
語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第11回】堀越正己
(熊谷工高→早稲田大→神戸製鋼)
ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。
連載・第11回で取り上げる選手は、小柄な体から放たれる長く・速いパスを武器に、素早い動きで存在感を放っていた「小さな巨人」堀越正己だ。早稲田大学、神戸製鋼、そして日本代表の「9番」に君臨し、SHというポジションの魅力を世に広めた。
※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)
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糸を引くような美しいパスと、大きなFW陣のサイドを突く鋭いランで、1980年代後半から1990年にかけて日本ラグビーを席巻した「稀代のSH」だった。
1987年、熊谷工高から早稲田大に進学した堀越は、入部5カ月後に行なわれたアイルランド学生代表との試合にスタメンとして抜擢される。すると、日本代表も勝てなかったアイルランド学生代表から見事に金星を挙げて、そこから「アカクロの9番」に定着した。
1年生ながら関東大学ラグビー対抗戦に初戦からすべて先発。卓越したゲームコントロール、機敏なプレー、果敢なタックルで、かつて早稲田大で活躍した小柄な名監督を彷彿とさせるプレーから「宿澤広朗2世」と称された。
そして「堀越正己」という名を全国区に押し上げたのは、対抗戦のグループ最終戦に行なわれた早明戦だろう。通称「雪の早明戦」としてラグビーファンに知られる伝説の試合だ。
「早明戦だけは違うと、先輩に聞かされていた」という堀越は、東京・国立競技場に集った62000人のファンの声に驚いたという。
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「声援が地鳴りのように響いていた。あの興奮は忘れられない」
5cmもの積雪で試合中止も危ぶまれるなか、関係者200人総出の雪かきで開催された早明戦には、スタンドから人が溢れるほどの観客が押し寄せた。その圧巻の雰囲気のなかで、今泉清ともに1年生で先発した堀越は、WTB吉田義人を擁する明治大を10−7で下す。
【将来の夢はプロ野球選手】
早明戦を制したあとも、早稲田大の勢いは止まらない。大学選手権では同志社大に19-10で勝利し、さらに日本選手権でも東芝府中(現・東芝ブレイブルーパス東京)を22-16で下して日本一に輝いている。
1980年代後半の「早明戦」は、まさに人気絶頂だった。堀越は大学4年間の早明戦すべてに先発し、明治大のキャプテンも務めたライバル吉田との対決は、今でも多くのラグビーファンの心に残っている。
堀越は当時を振り返り、「雪の早明戦を見てラグビーを始めた、勇気をもらったと言われた。少なからず(ラグビーで)勇気を与えられていたのかな」と目を細めた。
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東京生まれ、埼玉・熊谷育ちの堀越は、小学校時代はソフトボール、中学校時代は野球に専念し、将来の夢はプロ野球選手だった。ただ、体が小さかったことで野球の強豪・熊谷商業への進学を断念し、「手に職をつけて就職したい」と熊谷工業に入学。そこでラグビーに出会った。
入部当初、堀越はSOをやりたかった。しかし、ラグビーでも体が小さい理由から、小柄でも活躍できるSHのポジションに指名された。
「体幹を鍛えられたり、スナップが強かったり、空間察知能力が身についたりして、ラグビーをやる前に野球をやっていてよかった」
ただ、当初はパスもあまり上手ではなく、パスミスを犯したくないため、相手FWのサイドに潜ってばかりいたという。そのプレーを見て熊谷工・森喜雄監督は、モグラにちなんで「モグ」という愛称をつけた。
高校からラグビーを始めた堀越は、一刻も早く周囲のレベルに追いつくために、塚田朗BK担当コーチ(のちに熊谷工監督)の指導の下、足腰を鍛えて地道にパス練習を繰り返した。その練習の積み重ねが、堀越のパッサーとしての土台となったのは間違いない。
「速くて、長くて、軽くて、取りやすいボール......というイメージを持てるようになった」
高校3年時、堀越は「花園」全国高校ラグビー大会でチームの準優勝に貢献。さらに高校日本代表にも選出されるほど急成長を遂げた。
【けじめをつけないといけない】
日本代表の初キャップを獲得したのは1988年10月。早稲田大2年の時に選出されたオックスフォード大学戦だった。そこから11年間に渡り、桜のジャージーを着て活躍する。
1989年5月には「宿澤ジャパン」の一員として、スコットランド代表を撃破した名試合も経験。村田亙とポジション争いを繰り広げ、1991年ワールドカップでは善戦したアイルランド代表戦や初勝利を挙げたジンバブエ代表戦など、正確無比なパスで高速アタックを演出した。
社会人では、平尾誠二に誘われて神戸製鋼に入社。日本選手権4連覇以降のV7に大きく貢献した。
V7を達成した2日後、阪神淡路大震災が神戸を襲った。キャプテンに就任した堀越は、復興へと歩み始めた街を盛り上げるべく奮闘した。しかし、チームをV8に導くことができず、翌シーズンも優勝に手が届かなかった。
責任感の人一倍強い堀越は「キャプテンとして、自分なりのけじめをつけないといけない」と現役引退も考えたという。しかし、周囲の説得もあって再びグラウンドに戻り、紅いジャージーをまとって現役を続行した。
引退を決意したのは30歳の時。1999年の日本選手権・東芝府中戦の敗戦を最後に、惜しまれつつもユニフォームを脱いだ。
引退後は神戸製鋼に残ろうと思っていた。その矢先、地元・熊谷にある立正大からラグビー部監督のオファーを受ける。
街に恩返ししたいという思いは、神戸時代から変わらない。堀越は立正大のオファーを受けることにした。また、女子ラグビーの強化にも奔走し、7人制ラグビーのクラブ「ARUKAS KUMAGAYA」の設立に伴い、チームのGMにも就任した。
そこから26年──。堀越は地元・熊谷を拠点に、若手の育成に携わり続けている。
「ラグビーは、居場所と役割と出番を、僕に与えてくれた」
小柄な体が理由で野球からラグビーに転身した堀越の言葉には、説得力がある。