4歳から102歳まで計2千人を自宅で看取った緩和ケア医・萬田緑平さんの信条「僕は“看取り屋”ではなく“生き抜き屋”」

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2025年06月15日 11:10  web女性自身

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「死亡診断書の日付はいつにする? 1週間後ぐらいでいい?」
「いやもうちょっと、孫の誕生日が過ぎてからがいいなあ」
「欲ばりだね〜」



在宅緩和ケア医の萬田緑平医師(61)はこう語り、人懐っこい笑顔を見せた。4歳から102歳まで2千人以上の看取りに関わってきた彼が、死亡診断書の日付をたずねたのは、命のカウントダウンが始まった人だ。



群馬県前橋市で農業を営んでいた萩原昭巳さん(84)。3カ月前にステージ4の肺腺がんと診断され、治療や入院をせずに、静かに家で過ごすことを選んだ末期のがん患者だ。



古民家の座敷に置かれたベッドに横になる萩原さん。遠くには雄大な榛名山、“職場”だった畑も庭に咲き乱れる紫蘭も見渡せる。命の炎が燃え尽きるまで家で暮らしたい、そう願う萩原さんを萬田医師は毎週1回訪問してケアをしている。とはいっても血圧や体温を測ることはしない。ただただ、話しかける。



「お酒は飲めている?」



末期がん患者でも好きなようにさせる。萬田医師は人生の主導権は最期まで本人が持つべきだと考えている。



「もう飲む気がない……」



弱々しく萩原さんが答える。介護する長女の星野ちえ子さん(60)が会話に割り込む。



「なに言っているの、昨日も“晩酌したい”って、焼酎の水割りを飲んだでしょ!」



ベッドの周りに笑顔が咲く。萩原さんも「バレたか」といった表情で歯を見せた──。



萩原さんの妻も2年前の秋に末期の肺腺がんと診断され、その年の冬に84歳で旅立った。そのときも萬田医師が彼女をケアした。萩原さんの妻は、夫、2人の娘、孫たちから「ありがとう」と言われながら、この世を後にした。



「父が、治療しない選択をして、萬田先生に頼ったのは自然の流れでした。この家で生まれ、母と一緒になってからはいつも2人で、若いときは養蚕、その後も家の前の畑できゅうりやトマト、ほうれん草を育てていた。日が暮れると晩酌をするのが父の唯一の楽しみ。母を見送ったこの家が父のすべて。周りからは『介護は大変でしょう?』と言われますが、楽しく穏やかな時間を過ごせています。これも、いつも笑わせてくれる先生のおかげでしょう」(ちえ子さん)





■『最期に家で過ごすことができて幸せだった』と患者やその家族に言われることが僕の趣味であり楽しみ



そんな萬田医師が主人公となって、余命宣告後に在宅緩和ケアを選択した5人のがん患者とその家族を描いたドキュメンタリー映画『ハッピー☆エンド』(オオタヴィン監督)が公開されている。



スクリーンに登場する末期がんの人はみんな笑っている。子や孫たちとの別れは悲しいが、残りの人生を楽しく生きようと、抗がん剤などの治療をやめて、旅行を楽しんだりゴルフに興じたり、芋焼酎の入ったグラスを傾けたりして穏やかな日々を過ごす。そしてみんな旅立つ前に「ありがとう」「大好きだよ」と気持ちを伝え合う。なんだかとても幸せそうだ。映画でもっとも満ち足りた笑顔を見せていた萬田医師が語る。



「“患者の死は医療の敗北”として扱われる病院を出て『最期に家で過ごすことができて幸せだった』『先生に診てもらってよかった』と患者やその家族に言われることが僕の趣味であり楽しみ。亡くなるまでの間に患者の満足度が上がれば上がるほど、僕はより楽しくなるわけです」



銀縁メガネの奥の瞳がキラリと光った。



関東平野を貫いて流れる利根川のほど近くにある「萬田診療所」(群馬県前橋市)。入口脇には「がん患者さん専門の診療所です」という看板が掲げられている。人体模型以外は病院らしい医療機器がない“診察室”で萬田医師はこう語りだした。



「ここにやってきた患者は平均すると1カ月くらいで亡くなられていきます。なかにはいつの間にか7年以上付き合っている人もいますが、完全治癒して社会復帰を遂げた人は1人もいません。そもそも僕はがんの治療はしません」



と語る萬田医師だが、実は17年前までがん治療の最前線にいた。



’64年に東京都日野市に、会社員の父、専業主婦の母との間に生まれた萬田医師は、中高一貫校の駒場東邦高校を経て、群馬大学医学部へ。卒業後は群馬大学医学部附属病院の第一外科に勤務した。



「かっこいい外科医になるべく努力していました。医師になって平日に家で夕食を初めて食べたのは10年目。朝から深夜まで働いていました。



その一方で苦しくて悲しい死も多く見てきました。家族は『最期までがんばって』と言い、医者も『できるだけのことをします』と応じる。その結果、余命幾ばくもない患者には、フルコースの延命治療がなされます。苦しみ抜き、ありがとうもさようならも言えないまま旅立っていました」



呼吸が苦しくなったら人工呼吸器をつけ、血圧が下がって心臓が止まりそうになると昇圧剤を。そして心臓が止まったら心臓マッサージと、“死なせない”ための処置がなされる。患者の家族も、最期の別れを伝えられないまま見送っていたという。



「そんな病院死はおかしい、と医師になって1年目から感じていました。だから亡くなりそうな患者の家族に『心臓マッサージだけはしないで』とこっそりとアドバイスしたことも。想像以上に体の弱った骨はもろくマッサージで折れてしまいます。心臓マッサージを拒否した家族は、臨終を告げた主治医の背中に隠れて、僕にピースサインをしてくれました。



医師2年目からは主治医として担当を任されるようになり、先輩の反対を押し切って『がん告知』を始め、患者と家族には、死を苦しいものにしないでほしいと話をして、心臓マッサージも気管内挿管も一切しませんでした」





■「『どうせなら歩いて棺桶に入ろうよ』と提案したら、患者の目が輝き出して……」



萬田医師は、医療を全否定しているわけではない。ギリギリまで死にたくない、治療をがんばりたい、という人はがんばるべきだと。抗がん剤を使いたければ使えばいい、とも思っていた。



「基本的には医者の仕事は患者を長生きさせることです。それでも“がんばりたくない”“きつい治療を続けたくない”と患者や家族が心の中で思っているのなら抗がん剤だけが生きる手段ではないこと、治療ができない=死だと思わないでほしいと伝えていました」



がん告知や緩和ケアという言葉がまだ浸透していない時代、最期をきれいに看取ってあげたい。そう願う新米医師が先輩や“医療の常識”という方針に背けたのは?



「生意気な後輩ですがかわいがられるキャラでもあったのです。体育会系で、患者の死への向き合い方以外はすべてイエスマン。あいつならしょうがねえな、と(笑)。



僕のような考え方をする医者は、100人いれば1人いるかいないか。親が医者でも、医者の多い一族に生まれたわけでもありません。進学校でも260人中250番の成績。医者を目指したきっかけは、大学受験2浪目のときに、機械や数値ではなく、人間を相手にした仕事に就きたいと思ったから。



医師国家試験にも落ちて浪人生活を過ごしましたが、ほかの学生が予備校に通っている間、さまざまなアルバイトをして、国籍も暮らしも多種多様な人たちと遊ぶほうが人生の糧になると思っていました。高校からストレートで医学部に行き社会を知らないまま医師になっていたら、これほど変わった医者になっていたかどうか……」



’08年、萬田医師は、外科医として勢いが衰える前に、緩和ケアに全力で取り組みたいと、17年間のがん治療医のキャリアをあっさりと捨てた。43歳のときだった。



「萬田診療所」では、悲痛な表情でトボトボと入った人が、明るい顔で足取りも軽く出てくる─そんな光景が見られるという。末期がんと診断された患者と付き添う家族との面談で、萬田医師はいつもこう問いかける。



〈飛んでいる飛行機が故障したら、どうしますか?〉



「故障が軽かったら高度を上げようと努力するでしょう。でも、どうにもできない故障だったら安全に着陸できる場所を探すはずです。がん患者も同じです。でも病院では無理してでも高度を上げようとします。患者は、がんばって、がんばって、がんばった末に飛行機が墜落するように亡くなります」



ゆっくり着陸できるようにするのが緩和ケアだという。



「僕の仕事は、死期が迫る患者に、自宅というゆるやかに着陸できる場所に導くことです。医療として正しいかどうかではなく、患者に自宅で死ぬまで“生きる”ことを選んでもらうことです」



死を怖いものと捉えている患者や家族に「よりよく死ぬ」のではなく「よりよく生きる」ことを説く。そんな面談を終えると、患者たちの表情は明るくなる。



「そもそも僕は在宅緩和ケア医と名乗っていますが、そんな資格も専門医制度もありません。緩和ケアは手段のうちのひとつに過ぎません。患者がつらさを感じることなく、家で自分らしく生きていくお手伝いをするだけ。どうすれば最期まで豊かに過ごせるか考える。だから“看取り屋”ではなく“生き抜き屋”なのです」



萬田流のケアは、患者ファーストを貫く。患者の希望をできる範囲でかなえることだ。たとえば、60歳のときにステージ4の乳がんと診断され、寝たきり直前だった女性の望みは、最期まで歩くことだった。



がんと闘うことで、食べられなくなったり、腹水がたまって体力が落ちたりして歩けなくなってしまう患者が多い。歩けなくなると、いずれ寝たきりになる。



「それは棺桶に入る準備です。健康な人が棺桶に入ると、筋肉がこり固まって痛くなって出てきてしまいます。棺桶に入るためには、筋肉を落とさなければいけない。だから『このままずっと寝ている時間を長くすれば、筋肉も落ちて棺桶に入っても体が痛くならないから大丈夫ですよ』と言いました。



そして、歩けなくなったら数日の命であることを伝えて『どうせなら歩いて棺桶に入ろうよ』と提案しました。吹っ切れたように彼女の目が輝き出しました」



その女性は、週1回の外来通院を続け、自分の足で近所に買い物に出かけるようにもなった。



「よく歩くようになると、よく食べるし、よく話す。そんな女性の回復ぶりを見て、周囲の人たちは『治療しないほうがよくない?』と驚いたほど。病院ではなく自宅で過ごしているがん患者の多くは、亡くなる直前まで歩いたり、意思表示ができたりするのは珍しいことではありません。宣告された余命より長く生きることも。



しかし、あっという間に最期のときが訪れるのも特徴です。その女性も亡くなる10日前には、家族や友人たちとレストランへ行っておしゃべりを楽しみました。最期まで自分の足でトイレに行って、旦那さんと2人きりのときにゆっくり息を引き取りました」





■妻が語る萬田医師の終活「私よりも『先に逝くから看取ってくれ』と言っています」



「僕は、外で遊んでいるときが本当の姿だと思っています。サッカーは7年前、ゴルフは5年前、スキーは去年やめましたが、自転車は今でも100キロぐらい走れます。太陽の下でサイクリングしながら『ヤッホー』とやっているのがいちばん楽しいからね」



そう語るが、コンパクトカーのハンドルを操って訪問診療に出かける萬田医師も十分楽しそうだ。手にする少しくたびれた革製のボストンバッグには、聴診器や血圧計などの医療器具は入っていない。中には手品道具やピエロなどの変装グッズが詰まっている。



「僕は、人が生まれたときに『おめでとう』と迎えられたように、亡くなるときも『おめでとう』と言って見送るための演出をしています。



患者だけでなく、その人の子や孫、飼っているペットにまで気に入ってもらわないと仕事にならないのです。僕が来ることを楽しみにしてもらうための小道具はいつもそろえています。白衣も着ません。そもそも持っていません。医学博士の学位も持っていますが、名刺に書いたことは一度もありません。なぜかって? だって患者のためには、白衣や学位なんて関係ねえじゃん」



還暦を過ぎ、このところ股関節が痛くて、足を引きずることも。それを見た末期がんの患者に「先生、大丈夫かい」と心配されることも少なくない。



そんな萬田医師について、診療所で受付をしている妻、麻里子さん(58)がこう語る。



「基本的には家では“自分ファースト”です。しかも面倒なことにさみしがり屋。診療所では受付の私のすぐ後ろの椅子に座っています。『ここにいれば患者さんの歩く姿が見えるから』と言いますが、それ以上に、一人でいるのが嫌だからです。家でも仕事場でも一緒なので、私はちょっと……と思いますが(笑)。



さみしがり屋だから亡くなるときも“自分ファースト”がいいと。私よりも先に逝くから看取ってくれと言っています。それでいて『オレは死ぬことなんて全然怖くないんだ』とも。これまで看取ってきて、あっちで待ってくれている人がいっぱいいるから不安なことはないのだとか。それは羨ましいなと思っています」



この夏、長年の夢をかなえるため、萬田医師は麻里子さんを連れて世界一周の船旅に出かける。



「若いときからオーロラを見るのが夢でした。でも妻が寒がりなので諦めていました。でも船旅なら、オーロラが出たら船室を出ればいいだけ。寒いところが苦手な妻でも大丈夫でしょう。あと、いつか末期のがん患者が、最期に船で世界一周したいと希望するかもしれない。そのときに船医として乗船できるか下調べしようと思っています」



生き抜き屋─―萬田医師の楽しみは、これからも続く。



【後編】緩和ケア医・萬田緑平さんが死亡診断書に《ウルトラマン》と──4歳の息子を白血病で失った父が語る「感謝」と「その後」へ続く



(取材・文:山内太)

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