1996年の国際ツーリングカー選手権最終戦鈴鹿サーキットをマヌエル・ロイターのドライブで戦ったオペル・チーム・ヨーストのオペル・カリブラV6 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは1996年の国際ツーリングカー選手権を戦った『オペル・カリブラ』です。
* * * * * *
2025年現在、FIA-GT3マシンによって争われているドイツツーリングカー選手権(DTM)。このDTMというシリーズは、1984年にドイツプロダクションカー選手権(DPM)という名称でスタートして以降、グループAや近年ではスーパーGTとの車両規定共通化を狙ったClass1など、さまざまな車両規定を採用して行なわれ続けている。
40年以上も続く長い歴史のなかでももっとも開発競争が過激化していたと言えるのが、1993〜1996年までのDTMおよび、そのDTMから発展し、世界シリーズ化された国際ツーリングカー選手権(ITC)にて使われていたFIAクラス1という規定の時代だった。これはスーパーGTとの関連もあったClass1規定とは異なるものである。
この時代のクラス1は、エンジンにおいては排気量が2.5リッター以下、気筒数は最大6気筒、自然吸気のみと定められていたほか、ベース車両の最低生産台数も決められていた。しかし、それ以外はかなり自由度の高い車両規定であり、トラクションコントロールやABSなどといったハイテクデバイスが使用可だったほか、フルタイム4駆も認められていた。さらに1995年からは、セミオートマチックトランスミッションが解禁され、サスペンションの形式も自由化された。
そのため、クラス1時代のDTMマシンは、見た目こそアルファロメオ155やメルセデスベンツCクラスといった4ドアセダンだったものの、中身はハイテク満載のフォーミュラのようなツーリングカーだったのである。
そんなクラス1時代のDTMおよびITCに2ドアクーペボディを武器に参戦してきたのが、今回紹介する『オペル・カリブラ』である。カリブラは1993年の最終戦より参戦開始。当初はリヤサスペンションの剛性不足もあって苦戦を強いられ、1994年の非選手権戦での勝利以外で目立った活躍は見られなかった。
しかし、1995年は、前述のサスペンション形式自由化を機に大きく足回りを改良し、大幅に戦闘力を上げたカリブラは、同年最終戦のホッケンハイムラウンドにて選手権で初優勝に輝いた。
翌1996年。DTMとITCが完全統合してITCとして全戦が行なわれたこの年には、メルセデス陣営より移行してきたザクスピードがカリブラの開発に大きく関与することに。これにより、さらにポテンシャルを上げた。
日本の鈴鹿サーキットで最終ラウンドの2レースが開催された1996年シーズンは、カリブラを駆るヨースト、チーム・ロズベルグ、ザクスピードの3チームは合わせて計9勝をマーク。なかでも3勝を挙げたヨーストのマヌエル・ロイターがドライバーズチャンピオンを獲得し、オペルも初のマニュファクチャラーズタイトルを手にした。
ザクスピードの手によってカリブラの1997年モデルも開発されていたものの、結局ITCはこの年で消滅することに。DTMの歴史も2000年の再スタートまで一度途切れてしまった。その一時休止前、もっとも過激だった時代のDTM/ITCの幕をダブルの初王座獲得で閉じたのが、『オペル・カリブラ』だったのである。
[オートスポーツweb 2025年06月04日]