
【写真】蝶ネクタイの代わりにリボン型マフラーを身に着けたコナン
■作品としての抜かりなさ 何度も観ることで深まる解像度
本作の舞台は長野。長野といえば、原作・アニメでもお馴染み“長野県警組”こと大和敢助、諸伏高明、上原由衣の3人が本作でも重要な役として登場する。特に大和に関しては隻眼になった背景……犯人追跡中に遭った雪崩事故の真相が描かれるため、主役級の活躍だ。そしてある日、その雪崩事故を調べていた毛利小五郎の刑事時代の相棒、鮫谷浩二から小五郎の元に一本の電話がかかってくる。後日会う約束を取り付けた2人だったが、待ち合わせ場所で鮫谷は何者かによって射殺される。こうして小五郎と江戸川コナン、毛利蘭は鮫谷の追っていた雪崩事故と深い関係のある長野に向かうのだった。
多くのアニメ映画が昨今、週替わりの劇場入場特典を配布することで興行収入を伸ばしているのに対し、劇場版『名探偵コナン』はそれがなくてもリピートする観客が多い印象だ。しかし本作は昨年の『100万ドルの五稜星』と比べて、服部平次や怪盗キッドなど、劇場版だけを追っていても多くの人が知っているようなキャラクターがメインの作品ではない。作風もシリアスな印象だ。しかし、そこが良い。昨年のアトラクション的な映画をリピートする楽しみ方とは違って、今作は複雑に絡み合うキャラクター同士の感情を堪能するドラマであり、何度も鑑賞を重ねることで、映像の中の描写や説明がより拾えていくような作品と言えるだろう。
今作でシリーズ初監督を務めた重原克也が「あまり説明しすぎないでも、理解してくれるものを目指しています」「できれば、何回も観て、噛み砕いて、自分なりに解釈してくれたらうれしいです」と公式インタビューで語っているように、本作は映像の中であらゆる事象についての説明がされている。
例えば、犯人が証拠を身に着けたままだったこと。鑑賞者的には「なぜ、わざわざ証拠になるものを捨てなかったのか」と疑問に思いやすいシーンだが、ある“フラッシュバック”の挿入によって、それが犯人にとって大切なものだったことが示唆されている。
このようにもたげた多くの疑問が作品の中で概ね解消される作りに好感が持てる。また、例えば警視庁に風見がいたシーンでは、彼が電話をするフリをするが、それが“フリ”であることが彼の携帯が通話画面ではなく待ち受け画面(彼の推している沖野ヨーコの写真)のままだったことから理解できたり、舟久保真希の墓の周りの雪が溶けて土が暖かいことへの説明として、大友/鷲頭隆が炭を土に混ぜていたことが回想の映像で明かされたりと、本作にはこういった映像的説明が多く、いわゆる“説明せりふ”のようなものはない。
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特に個人的に好きだったのが、コナンが今回の劇中で“リボン型”のマフラーをつけていること。これは今回、毛利小五郎が“眠らない”ため、使用されない蝶ネクタイ型変声機の代わりになっているのが面白い。そしてこれがクライマックスのアクションシーン(青山剛昌が手がけた原画シーン)で解かれ風になびくのだが、それが映画の序盤で少年探偵団が観ていた「仮面ヤイバー」の赤いマフラーに重なるのだ。つまり、普段の名探偵の装いから“ヒーロー”の装いに変わる“変身シーン”でもあって、この後のとんでもないフィジカルアクションを全てファンタジーとして観ることができるように「現実」と「非現実」の境目の役割も担っている。こういった視覚情報に表面的な情報以上の意味を持たせる点も魅力的だ。
なお、本作は暗転を多用している。本来、場面転換や回想などのシーンの区切りに活用される暗転だが『隻眼の残像』では暗転中に前シーンのキャラクターの言葉が重なることで、せりふに余韻を持たせつつスピーディな場面変更が行われていて、そういった点にもこれまでの劇場版『名探偵コナン』で複数回演出として参加してきた重原監督のテクニックが見受けられた。
■櫻井武晴の脚本だからこそのキャラクター掘り下げ
なんといっても感情的なシーンなどキャラクターそのものを深く掘る本作。特に長野県警の大和敢助、諸伏高明、上原由衣、そして毛利小五郎など久々の活躍となるキーパーソンたちが基本的に全員大人だった点も、映画全体が大人向けの雰囲気になっている要因と言えるだろう。前作の『100万ドルの五稜星』が若者たちによる恋愛青春アクション映画だったことに対し、本作ではロマンスシーンでさえ会話の内容がいたたまれないほど大人な雰囲気を醸し出す。
しかし落ち着いているかと思えば全くそんなことはなく、雪山を舞台にしたシックなサスペンス映画のていをしたアツすぎる激情型作品なのが面白い。特に長野3人組に関しては、それぞれが命を落としかけるという暴れっぷりを見せ、残された2人の感情が爆発、そのローテーションが繰り広げられ、それを観る我々も爆発というループが完成されていて良い意味で手に負えない。あの普段はふざけた小五郎でさえ親友の死に泣き叫ぶ姿を見せ、普段からは想像もできない強い感情を表に出す。その中で、普段から暴れまくっている主人公のコナンが一歩引き、いつも彼の守る対象だった毛利蘭と“共犯関係”となって脇に徹している点もさじ加減が良い。
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そんな彼らが本作では銃声を聞いて無闇に飛び出し、銃を持った大人相手に本気で怖い思いをする。これは「見た目は子ども、頭脳は大人」な主人公を筆頭に子どもたちが豪胆すぎる『名探偵コナン』シリーズにおいて忘れがちな、彼ら本来のリアクションを引き出していて、ちゃんと子どもが子どもとして描かれることの大切さを改めて思い出させてくれる。それと同時に蘭が犯人に銃口を向けられた時も、自分たちが勝手に外に出たことで招いた状況とはいえ“演技”をして追い払う活躍ぶりを見せた。震えながらも彼らなりに勇気を出して彼女を救おうとしたこと、そんな彼らを「怖かったね」と蘭が抱きしめるシーンには少し目頭が熱くなってしまう。
櫻井脚本ならではの“キャラクター深掘り”といえば忘れてはいけないのが、公安だ。本作でも降谷零の部下である風見裕也が缶コーヒーまみれの疲労困憊状態でコナンにこき使われてしまう。彼は『純黒の悪夢』に初登場し、劇場版から本編に逆輸入された数少ないキャラクターの1人なのだが、本作ではコナンに盗聴器をつけたことを降谷に咎(とが)められた際に「かつてのあなたがそうしたように」と発言する。これは『ゼロの執行人』で降谷がコナンの携帯に遠隔操作アプリを入れて動きを監視していたことを示唆していて、同じ脚本家が書いた過去作を引き合いに出せる強みを感じさせる。加えて、クライマックスで小五郎が風見を見た時に「お前……!」と口走るシーンも、風見ら公安が小五郎を爆破テロの犯人に仕立て上げた因縁を表していて、作品同士の繋(つな)がりが実感できるのだ。
観客の我々は把握していても、本来、劇場版で起きたことは劇場版に止めることが多く、作品の中のキャラクターは記憶喪失にあったかのように、それがなかったこととして物語が進行することも少なくない。しかし、前作『100万ドルの五稜星』の怪盗キッドと服部平次の因縁といい、『名探偵コナン』は劇場版とテレビアニメが地続きになっていることが多く、それゆえにキャラクターが持つ歴史が深まる。小五郎が風見の車に乗り込み、肩に手を置いて車を出すように促すシーンも、風見の銃を奪って発砲するシーンも、風見が自分に貸しがあることに小五郎が自覚的なところが良い。それと同時に風見にとっての贖(しょく)罪にもなっているのだから、意味深いものだ。
また、櫻井脚本といえば劇場版の前後のアニメ回にも注目してほしい。彼はこれまでも前日譚的や後日談エピソードを書き下ろしていて、『隻眼の残像』においても5月3日放送の「秘密の残像」で亡くなった鮫谷浩二の知られざる秘密について言及されているので、劇場版を鑑賞済みの方はこちらもチェックしていただきたい。
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最後に、劇中に登場する“リモコン”を通して描かれた意味について考えたい。鮫谷から着信があった夜、毛利宅では夕食時にリモコンが行方不明になる。小説版ではどれだけ探しても見つからないので、コナンが小五郎のスマホにアプリを入れてリモコンとして使えるようにしている。「んじゃあれだな! もうスマホでいいな! リモコンなんかいらねーな!」と酒に酔いながら景気良く話す小五郎。しかし、リモコンは映画の最後にどこからともなく見つかり、毛利宅にまたいつも通りの日常が戻ってくるのだった。
一見唐突な出来事のように思えるが、このリモコンは2つのものを暗喩している。1つは小五郎自身だ。普段から“眠りの小五郎”としてコナンに眠らされて推理を展開する彼だが、無くなったリモコンが象徴するのは本作でコナンに“操られない”小五郎である。だからこそ「リモコンなんかいらねーな!」のセリフの意味が「もうずっと俺が主役でいいな!」の意にも捉えられて面白いのだ。しかし、残念ながらリモコンは最後に戻ってきて、再び小五郎が“眠りの小五郎”に戻ることを示唆している。
それと同時にリモコンが表しているのは本作が描く、1つの“真実”である。スマホでもういい、と言う小五郎にコナンは以下のように答えた。
「ダメだよ、アプリで代用しただけなんだから。ちゃんとリモコン探した方がいいよ」。
これはつまり、どれだけスマホがリモコンの“フリ”をしてもスマホであるに変わりはないと言う意味である。この主張に呼応するのが、劇中で取り上げられる「証人保護プログラム」なのだ。大友隆のように、姿や名前を変えても過去の罪から逃れることはできない。そのため彼は鷲頭隆として、御厨が知る彼のあだ名をつけた炭焼き小屋で、復讐を受ける日を待っていた。一方、刑務所で「俺は今こうして償ってんだ! 俺を売った鷲頭と違ってな!」と叫んでいた御厨。しかし、諸伏高明から鷲頭を殺そうとしていたことを指摘されたことに対しては「ああ、奴を殺したかったよ!」「ここを出たら絶対、殺しに行ってやるからな!」と口走った。先に彼の口から出た“償い”が、その後の殺意で何の意味もないものだということが分かる。つまり、罪を償う“フリ”をしたところでその人間の本質は何も変わらないのだということが、リモコンとスマホのやり取りになぞらえて描かれているのだ。
本作では“フリ”をする人物が多く登場する。窓際族のフリをした警視庁刑事部刑事総務課の鮫谷。東京地検の検察官のフリをした長谷部陸夫。名前と顔を変えて別人のフリをした大友。銃を撃っていないフリをした小五郎。親切な世話役のフリをした林。その誰もが、最後には正体を明かす。そんな『隻眼の残像』は、「やはり人はそんな簡単に変わることができない」という、歳を重ねれば重ねるほど痛感するほろ苦い“真実”を映し出す作品として、その大人向けな味わいが魅力的なのだ。
(文:アナイス/ANAIS)