソサエティな一帯に来ると「これまでに経験したことのないような悲しい気持ち」になるが、俗っぽい一画「ポン弾きや娼婦、たかり屋や競馬狂、役者くずれの男女、安っぽいホテルと安っぽい人間」がたむろする街路に来ると「意志と自信が戻ってくる」。自分の中が空虚であるため、街の景観にも劣等感を抱いているのである。彼にはエヴァというユーゴスラヴィア出身の愛人がいて、有無を言わさず彼女を蹂躙する。エヴァは「愛し合うとき、あなたはわたしを憎んでいるように見える」「あなたは毎回わたしをレイプしている。わたしを殺そうとしているんじゃないかといつも思う」と言うが、ウォーカーは聞かずに眠りに落ちる。自分に対して向けられた言葉には耳を傾けようとしないのだ。
 孤立し、自閉している。哀しいほどに凝り固まった自尊心の持ち主だ。
 物語の主人公はジミーなのだが、彼の言葉を素直に受け入れることができないリンダ、ジミーを排除すべき物体としか考えないウォーカーが影の主役と言ってもいい。リンダとウォーカーがジミーを差し置いて心を通じさせる場面すらある。心の孤立がもたらすものを徹底してハイムズは描いているのだ。
 世界の理不尽さを描くためにハイムズは力を尽くしていて、印象的な場面がいくつもある。傷ついたジミーが「ミシンがずらりと並んで」いる部屋に迷い込む場面などは前衛映画を思わせる。世界はいつも個人の理解を超えたところにあるのだ。ウォーカーの殺意も、一人の中に宿った狂気というよりは、個人にはどうすることもできない世界の歪みのように描かれている。その「まがまがしさ」が徹底して描かれた結果、一切の同情や共感を拒否するような、喜劇映画と観衆の間に存在するような距離感を本作は獲得した。
 ハイムズが創作を開始したのは武装強盗で懲役20年の判決を受けて服役中のことだった。出所後も引き続き小説執筆を行うも、アメリカ文壇での評価は低く、やむなくヨーロッパに移住する。棺桶エドと墓掘りジョーンズ・シリーズの第一作『イマベルへの愛』(ハヤカワ・ミステリ)を手がけたのはその後のことだった。まずはフランスで評価が上がり、逆輸入の形でアメリカでも人気を得ていく。同シリーズは警察小説の体裁をとっているが、内実は犯罪小説である。棺桶エドと墓掘りジョーンズは狂言回しに近く、彼らの対極で動きつづける犯罪者たちが真の主人公だ。この社会がいかにめちゃくちゃかを描くのがハイムズの目的だったのである。シリーズは次第に解体し始め、1965年の『ロールスロイスに銀の銃』(角川文庫)以降は、行儀よくプロットを進ませることよりもむしろ個々の場面を描くことのほうに作家の関心が移っているように見える。支離滅裂な現実を描くから小説も支離滅裂になるのだと言わんばかりに。
『逃げろ逃げろ逃げろ!』はハイムズらしさが端的な形で発揮された作品で、この作家を知るためには恰好の入門書である。すべての忌まわしい現実から逃れるため、作家は走り続けた。
(杉江松恋)


『逃げろ逃げろ逃げろ! (新潮文庫 ハ 62-1)』
著者:チェスター・ハイムズ,田村 義進
出版社:新潮社
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