俳優・古舘佑太郎、有名父への葛藤とサカナクション山口に命じられた“強制アジア放浪”で得たもの

1

2025年06月01日 16:00  週刊女性PRIME

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

週刊女性PRIME

ミュージシャン、俳優・古舘佑太郎(34)撮影/渡邉智裕

 2025年4月30日の夜、下北沢の「本屋B&B」で、古舘佑太郎(34)は、お笑い芸人の又吉直樹(44)と並んでいた。2024年3月1日から4月30日まで、アジアを1人で旅した記録である初の著書『カトマンズに飛ばされて 旅嫌いな僕のアジア10カ国激闘日記』の刊行を記念し、対談イベントを開催したのだ。ゲストに招かれた又吉はこう称賛した。

アナウンサー・古舘伊知郎の長男、古舘佑太郎

「僕は普段、旅行記の類いは、好きな作家のものであってもあまり手に取らないんです。なのに、この本はめちゃくちゃ面白かった。旅によって成長しないで、困難を乗り越えられないで、と思いながら読んで、最後に古舘さんがたくましくなっていくさまに、自分が置いていかれるような寂しさと、憧れを感じました」

 古舘佑太郎、職業はミュージシャン・俳優。アナウンサー・古舘伊知郎の長男で、2人の姉がいる末っ子である。高校生のときに同級生たちと結成したバンド、The SALOVERSが音楽業界で話題となり、2010年、19歳の若さでデビュー。

 5年後に活動休止し、ソロ活動を経て新バンドを結成したが、やはりヒットには届かず解散。そのころには俳優の仕事もなく、32歳にして初めて人生の展望がゼロになる。

 2つ目のバンドのプロデューサーである師匠、サカナクションの山口一郎に解散を報告するため、古舘は彼のツアー先の名古屋を訪ねた。報告はライブ後にしようと思っていたが、楽屋でいきなり「用件は何だ?」と訊かれる。仕方なく解散を伝えたところ、突然「よし、カトマンズに行け! 金は俺が出す」。

 電車のつり革も握れないし、エレベーターのボタンは爪の先で押す極度の潔癖症。物事が予定どおり進まないと我慢できない病的なせっかち。そんな旅嫌いな古舘がバックパッカーとしてアジアを旅することになってしまったのだ。その旅路で悪戦苦闘するさまを、古舘はリアルタイムでインスタグラムに投稿し続けた。

 スタート地点であるタイのバンコクに、昔、CDのジャケットを撮ってくれた写真家の藤原江理奈(45)が住んでいると知った古舘は、到着翌日に会った。彼女が言う。

「タイで古舘さんと会ったら、前日からの大変なことをバーッと話し始めて『僕は旅をやりきれる自信がない!』と。で、『荷物が重すぎる、こんなに荷物を持ってきた自分に怒ってる!』と言いながら、どんどん物を捨て始めたんです。東南アジアは空気が良くないのでマスクは持っておいたほうがいいよ、新品のTシャツは捨てるなら着てからにしたほうがいいよ、って止めても聞かない。自分がこうだと思ったら、自分の道を行く人なんだな、と思いました(笑)」

 そのあと彼女は古舘をリラックスさせようと、マッサージ店に連れ出すが、逆効果に。

「施術中、『自分にこの旅は無理だ』という思いでいっぱいになったらしくて。店を出て道路を渡る途中、過呼吸になって、『僕もう無理です!』と。その状態で撮ったのが、本の表紙の写真です(笑)」

 当の本人は、旅を決意した経緯をこう明かす。

「本当に行くつもりはなかったんです。でも、すぐに一郎さんから旅の資金が振り込まれて、じゃあ1週間ぐらいで逃げ帰ってこようと。そしたら一郎さんが、4000人が見ている生配信で、僕が旅に出たこと、お金は自分が出したことをバラしちゃって、帰れなくなった。めっちゃ応援メッセージが届いて、退路を断たれたんです。かといって、前を向いても道がない」

 32歳にして、1人でアジアの異国に放り出された古舘佑太郎。彼の音楽活動は、いかに多くの人の“共感”を得られるかを目指す戦いの歴史だった。だが、数字と人の意見にとらわれるあまり、純粋に音楽を作れなくなっていた。この旅は、表現者としての古舘が、初めてそこから解き放たれた経験でもある─。

スパルタ塾で偉大な父が望んだ道へ

 自称「有名になりたかったのに、なれなかった迷子」である古舘がまだ幼かったころ、父親はすでに超有名人だった。

 当時の父親は、F1レースの中継や『夜のヒットスタジオDELUXE』の司会を務めていたが、彼が音楽や文学に興味を持ち始めたころには『報道ステーション』のメインキャスターに就任し、バラエティーの仕事をやめていた。そのため、息子の目には「報道の人で、カルチャーとは無縁」と映っていたという。

 多忙を極めていたこともあってか、父が息子に強く干渉することはなかった。ただ、ひとつだけこだわったのが、慶應に入れることだという。

「自分が慶應に落ちたので、とにかく僕を慶應に入れたがって、小学校のお受験塾に通わされて。塾のある水曜と日曜は本当に憂鬱。みんな必死で授業についていくんだけど、1人、また1人と泣き出すんですよ、つらすぎて。3〜4歳の子に腹筋100回とか、腕立て伏せとか」

 晴れて慶應幼稚舎に合格した日、父はその通知を握りしめて泣いた。姉2人の結婚式でも、祖父母の葬儀でも泣かなかった父親が泣くのを見た、唯一の記憶だという。

「マジで変人だなと思うのが、そこまで慶應にこだわったなら、いい成績をとれとか、いい就職をしろとか言うべきじゃないですか。違うんですよ。何も言わない。合格通知を握り締めて泣いた時点で終わっているんです」

 古舘は、慶應幼稚舎に通いながら、地元の少年野球チームに入る。将来の夢は野球選手で、母に「自分はドラフトにかかるから大学には進学できない」と言っていた。

 本格的に音楽に興味を持ったのは、高校生の姉たちや、その彼氏の影響。洋楽のCDを聴きあさり、姉のお下がりのギターを弾き始める。そして中3の秋の文化祭で、初めてバンドでステージに立った。

大失恋で寡黙な文学少年に変貌!?

 念願の彼女もできた。

「中学でも野球部だったんですけど、引退後は厳しい日々から解放されて、甘酸っぱい青春を満喫してたんですね。バンドをやったり、彼女がライブを見に来てくれたり。姉たちがそうしているのを見て憧れていた生活ができるようになって、楽しかった」

 4歳のとき、お受験塾で出会って以来、現在も付き合いが続く古舘の親友で、The SALOVERSのドラマーでもある藤川雄太(33)は言う。

「彼女は、いいところのお嬢さんで超美人。F組にいた、学年でかわいいとされる4人が、F4って呼ばれてたんです。その一角が彼女で。古舘くんはクラスの中心にいて、おしゃれだったし、高嶺の花を射止められたのもおかしくないというか。本人は全然そう思っていないんですけど」

 しかし、高校で男子校と女子校に分かれた半年後、古舘は彼女にフラれる。その後、自分のもとを去った彼女が、校内でいちばんチャラい、ドレッドヘアの先輩と付き合っていることを知った。そこから、それまで興味がなかった文学にのめり込んでいく。

「はい、そこからですね、(村上)春樹を月の明かりで読み始めるのは(笑)。目つきも変わったし、クラスの誰ともしゃべらなくなって。先輩に彼女を取られて、学校の全員が敵だと思っちゃったんです。みんなそれを知っていて俺のことを笑ってる、誰にも心を許さない、みたいな」

 好きな曲をコピーするつもりで始めたバンドで、オリジナル曲を書き始めたのも、その大失恋がきっかけだった。

「もう、いてもたってもいられなくて。その子に何回もメールしたし。手紙も書いて、最後になぜかザ・ブルーハーツの『青空』の歌詞を書くんですよ。で、CD―Rに曲を……だったらブルーハーツでいいのに、くるりの『言葉はさんかく こころは四角』を入れて。それを免許取りたての原付に乗って、彼女の家のポストに入れに行く。頭グチャグチャですよ、もう」

 必死のアピールもむなしく、まったく考え直してもらえない。それでも心が折れなかった古舘は、高1の秋に決まったThe SALOVERSの初ライブに懸ける。彼女を思って書いた曲を演奏しよう、それを見てくれたらきっと気持ちを変えられる、と。友達の協力もあり、彼女はライブハウスに来てくれた。しかしライブ後、「今度会ってくれないか」と伝えると、「会うのも手紙もメールも無理です」と拒否され、あえなく撃沈する。

父親コンプレックスと葛藤

 もうどうすることもできない。でも、曲だったら、好き勝手なことを言っていい、それが彼女に届くかもしれない。そう思った古舘は、さらに曲作りに打ち込む。

「もう、次から次へと曲ができた。The SALOVERSの初期の曲は、ほとんどそのころに作りました」

 一方、バンドの存在が、高校の中では「火だるまになっていた」そうだ。

「当時、2ちゃんねるが流行ってて、うちの高校専用のスレッドがあったんです。そこで引くぐらい叩かれていた。The SALOVERSの専用スレができたくらい(笑)。鼻についたんじゃないですか、内部生だし、愛想も悪いし。父親のこともあったと思います」

 しかし、古舘はやがて事態をこう捉えるようになる。

「叩かれるから余計に『全員敵だ! 俺と彼女を引き裂いたこの学校とこの男たち、俺の音楽をディスってくるやつら、全員ぶち殺したい』という怒りに染まっていて。でもそのおかげで、僕、叩かれないと寂しいみたいになっちゃったんです。売れてるものとかヒットしているものって、絶対にアンチがつくことに気づいた。めっちゃ叩かれてたけど、その分目立っていたんだなと。だから、デビューして叩かれなくなっていったあたりは、逆につらかったです」

 失恋と誹謗中傷をエネルギーにかえ、バンドに打ち込んでいた高2のとき、全国コンテストで決勝に進んだりしたのがきっかけで、彼らは音楽業界で注目される。数社が争奪戦を繰り広げる中、2009年には、当時中高生の間で絶大な人気を集めていた、TOKYO―FMとソニーミュージックが組んだラジオ番組主導のコンテスト「閃光ライオット」の決勝で見事、特別賞を受賞する。

「学校内でも評価が変わりました。何社もスカウトが来た時点で『俺はこのためにつらい思いをしてきたのか』みたいな。天狗になりましたね」

 親友の藤川も「そのころはメンバー全員、めちゃめちゃ調子に乗ってた」と明かす。

「ただ……某社からお誘いをいただいたときに、古舘くんが『お父さんにいつもお世話になっています』と言われたんです。その言葉で、落ち込んでいた。自分の力でやってきたのに……と。その後、取材とかを受けるときも『なるべく父の名前は出さないでください』と言っていました」

“もっと売れなきゃ”という恐怖心

 東芝EMI(現ユニバーサル ミュージック)内の、インディーズ・レーベル兼マネージメントと契約、2010年にデビュー。そこで初めて古舘は現実を思い知る。

「人に伝えるってこんなにも難しいのか、と。僕らは若いから面白がられてデビューできただけで。もっと動員があるバンドも、もっと演奏がうまいバンドもいた。僕らはデビューできたのに何もない状態だということに、インディーズの2枚目を出したころ気づいちゃって」

 そもそもThe SALOVERSは、バンドをやりたい古舘が幼なじみに楽器をやるよう声をかけ、始まったバンドだ。

「みんな音楽で食っていきたいと思ってないから、遅刻するし、練習してこないし、ガミガミ言っているうちに『あれ? 友達だったのにな』と」

 メジャーデビュー前の段階で、すでに古舘は焦っていた。

「とにかく自分を変えなきゃ、もっといい曲書かなきゃ、もっと売れなきゃ、という思考になっていって。メガヒットしていれば、根拠なき自信が根拠ある自信に変わったんでしょうけど。まずい、このままだと活動を維持していけない、という恐怖心がありました」

 ある日、古舘はあれほど避けてきたはずの名前を自ら口にし、周囲を驚かせる。メンバー全員が悩む中、「先に一皮むけた」と藤川は感じた。

「インディーズからメジャーに移るとき、新人何組かを、音楽業界の関係者にお披露目するライブがあったんです。バンドで2曲やったんですけど、そのあと古舘くんがアコースティックギターを持って1人で歌った。その前に『古舘伊知郎の息子です』と言ったんです。そこで『クニ』というご時世的にヤバい曲を歌って、すごい拍手を受けたんですよね。すべてを受け入れて前に進んでいく、という覚悟が見えた気がしました」

 The SALOVERSは確かにヒットしたとはいえないが、コアなロックファンや先輩ミュージシャンから、最も認められている若手でもあった。

「こんなに迷っているくせに、自分が大好きなくるりの岸田繁さんに絶賛されたり、先輩方がみんな褒めてくれる。でも『やべえ、また俺、才能あるフリ詐欺をしてるんじゃないか、だから早くこれを真実にしなきゃ』みたいな。ファンに対してもそうでした。こんなに自信がなくてダメな俺を応援してくれるんだから、早く結果を残して恩返しをしないと……って」

 古舘と同い年で、互いに親友と認め合うMy Hair is Badの椎木知仁(33)も最初はファンだった。新潟県の高校生だったときにThe SALOVERSを知り、夢中になったという。

「歌も演奏もファッションもカッコよくて、特に歌詞がすごくて。新潟にツアーに来たときに見に行って、写真を撮ってもらって、握手して帰りました。書く曲もそうだし、身振りとかもそうですけど、いつかいなくなっちゃうんじゃないか、破滅していくんじゃないか、という危うさをすごく感じていて。この人を追いかけたい、この人がどうなっていくのか見たい、と」

二度目の挑戦を決めた理由

 だが、ブレイク未満の現状を打破できぬまま、2015年、大学卒業と同時に活動を終える。その前後から俳優の仕事を始めたが、ソロでバックバンドを集めて音楽活動も再開。そこに加わったギタリストの加藤綾太と、新しいバンドをつくれるのではないか、と考え始めたころのことだ。

「SALOVERSがうまくいかなかったのは、四つ打ちダンス・ロックのブームやシティポップが流行って、僕らのような、'90年代からのオルタナティブな音の系譜にいるバンドが時流に合わなくなったからだ、と。時代のせいにしてた。そこに、My Hair is Badとyonigeが登場するんですよね。僕らに影響を受けたと公言する2バンドが、『時流に合わないから』という僕の言い訳なんか覆して、めちゃくちゃ売れ始めた。それはすごくいい刺激になりました。もう一回戦場に戻りたい、という気持ちになった」

 古舘と加藤はメンバーを集め、バンドを結成。4人とも2つ目のバンドなので「2」と名づけ、1を超えようと活動を始めた。

「ファースト・アルバムがびっくりするくらい売れて。動員もすごい増えた。でも、2枚目から伸びが止まったんです。やっぱり僕は『数字で結果を出したい』という気持ちが根底にあったから、またウジウジし始めました」

 数字以外の部分でも、順風満帆ではなかった。メンバーが脱退し、古舘と加藤だけになって活動が止まったこともある。THE 2と改名して再始動するも、またもやメンバーが去り、ついには相棒の加藤が病気で休むことになる─。

「誰も悪くない状況で、足並みがそろわなくなって。でも意地になって頑張っていました。自分の弱さと幼さで、The SALOVERSの看板を簡単に下ろしてしまった、次はそうしたくない、と」

 いつしか、バンドのマネージャー業務も、古舘自身が担うようになっていた。

「ツアーのとき、1人で機材車を運転して、1人で全員分の機材の積み下ろしをして、精算も自分でやって、みんなにギャラを払って。それでいいと思ってたんですけど、ツアーで四国に行ったとき、僕が運転していて、パッと振り返ったら、僕以外全員サポートメンバーだったんですよ。マネージャーもいない。そのとき、『これはバンドなのか?』と、われに返りました」

 THE 2は、2024年2月のライブで解散。活動期間はThe SALOVERSと同じ7年間だった。

「このときは初めて『自分、頑張ったな』と思えちゃったんです。それまでは常に焦りながら『もっと上に』と思ってやってきた僕が、初めて『ここまでかな、もういいのかも』と思えた。バンドを2つもやれたし、役者の仕事も楽しかった。これ以上求めるのは欲張りすぎるなと」

トラブルだらけのアジア放浪の旅

 いよいよ1人になり、手ぶらになった古舘は、サカナクション・山口に命じられたとおり、タイ→カンボジア→ベトナム→ラオス→中国→バングラデシュ……と、カトマンズを目指すことになる。藤川は、旅立つ前の古舘から、相談を受けたそうだ。

「『大丈夫かな、大丈夫かな』と言うので、『大丈夫だよ』と答えましたけど。ただ、異常な潔癖症なのが心配で。学生時代の話ですが、古舘くんの部屋に入るときって、絶対着替えさせられるんですよ。友達用の着替えが用意してある。僕だけじゃなくて、彼女が遊びに来たときも。『同じ扱いなんだ?』とびっくりしたのを覚えてます(笑)」

 旅に出た古舘が最初に決めたことは「とにかく毎日3つ『今日はこれをやる』とタスクを自分に課す」だった。

「最初は『売店で水を買う』で、『買えた! 俺は強い!』と自分に言い聞かせて。自分で計画を組んで、そのとおり進めるのは得意なんですよ。でも、この旅のヤバいところは、予定がないこと。どこに行っちゃいけないかもわかんない。予定を組んでもそのとおりにいくわけがない。僕の性格と真逆なんです」

 でも、だからこそ、この旅には意味があると、途中でわかってきたという。

「人生って計画どおりがすべてじゃないし。僕は人を振り回すばかりで、自分が振り回されたことはなかったのかなと。旅ではちゃんと振り回されたので。新鮮でしたよね」

 行く先々でぼったくりに遭い、欲しくもない土産を売りつけられる。ラオスでは、かわいい少年たちに手を引かれ、連れていかれた先が売春宿で、中学生の年にも満たない少女を買えと言われ、彼らの現実にひどくショックを受けた。

 ネパールからインドにバスで入国しようとしたら、国境で「このビザでは陸路での入国は不可能だ」と、自分だけバスから放り出された。やっと入国できたインドでは、人っ子ひとり通らず電波も届かない山岳地帯で、レンタルスクーターのキーを紛失。「あ、このままだと凍死だ」という極限状態を味わう。奇跡的にキーは見つかったが、帰り道で転倒し、右足を負傷する─。

 周囲に反対されながら、ガンジス川で沐浴もした。初日は汚い宿でパニック状態だったが、インドで寝台列車に乗るころには、壁を這う無数のゴキブリを指ではじき飛ばせるようになっていた。

 前出の椎木も、彼の旅のインスタを追っていた。

「旅する前の10倍、20倍の『いいね』がついていて、『やっぱりそうだよな』と。この人が逆境にいるとき、ストレスがかかっているときに書く文章って素晴らしい。The SALOVERSのころに見ていたフルくん(古舘)の姿を思い出しました。ずっとイライラしてる顔で、イライラした言葉を選んで歌っていたころのフルくんと同じで、本来持っている力を発揮できているなあ、と」

“共感されなきゃ”から解放されて

 旅が終わりを迎えるころ、かつての恐怖心は消えていた。

「僕は人の共感がすべてだと思って、しかもその共感を履き違えてやってきたけど、この旅は確実に僕だけのものだし、誰かに共感してもらうためにやったこともゼロだし。むしろ、わかってたまるか、という気持ちで、日々のインスタもアップしていた。でも、こんな旅をしたことがない人たちも、リアクションしてくれた。

 それは僕が考えていた共感とは、つじつまが合わないんですよね。あなたにもわかる言葉やメロディーじゃなきゃダメだ、俺しかわかんないものだと共感してもらえない、という恐怖にさいなまれてきたけど、このインスタは旅に興味がない人たちも、僕の音楽を知らない人も、面白いと言ってくれた。共感に対しての考え方を改めなきゃなと思いました」

 それは古舘にとって、大きな発見だった。

「この旅で気づけたことは、自分というものを見失わないために、自分と向き合って生まれたものが一歩目。それが人にどう伝わるかはその次で、一歩目じゃないということです。それを音楽でもやらないと、また音楽をやる意味がない」

「本屋B&B」でのトークイベントの後半、又吉直樹はこんな話もした。

「僕の小説もそうですけど、選ばれなかった側の人が主人公の話に惹かれるんです。選ばれなかった人が、山口一郎さんに選ばれて、ブーブー言いながら過酷な旅をしている。それが面白いと思いました」

 父・古舘伊知郎は、息子が初めて書いた本を買って読み、こんな感想を送っていた。

「音楽もお芝居も、俺には難しいことはさっぱりわからないけど、佑太郎の言葉紬はけっこういい線いっているから、文章も頑張ってみたらいかがでしょう」

 高校のころからTHE 2解散まで、音楽活動も俳優業も、一貫して「応援はしないが止めもしない」という姿勢だった父が、初めて息子の表現にリアクションをくれた。

「ある意味、自分と対等に、1人の表現者として見てくれているんだな、と最近は感じて、感謝しています」

 ただ、この旅で自分が大きく変わった実感はないという。

「むしろ、変わってないことのほうが多いと思います。自分のどうしようもない部分や、情けない部分は、カトマンズに行こうが、ガンジス川に入ろうが、変わらないんだなと。唯一変わったのは、そんな自分を変えなくていいんだ、自分だけは自分を受け止めよう、と思えたこと。それが僕の中での、旅の結論になりました」

 旅に出て2日目、バンコクから足を延ばしたサメット島で、夕暮れの中レンタルバイクを走らせながら、無意識にTHE IMPRESSIONSの『PEOPLE GET READY』を口ずさんでいた。以降、この歌に何度も支えられた、彼にとって大事な曲である。

 旅の最後にバンコクに戻り、2か月前と同じ宿へと歩きながら、その曲を口笛で吹いていた。われに返って恥ずかしくなったが、やめなかった。口笛ごときで人の目を気にするなんて、昔の自分のすることだ、と思ったからだ。

「高校生のころは、自分が名曲だと思えたら、名曲だった。でも、20代後半には、人に訊く以外、ジャッジの手段がなくなっていた。そんなことばかりやっていたら、人の目を気にしまくるようになりますよね。でも、旅の間は、出会ったばかりの知らない人に、審判を委ねるわけにいかない。すべてを自分でジャッジするしかない。毎日そうしていくうちに、忘れていた何かが戻ってきた感じがありました」

 すべてを自分で決めなければならない旅の中で、過去でも未来でもなく、今に向き合うことが大事なのだと、古舘は気づいていく。

「それまでの僕は、将来のことに焦りすぎて、今を台無しにしていた気がしたんです。未来が不安になりすぎて、今の瞬間の大切なものを逃していくのはイヤだ、あくまでも今の積み重ねが未来をつくっていくんだ、今を大事にしよう、と思ったんですよね」

「本屋B&B」で対談を終えた後、古舘は弾き語りで『PEOPLE GET READY』を歌った。オーディエンスがじっと聴き入る中、響く彼の声は、高音部でちょっとかすれたり、詰まったりした。単にキーが高かったせいかもしれないが、涙をこらえているのかもしれない、とも思えた。

 旅を終えた古舘は、前出の山口にすぐ会いに行かなかった。行ったのは4か月後で「また過呼吸になるくらい怒られた」と言う。

 なぜ、すぐに恩人に会いに行かなかったのだろうか。

「ほんとにいろんな人に訊かれるし、責められるんですけど。これはねえ、カトマンズに飛ばされたやつにしかわかんないと思う! 1人でアジアに放り出されて、2か月帰ってくるなと言われて、旅の最初は一郎さんを恨んだけど、途中からとてつもない感謝に変わった、だから帰国したらその足で一郎さんに感謝を伝えに行く……っていうのは、行ってない人たちが描く、きれいな物語なんですよ。

 ドキュメンタリーは違うんです! 僕と同じように誰かに海外に飛ばされた人がいれば別だけど。だから、僕にしかわかんない!」

 その言葉は「他人にわかってたまるか!」という熱であふれていた。

<取材・文/兵庫慎司>

ひょうご・しんじ 1991年から2014年までロッキング・オン社勤務、2015年からフリーの音楽ライター。奥田民生、エレファントカシマシ、電気グルーヴなど多くのアーティストのインタビューやライブ評を担当。

このニュースに関するつぶやき

  • 長い文だなw自分が行けなかった学校に息子を入れても息子が幸せになるとは限らんし。結果モテない思い出を経験させてしまってるし。やっぱクソだなあいつは
    • イイネ!0
    • コメント 0件

つぶやき一覧へ(1件)

ニュース設定