
カルロス・アルカラス(スペイン)は、錦織圭がコートに戻りたいと願う、モチベーションのひとつだった。
錦織が股関節にメスを入れ、テニス界の表舞台から離脱したのが2022年1月。その錦織と入れ替わるように、メインストリームに躍り出たのが、アルカラスだ。
2022年夏、全米オープンでグランドスラム初戴冠を成した当時19歳の青年は、史上最年少の世界1位にも上り詰める。2023年ウインブルドンでは、決勝でノバク・ジョコビッチ(セルビア)をフルセットの死闘の末に破り、新時代到来のドラを高らかに鳴り響かせた。
さらに昨年は全仏オープンを制し、ハード、クレー(土)、芝という、三種の異なるコートサーフェスのグランドスラムで優勝した最年少選手にもなる。無邪気な笑みで世代交代を押し進めるアルカラスを、ジョコビッチは「僕とラファエル・ナダル(スペイン)、ロジャー・フェデラー(スイス)の3人を統合したような選手」とまで称えた。
戦線離脱中の錦織は、あまりの急成長のため自身と接点の少ないこの若者の足跡を、興味深く追っていたという。
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昨年、再びツアーレベルに復活した錦織は、会見で「何が復帰のモチベーションだったか」と問われるたび、「アルカラスやヤニック・シナー(イタリア)と対戦したいと思っていた」と答えてきた。
昨年3月の時点では、「自分が対戦したら、どうやってプレーするかな......とか考えますね、あのふたりに関しては」と苦笑いしつつ、こう続けた。
「解決策は見つからないというか、まだ自分がそのレベルに達していない。プレーが戻ってきて自信がついて、またこういうトップ選手と戦えたらうれしいです」と。
あれから、約1年──。その願いが、ようやく叶うこととなった。
それも舞台は、全仏オープン1回戦。アルカラスは、前年優勝者の世界2位。錦織は、ここ3年間で最も高い世界62位として、ディフェンディングチャンピオンに挑む。
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【錦織もクレーに変革をもたらした】
アルカラスの台頭は、世代交代のみならず、テニスそのものに変革をもたらしたというのは、衆目の一致するところだ。
約4年前、当時17歳のアルカラスと対戦したダニエル太郎は、「前に入っていくスピードは、今のトップ選手より速い」と、新時代の息吹に触れた衝撃を口にした。
日本のエースに成長した西岡良仁も、早くからアルカラスに熱視線を向けていたひとり。ショットが速いのみならず、ミスを気に留めるふうもなく攻め続ける姿に、異なるテニスセオリーを感得した。
そして錦織も、昨今の若手のショットスピードが、いかに速いかを身をもって痛感してきた。ホルガ・ルーネ(デンマーク/22歳)やシャン・ジュンチェン(中国/20歳)と対戦するたび、その球威への驚きを吐露。さらには「アルカラスやシナーは、もっと速いだろうから......」と、その先にある最高峰の世界を推測した。
かつてクレーコートの戦いといえば、コート後方に下がり、赤い土煙を巻き上げながら駆け、高い軌道のボールをしぶとく打ち続けるのがセオリーだった。そんな20年ほど前と今の光景を比べれば、隔世の感は明瞭だろう。
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ただ、その変化の行程を追った時、クレーの変革の起点に、錦織がいることに気づくはずだ。
象徴的なのは、2014年。この年、マイケル・チャンをコーチに迎えた錦織は、新たな師の勧めもあり、ベースラインから下がらず、跳ねるボールを高い打点で叩いて相手の時間と空間を削る、まったく新しい戦術を持ち込んだ。
その柔軟な発想と勇気は、ATP500のバルセロナオープン優勝、そしてATPマスターズ1000のマドリードオープン準優勝として結実する。特にマドリードの決勝では、序盤でナダルを圧倒。猛攻に自身の身体がついていかず途中棄権となったものの、ナダルのコーチをして「錦織のほうが勝者にふさわしかった」と言わしめた。
【年下の元世界1位との対戦は初めて】
今季、すでにモンテカルロとローマのマスターズ2大会を制し、ナダルが保持した「赤土の王」の称号を継承するアルカラスだが、プレーのテイストはむしろ、錦織と似ていると言えるだろう。
ドロップショットや股抜きショットなど、遊び心あふれるプレーを好むのも共通項。錦織が進めた時計の針の先で、世界を制したのがアルカラスだ。
思えば、キャリアの大半を「ビッグ4」時代に生き、常に年長者に挑んできた錦織にとって、年下の「世界1位経験者」と対戦するのは、今回が初めての経験でもある。
一時はランキング外となった錦織と、早くもテニス史に名を刻む若き王者の邂逅(かいこう)。それは本人にとって、そして見る者にとってもあまりに甘美で幸運な、一瞬の足跡の交錯である。