藤津亮太のアニメの門V2025年5月23日から、新宿駅東口近くにある2つの映画館(シネマカリテ・新宿武蔵野館)を会場に『新宿東口映画祭2025』が開かれる。そのラインナップの中に、映画『ぼのぼの』(1993年公開)の名前がある。このことをまず喜びたい。2025年にスクリーンで映画『ぼのぼの』が見られるのは、紛れもなく事件である。
「レア」という点では、やはり同映画祭で上映される、未DVD化作品で配信もされていない『走れメロス』(1992年公開)も見逃せない。しかし大隅正秋監督やキャラクターデザイン・作画監督の沖浦啓之といった文脈でしばしば言及される『走れメロス』に対し、映画『ぼのぼの』は――DVD化はされているし配信でも見られるにもかかわらず――言及される機会は非常に少ない。だからこそ映画館に駆けつけられる人間には、まずはその目でどのような作品を確認してもらいたい。例えば、タイトルバックが終わると聞こえてくる鳥の鳴き声や木々のざわめきに、映画館で見ることの直接的な意味を感じることができるだろう。
教科書的な確認をすると――映画『ぼのぼの』は、1986年の連載開始とともに大ヒットした同名マンガが原作。ラッコの子ども・ぼのぼのを主人公に、森の動物たちが繰り広げる抑制的なギャグと、子どもらしい素朴な疑問から生まれる思索的な要素が共存するところに魅力がある。映画は原作者のいがらしみきおが監督を務め、自身のストーリーをもとに自分で絵コンテも描いていた。またアニメーション監督として武藤裕治(ムトウユージ)が参加している。『ぼのぼの』は、2016年から現在も継続するTVアニメをはじめ、これまで4回アニメ化されていて、1993年のこの映画が最初のアニメ化となる。
この原稿では、映画の重要な部分に触れるので、事前の知識なしで映画に臨みたい場合は、現在は配信などで映画を見終わったあとに本原稿を読むことをおすすめする。
ファーストカットはぼのぼのたちが住んでいる森の全景を見せる大俯瞰から始まる。絵コンテでは、そこからカメラがカットを割ることなく、道を歩くぼのぼのへと“ズーム”(ト書きより)していく。これが実際の画面では描かれた範囲の異なる複数のカットがオーバーラップで繋がれながら、次第にぼのぼのへとカメラが寄っていくように表現されている。1993年はまだフィルム撮影の時代。撮影台に載せられる背景の大きさの限界などの理由から、1カットで寄ることは難しいと判断された結果だろう。この絵コンテと実際の映像の関係から、「原作者・監督がイメージを提出」し、「制作現場が技術的工夫してイメージに沿った絵を作っていく」という本作の制作体制が端的にうかがえる。
また、いがらしの絵コンテは、各キャラの演技は細かく指示があるが、各カットの尺(秒数)は入っていない。しかし原作マンガでも特徴的な“間”については、ト書き部分にしっかりと秒数で指定がされ、いがらしの“間”についてのこだわりが伝わってくる。おそらく制作現場では、この絵コンテに尺を書き込んで使用したのではないだろうか。オーソドックスな人間キャラクターとは異なる口パクの処理を始め、アニメスタッフが原作のイメージをアニメ−ションに翻訳するにあたって、工夫をこらしたであろう部分は随所に発見することができる。
こうしたメイキングの解説のような詳細は別の機会に譲るとして、重要なのは、冒頭の8分弱の間に、ぼのぼのを通じてこの映画が何を巡る作品なのかが端的に語られることだ。ただし観客がそのことに気付くのは、映画がだいぶ進行してからのことになる。
冒頭でぼのぼのは、左右の目を交互に閉じて、視差によって見える風景が変化する様子を楽しんでいる。原作連載開始時からぼのぼのはしばしばひとり遊びを楽しんでおり、このエピソードはぼのぼのというキャラクターの紹介でもある。
この新しい“遊び”を教えてあげようと、ぼのぼのは友達のシマリスのところへ向かう。歩くうちにぼのぼの頭の中に「楽しいのって、どうして終わってしまうんだろう」という疑問が浮かび上がってくる。これが本編開始からおよそ8分あたりの出来事だ。この時点で本作が「見ること」というモチーフと、「楽しいことはなぜ終わるのか」という問いをめぐる映画であることははっきり示されている。
この2つの要素は実は「映画を見る」という行為と重なり合っている。観客は映画を一方的に見つめ、そして映画は必ず終わる。本作そのものが、映画の暗喩という側面を秘めているのだ。ぼのぼのが疑問を持った瞬間、カメラはぼのぼのの背後へと回り込み、ぼのぼのが見上げる空へとパンアップする。この様子は観客がスクリーンを見上げる姿に重なって見える。
本作の物語上の枠組みとしては、“大きな生き物”がぼのぼのたちの森にやってくるという「事件」が設定されている。
いがらしはこう語る。 「いざこざの渦中を何かが通り過ぎて行くいというので言えば、それは逆なんだ。巨大な何かが通り過ぎて行くその脇で、いざこざする動物たちがいた、ということだよ。どっちにしても『ただ通り過ぎていくだけ』の映画にしようと思っていたのは間違いないけど」(『ぼのぼの絵コンテ集』竹書房)
ぼのぼのはアライグマくんとシマリスくんとともに、“大きな生き物”を見に行くことになり、そこでは冒険めいたささやかな行動が描かれる。ただしそれはさまざまに点描される、森の動物たちの“いざこざ”の中のひとつに過ぎない。ぼのぼのは、映画を貫く要素は提示したから主人公なのであり、プロットを牽引することで主人公たり得ているわけではない。
動物たちの“いざこざ”の中で最も重要な部分を担っているのはスナドリネコとヒグマの大将の確執である。数年前に行われたふたりの決闘を回想するシーンが、ちょうど映画の折り返し点に置かれているのも偶然ではない。
数年前、傷ついたスナドリネコが森にやってきた。森の平穏を気に掛けるヒグマの大将がそこにやってきて、結果的にふたりは決闘し、最終的にヒグマの大将は、妻子を置いて、離れた山の中に住むことを決意する。その日も、“大きな生き物”が森を通り過ぎていった日だった。だから今回の“大きな生き物”の再来訪は、関係者に数年前の「あの日」を思い出させるものでもあった。
どうしてヒグマの大将とスナドリネコの間に確執が生まれるのか。それは端的に言って、生き方が違うからである。
例えば数年前に決闘をしたとき、ヒグマの大将が、なぜ戦いをやめないのかと問うと、手負いのスナドリネコは「我慢ばかりして生きているとな、我慢することで物事を解決したくなるもんだよ」と答える。しかしヒグマの大将は、その言葉を即座に否定し「おめえは、なにかに命を賭けることで物事を解決できると思っている野郎だぜ」と言い切る。
ヒグマの大将は、生き物は生きていることがすべてで、だからこそ、目的のために命を賭ける行為を認めたら、目的のためにしか生きられなくなってしまう。それは生き物の平穏を乱すことになる。だからヒグマの大将は「命を賭けている」ように見えるスナドリネコを許せないのだ。
その点で、ヒグマの大将の行動は社会的な関係性の中で動機付けられている。しかし、スナドリネコは違う。「我慢」というキーワードからもわかるとおり、スナドリネコは状況をあるがままに受け入れて生きている。社会ではなく、社会よりもさらに広い世界全体に軸足をおき、無為自然の精神で、その理を受け入れようとしている。
だから終盤にふたりはこんな会話を交わすことになる。
ヒグマの大将「おめえ(スナドリネコ)は“そうしてもいい”ことをいう。(略)おれがやろうとしているのは“そうすることが正しいこと”なのよ」
スナドリネコ「しかし、生き物に“そうすることが正しいこと”がやれるかな。オレたちにできるのは“そうしてもいいこと”だけだろう」。
このふたりの会話から浮かび上がるのは、作中では明確に描かれない、ヒグマの大将が数年前、妻と生まれたばかりの息子(コヒグマくん)を置いて別居した理由である。
スナドリネコと決闘したヒグマの大将は、先述の通りスナドリネコの態度を否定し、「命を賭けるぐらいなら負けてやるぜよ」と自らが負けたと宣言する。それぐらい「目的のために生きること」「そのため命を賭けること」ことから遠く生きようとしている。
しかしこの日、ヒグマの大将は、生まれたばかりの息子を見ている。ヒグマの大将は、息子のためなら命をかけてもいいと思ってしまったのではないか。スナドリネコとの問答を通じて、自分の中に生じた矛盾を自覚したのではないか。だからこそその矛盾を解消するため、妻子と別居をすることにしたのだろう。
この矛盾が映画のクライマックスで描かれる。森の中を通り過ぎていく“大きな生き物”。その名前はジャコウウシである。森の生き物たちは、道沿いの茂みからジャコウウシが歩くさまを見るために集まってくる。そんなとき、幼いコヒグマくんが茂みをくぐり抜け、ジャコウウシの前に出てしまうのだ。
とっさにジャコウウシの前に立ちふさがるヒグマの大将。物語の序盤で、ジャコウウシは「ヒグマの大将でも勝てないかもしれない」とさえ言われている存在だ。このときヒグマの大将は明らかに「命を賭けて」もコヒグマくんを守ろうとしている。
しかしそのヒグマの大将は、ジャコウウシの前からどいて、コヒグマくんの命運を運に任せる。このときヒグマの大将は自分の矛盾に気づき、「そうすることが正しいこと」として「命を賭けない」ほうを選ぶ。
これは映画の折り返し点に配置された、過去の決闘のヒグマの大将とスナドリネコの会話のひとつの帰結だ。また映画の後半には、ヒグマさん(ヒグマの大将の妻)がぼのぼのたちに語った「生き物にはいやだろうが見ているしかないときがあるの」「そういうときがきたらしっかり見なさい」という言葉とも呼応している。もちろんぼのぼのたちは、コヒグマくんとジャコウウシの顛末を「見ているしかなかった」のは言うまでもない。
こうして、ぼのぼののお遊びで始まった「見ること」という主題は、スナドリネコとヒグマの大将の確執とも呼応しあって、クライマックスを構成することになる。
“大きな生き物”ことジャコウウシは、なんだったのか。キャラクター化された森の動物たちと異なり、ジャコウウシはより動物らしく描かれており、言葉も発しない。歩む音の効果音だけが、言葉の代わりに響いてくる。要するにジャコウウシは、森の動物たちの構成するーーヒグマの大将が守ろうとしているーー社会の外側からやってきた存在なのだ。それを「運命」と呼んでもいいだろうし「世界の摂理」と呼んでもいいだろう。いずれにせよ「社会」の中にいる限り、「見ること」しかできない、特別な存在なのである。
このように「見ること」をめぐる主題は着地するが、では「どうして楽しいことは終わってしまうのか」という疑問はどのように取り扱われるのか。
ジャコウウシが歩み去り、家路につくぼのぼの。そこでぼのぼのは、スナドリネコに「どうして楽しいことは終わってしまうのか」と尋ねる。スナドリネコはそれに対し「悲しいことも終わるため」と応える。
スナドリネコは続ける。「楽しいことも、悲しいこともみんな終わる。それは生き物が、何かをするために生まれてきたわけではないからだろう」
では、生き物はなぜ生まれてきたのか。「見るためかもしれない」
スナドリネコはこんなふうに説明する。生き物は「見られるものを見るため」に生まれてきた。でも見ているだけで退屈になったら「終わってしまうこと」をやってみればいい。必ず終わってしまうことは、そのときのためにあるんだ、と。
このラストの会話は絵コンテの初稿には存在せず、改定時に付け加えられたものだ。しかも改訂版もAパターンとBパターンの2種類が描かれ、最終的にBパターンが採用された。おそらくマンガであればここまで踏み込んだ会話が登場することはなかったのではないか。映画というメディアが、2時間のまとまりーーつまり終わってしまうことーーを要請した結果、台詞という形で「見ること」と「楽しいことが終わってしまうこと」をしっかりと結びつけるシーンが作られることになった。ここには三題噺のサゲにも似た、無関係なものが実は底流でつながっていたことが明らかになるカタルシスがある。
映画は冒頭のカットとは逆に、カメラが大きく引いていくことで締めくくられる。映画は朝から始まり、ラストは夕景である。夕日に包まれた森の全景を見るとき、観客はそれが単なるぼのぼのたちの森というだけでなく、「世界」を見ているような感覚になるはずだ。
観客はこのラストシーンに到達したことで、「見ることだけしかできない」という世界に対する姿勢と、映画に対する自分たちの関係が相似形にあり、映画を見ることが「見ているしかないこと」へのレッスンであることを知る。また同時に「映画は終わってしまうもの」で、それが世界に対して何もできない人間が、この世に飽きないための営みであることも思い出すのだ。
なお「見ること」と世界の関係について、いがらしみきおは『I【アイ】』という2010年からの連載作作品でさらに突き詰めて描いている。また2016年に出版された『ぼのぼの』41巻では、ぼのぼのの母がどんな人物だったかが初めて明かされ、そこでは「悲しみ」を軸にした物語が展開される。それは「楽しいことはなぜ終わってしまうのか」という本作の問いかけが反転した形の物語でもある。『I【アイ】』も『ぼのぼの』41巻もともに東日本大震災(宮城県在住のいがらし自身も被災者となったという)が起きたことを受けて描かれた作品である。しかしこうして振り返ってみると、映画『ぼのぼの』の中に、この2作につながる原型はすでに宿っており、それゆえに映画『ぼのぼの』は、公開から四半世紀を超えた今でも普遍性をもった作品として観客に迫ってくるのである。