
【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶.3
瀬古利彦さん(後編)
陸上競技のなかでもひときわ高い人気と注目度を誇るマラソン。五輪の大舞台で世界の強豪としのぎを削った、個性豊かな日本人選手たちのドラマは、時代を越えて人々の心を揺さぶる。
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そんなレジェンドランナーの記憶をたどる本連載。今回はマラソン戦績15戦10勝と無類の強さを誇った瀬古利彦さん。全3回のインタビュー後編は、恩師である中村清監督との別れ、二度目の五輪出場を目指しての苦闘、そして、圧倒的な強さを誇りながら五輪のメダルに届かなかったことへの思いを聞いた。
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【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶
【大きな転機となった結婚】
1984年夏のロサンゼルス五輪で14位と惨敗し、失意の中で帰国した瀬古利彦は、伴侶を見つけるべくお見合いをした。五輪に行く前、知人にいい人を見つけてもらうようにお願いしていたのだ。
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「結婚をしたいと思ったのは、(早稲田大入学時から指導を受けていたエスビー食品の)中村(清)監督のもとから離れたい、自由になりたかったからです。私ももう28歳のいい大人だったので、ひとり立ちしたいという気持ちがずっとあって、そうするには結婚をするしかなかったんです。監督には反対されましたが、ちょうど監督のがんの手術日で申し訳なかったんですけど、お見合いをしました」
瀬古は11月に婚約。すると、あらためてマラソンへの気持ちが高まってくるのを感じた。
「(1980年の)モスクワ(五輪)に出られなくて、ロスはダメでしたが、マラソンをやめようとは思わなかったですね。年齢的にもう1回できるなと思っていましたし、結婚もしたので、とにかくやるだけやりたい。よし、頑張ろうという気持ちでした」
ただ、その頃、足底筋膜炎を発症し、瀬古はレースから離れていた。なかなか思うように走れないなか、翌1985年に中村監督が渓流釣り中に急逝した。
「監督には大学1年の時から見てもらいましたが、ほめてもらったことはほとんどなかったです。(1981年の)ボストンマラソンで優勝した時でさえ怒られましたから。表彰台に両親が上がって3人で『バンザイ』と写真を撮ったんです。それを見ていた監督が『お前はなんで俺を忘れているんだ。お前を育てたのは俺だ』と怒って、1カ月ぐらい機嫌が悪かった(笑)。
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元軍人(陸軍士官)ですからね、油断したら死ぬ世界で生きてきた人なので、厳しさを監督自身にも私にも常に求めていました。でも、監督がいなかったら、僕は何者にもなっていなかったと思います」
【夜中に寝ながら腹筋をしていたことも】
足の故障は徐々に回復してきたが、中村監督が亡くなる前から瀬古はマラソンを走ることに「つらさ」を感じていた。マラソンをやればやるほどマラソンについて詳しくなり、練習をどのくらいやらないといけないのか理解できるので、それをやらないと不安になった。また、ライバル選手が車や自転車を使用せずに生活していると聞くと、瀬古もエスカレーターやエレベーターに乗らなくなった。日常生活もどんどん窮屈になっていった。
「五輪が近づけば、周囲の選手に負けられないと思うし、期待されると負けるわけにはいかないじゃないですか。練習が終わると宗兄弟(茂、猛)や中山(竹通)君の顔が浮かび、どんな練習をしているのかとかよく考えていました。家内が言うには、夜中に寝ながら腹筋をしていたこともあったそうです。シューズも特別に作ってもらっていたので、玄関ではなく、枕元に置いて寝ていました。そのくらい勝ちたいという気持ちが強かったんだと思います」
そうして迎えた1986年4月のロンドンマラソン、ロス五輪以来のマラソン復帰を優勝で飾ると、続く10月のシカゴマラソンでは2時間08分27秒の自己ベストで日本人初優勝。翌1987年4月のボストンマラソンでも自身二度目の優勝を果たし、海外マラソンで3連勝と瀬古は完全に復活した。
「ロス五輪は残念な結果だったけど、それを払拭する自信みたいなものを取り戻せた感がありました。結婚しましたし、子どももできたので、かっこいいところを見せたい、出たレースは意地でも勝ってやると思っていました。そういう気持ちにさせてくれたのは、日本に強い選手がたくさん出てきたのも大きかったです。この頃は日本の男子マラソンが世界をリードしていたので、多くの人に注目されていました。日本の男子マラソンの黄金時代だったと思います」
【自宅にカミソリ入りの封筒が届いた】
瀬古がライバル視していた宗兄弟をはじめ、谷口浩美や森下広一らに勢いがあった。だが、瀬古が一番脅威に感じていたのが中山竹通だった。
「(1986年の)アジア大会で(レース序盤から独走して優勝した)中山君を見た時、『この選手はすごい。彼に勝つのは無理だ』と思いました。次の(1988年ソウル)五輪に行くにはこんなすごい選手と戦わないといけないのかと思うと不安になりました」
そのソウル五輪の代表選考について、日本陸連は福岡国際マラソン、東京国際マラソン、びわ湖毎日マラソンの3つを対象レースにしていた。だが、瀬古、中山、宗兄弟、日本記録保持者の児玉泰介、同2位の伊藤国光、さらに谷口、新宅雅也ら世界で戦えるサブテンランナー(2時間10分以内)が多数いたため、現場の指導者、選手の申し合わせにより、福岡国際で事実上の一発勝負をすることになった。
瀬古も出場予定でいたが、4月のボストンマラソン後に欧州トラック遠征に行った際、10000mのレースで人生初の途中棄権をするなど、調子が上がらず、しかも直前で腓骨剥離骨折が判明した。
「オーバートレーニング症候群みたいになってしまって体が動かない。でも、福岡に向けて練習をしないといけない。出ると言った以上、出ないといけないと思っていたけど、とても走れる状態じゃなかった」
瀬古は、福岡の出場辞退を決めた後、翌1988年3月のびわ湖毎日マラソンに出場した。
「1月から練習してぎりぎり間に合った。でも、暑くて途中で脱水症状になり、タイムは2時間12分41秒。自分らしくない平凡なタイムで周囲を納得させることができない優勝だったので、これは(ソウル五輪は)ダメだなと思ったのですが、周囲からは前向きな発言をしてくれと言われていました」
この結果をもって瀬古は、福岡国際を制した中山、2位だった新宅とともにソウル五輪のマラソン代表に選出されるが、陸連による「瀬古救済」ではないかという批判の声が上がった。瀬古が練習で走っていると、自転車に乗った人に「バカヤロー」と言われ、自宅にも「今から殴りに行く」と脅迫電話がかかってきたり、カミソリの入った封筒が届いたりした。
「自分は皆さんが喜ぶ形で選出されていないんだなって思いましたね。(10月の)ソウル五輪は近づいてきたけど、6月くらいまではまったく気持ちが乗らなくて、なんか体の中が空っぽになっていたんです。それでもやらないといけないと思い、練習を始めたら石を踏んで捻挫したんですよ。それから7月半ばまで炎症がひどく、ほとんど走れなかった」
【マラソンは楽しいことなんてひとつもない】
夏の東京は暑いので北海道に行った。トレーナーとふたりで行ったが、ケガ明けでほとんど走れない日々が続いた
「この頃は、苦しかったですね。走れないので特にすることもなく、精神的にも苦しくて毎日、ふとんで泣いていました」
再び走り始め、1カ月程度で仕上げてソウル五輪に向かった。
「メダルにはとても及ばない。勝負なんてとても無理。2時間20分くらいで完走はできるだろうという状態でした。でも、日本のファンの人はそんなこと知らないわけじゃないですか。瀬古なら勝てると思われていたと思うんですけど、私は勝手に中山君にまかせたと思っていました」
レースは、タンザニアのジュマ・イカンガ−が前に出て引っ張る形で展開。30km手前からイタリアのジェリンド・ボルディンが前に出て、中山と瀬古も先頭集団についていった。だが、そこから徐々に瀬古が遅れはじめた。中山が4位でゴールし、瀬古は9位、最後は両手を上げてゴールラインを切った。
「ゴールした時、両手を上げたのは、ソウルが最後と決めていたので、もうこれでマラソンをやらなくてもいい。マラソンは終わりだと思ったからです。マラソンは、練習もつらいし、楽しいことなんてひとつもない。それを19歳から31歳まで続けてきたので、もういい。十分やったという表現でした」
ソウル五輪でのマラソンがマラソン最後のレースになり、そのシーズンに瀬古は現役を引退した。
【走ると現役時代のつらかったことを思い出す】
その後、瀬古は実業団や大学の指導者を経て、2016年に陸連のマラソン強化戦略プロジェクトリーダーに就任。自身が味わった苦い経験を生かして、代表選考のシステムでもあるMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)を立ち上げ、解説者としての活動、さらに各地で開催される市民マラソンにもゲストとして招待されている。ただ、自らが走ることはない。
「マラソンの大会で走ると、現役当時のつらかったことを思い出すんです。今でも夢のなかで中村監督に『お前、体重が増えて太ったな』と言われますからね(苦笑)。もう十分にやりきりました」
現役時代の瀬古は、なぜ走り続けられたのだろうか。
「走ることが好きでしたし、走ることしかできないから。自分から走ることを取ったら何も残らない。ただの人なので走る仕事があってよかったなと思いますね。五輪(のメダル)には縁がなかったけど、それが自分の実力ですから。でも、メダルは欲しかったですね。それはQちゃん(高橋尚子)を見て、あらためてそう思いました。金メダルを取ると輝き続けられるんだなって(笑)。あとの祭りですけどね」
(おわり。文中敬称略)
瀬古利彦(せこ・としひこ)/1956年生まれ、三重県桑名市出身。四日市工業高校から本格的に陸上を始め、インターハイでは800m、1500mで2年連続二冠を達成。早稲田大学へ進み、箱根駅伝では4年連続「花の2区」を走り、3、4年時には区間新記録を更新。トラック、駅伝のみならず、大学時代からマラソンで活躍し、エスビー食品時代を含めて、福岡国際、ボストン、ロンドン、シカゴなど国内外の大会での戦績は15戦10勝。無類の強さを誇った。五輪には1984年ロサンゼルス大会(14位)、1988年ソウル大会(9位)と二度出場。引退後は指導者の道に進み、2016年より日本陸上競技連盟の強化委員会マラソン強化戦略プロジェクトリーダー(マラソンリーダー)に就任。MGC(マラソングランドチャンピオンシップ)を設立し、成功に導いた。自己ベスト記録は2時間08分27秒(1986年シカゴ)