プリティ長嶋が長嶋茂雄さんの訃報に涙「何よりも人を気遣う人なんだ」感激した言葉も明かす

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2025年06月04日 07:00  日刊スポーツ

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千葉県議会本会議後、取材に応じ、長嶋茂雄さんのことを思い起こし、涙目になるプリティ長嶋(撮影・村上幸将)

長嶋さんのものまねで知られるタレントで千葉県議のプリティ長嶋(70)が3日、県議会本会議後、日刊スポーツの単独取材に応じた。「長嶋監督は引退の時『わが巨人軍は永久に不滅です』とおっしゃいましたが、私の中では長嶋茂雄は永久に不滅です」と口にすると、涙をこぼした。


訃報は、県議会に向かう電車の中で知った。4期務めた県議として「議員の仕事とタレント活動とは、切り離す。無にならなきゃ、議員の仕事はできないし、議席にはいられない」と自らを律したが、長嶋さんとの思い出が次々と脳裏に浮かび、電車が揺れるたびに心も激しく揺れ動いた。何とか感情を押し殺して議席に着いたが、本会議の冒頭で熊谷俊人知事(47)が長嶋さんの訃報に触れた瞬間「ちょっと、待ってくださいよ…議員の仕事、しなきゃいけないのに、涙が出ちゃう」と涙腺が崩壊しかけた。他の議員も質問や発言の際、口々に長嶋さんのことに触れ「長嶋監督と千葉の縁は切れないんだ…だったら」と、少しだけ涙がにじんだ。本会議を終えると、抑えていた悲しみが一気に押し寄せた。


野球が大好きで、4歳の時に巨人に入団した長嶋さんの姿に、物心がついたばかりながら目を奪われた。現代ほど専門的な指導者はいなかったといい、野球がうまくなりたい…その一心で一躍、スターダムへと駆け上がっていく長嶋さんの投げる、打つ、走る…その全てを参考にして日々、練習を続けた。


中学、高校の部活は野球部を選ばなかったが、長嶋さんの引退前年の73年に入った千葉県水道局時代含め、草野球は続けた。その中で、真剣にプレーしていても「なんで、長嶋さんのモノマネをするんだ!?」などと試合中にヤジられたという。一方で芸能界にも憧れがあり、小林旭らの歌、口調は勉強していたが「長嶋監督のモノマネは勉強したことがない。モノマネした覚えはない」と断言する。あくまで、うまくなるためにプレーそのものを模写していたという。


そんな、ヤジの対象だった長嶋さんのプレーの模写が、人生を変えた。千葉県水道局で働きながらも、素人参加番組に出演を続けた。その中、81年のフジテレビ系「笑ってる場合ですよ!」でネタが尽き、長嶋さんのマネをしたところ、当時人気絶頂だったお笑いコンビのザ・ぼんちにウケた。


それが、82年の後継番組「笑っていいとも!」レギュラー出演につながった。出演者が所属した吉本興業、太田プロダクションなど、大手芸能事務所からも声がかかったが、プロデューサーの横澤彪さんに気に入られ、フジテレビ預かりの形でタレントに転身して人生が変わった。


ただ、長嶋さんとの直接対面を望みながら、フジテレビ預かりで他局の番組に出られない縛りがあったため、読売新聞グループの日本テレビへの出演が中心だった長嶋さんとの共演の機会は巡ってこなかった。長嶋さんがモノマネを見た印象を語った映像を見て、そこにコメントするような間接的な“共演”が続く中、そうした縛りに疑問を覚え、83年に自ら「笑っていいとも!」からの降板を申し出てフリーとなった。


その後も、遠巻きに姿を見るなどはしていたが直接、話ができたのは長嶋さんが監督として巨人に復帰した92年以降だった。次第にイベント、取材などで顔を合わせる機会が増える中、長嶋さんの番記者から、公務員を辞めてモノマネをしている身を長嶋さんが案じていると聞いた。「冗談だろう、俺のことなど心配するわけがない」と思っていたが、01年に監督業から勇退した長嶋さんから、同年暮れのイベントで一緒になった楽屋で「おい、俺がユニホーム脱いだら、お前は飯食えるのか?」と直接、言われたという。「人のことを気遣ってくれる。野球の成績よりも何よりも、人を気遣う人なんだ」と感激したという。


04年に長嶋さんが脳梗塞に倒れ、指揮がかなわなかったアテネオリンピック(五輪)を取材し、帰国後に、1つの大きな転機があった。当時、野球の指導をしていたが、同年8月に中学生の野球大会で内野手が打球を胸に当てて死亡した事故があった。そのことを受けて、AEDの普及を志した一方、高校野球の指導者らから学校の許可が必要などの縛りがあるとの悩みを聞いた。政治家になって世の中を変えたいと一念発起し、07年に市川市議選に出馬しトップ当選を果たすと、11年には千葉県議選に挑戦、当選しステップアップした。


そして13年に長嶋さんが国民栄誉賞に加え、県民栄誉賞を受賞して県庁を訪問した際に、県議として出迎え、大好きなひまわりの花束を渡した。「受賞、おめでとうございます」と祝福すると、右半身にまひがあった長嶋さんは左手で受け取り「いいのか、これ。もらっちゃって」と恐縮したという。


「飯、食えてるのか?」と心配されたことを思い出して「実は今、私は、ここで(県議として)働いています」と告げると「お前がここで働いていること、俺が知らないとでも、思っているのかよ?」と大きな声で、はっきりと口にしたという。「公務員を辞めた時から、ずっと気遣ってくれていたんだ」と、すごくうれしかったという。


その後、県議として県内各地を回る中で、名産を見つけては贈った。少しでも元気に、長生きしてほしいと願いを込め、長生郡に行った時には、長生(ながいき)マスクメロンを送ったという。長嶋さんからは、その都度「すばらしいものを、ありがとうございます」とお礼状が返ってきたという。


プリティ長嶋は「私の体と心の中で、長嶋監督は元気に生きています。思い出が、いっぱいあってね。いっぱい、いろいろなものをくださった」と言い、また涙した。本会議後も予算委員会の打ち合わせなどを続けるなど、この日も多忙だっただけに「現実として受け止められなかった」が、少しずつ素のプリティ長嶋に戻ってくると、悲しみが込み上げた。「この後、家に帰って、少しは実感が湧くんだろうか…」とつぶやくと両目から涙がこぼれたが、本会議の時に着けるという、長嶋さんのサインが刺しゅうされたネクタイを握った。「いつも(議員の部屋の)ロッカーにしまっています。長嶋監督は、いつも私のそばにいます!」と、自らに言い聞かせるように声を大にして言った。【村上幸将】

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