ラグビー日本代表「ゴールデンブーツ」廣瀬佳司のキックの極意「蹴るのではなく、股関節でボールを運ぶ」

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2025年06月18日 07:10  webスポルティーバ

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語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第15回】廣瀬佳司
(島本高→京都産業大→トヨタ自動車)

 ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。

 第15回に取り上げる選手は、日本が誇るSO廣瀬佳司だ。テストマッチ最多タイとなる9PGの世界記録を保持し、「ゴールデンブーツ」「スーパーブーツ」の愛称で世界が認めたキッカーだ。

 京都産業大3年で初めて日本代表に選ばれると、正確無比のキックと卓越したゲームメイク、体を張ったタックルで、桜のジャージーに欠かせぬ存在となった。トヨタ自動車を12年ぶりに全国社会人大会のタイトルを獲得させるなど、リーダーシップも秀でた司令塔だった。

※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)

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「廣瀬佳司」の名前を聞いて、ラグビーファンの多くが思い浮かべるのは、プレースキックのシーンではないだろうか。

「キックティーだと、芝で高さが変わってしまう」

 2008年に引退する最後まで、廣瀬はキックティーの替わりに砂で山を作っていた。そして、砂でゴールポストまでの線を書き、ボールの弾道をイメージしてキック──。黙々と作業に取り組むその姿を覚えているファンも多いはずだ。

 ワールドカップには1995年大会から3大会連続で出場を果たした。本人が一番覚えている試合は、やはり1995年大会のオールブラックス戦。大学3年で初めて出場した大舞台で、17-145という記録的大敗を喫した。

「個人としてはつらい経験でしたが、あれから各世代がどんどん強化して、それが今につながっていると思います」

【タックルは怖かった。だけど...】

 4年後の1999年大会の直前、ファンの間で意見が二分する議論が沸き起こった。ワールドカップを戦うチームの司令塔に、廣瀬の2学年下である岩渕健輔の「攻撃力」を推す声が出てきた。

 注目を集めるなか、日本代表を率いる平尾誠二監督は、廣瀬の「キック」と安定感を採った。本大会3試合とも10番を廣瀬に託し、勝利こそ手にできなかったものの、世界の強豪国相手に体を張ったタックルとゲームメイクを見せてくれた。

 身長170cm、体重74kg。体は小さかったものの、タックルも厭わぬ精神力の強さがあった。左耳の「カリフラワーイヤー(餃子耳)」は、愚直にプレーした証(あかし)だ。何度もタックルを試みる理由について、廣瀬はこう語っていた。

「どのチームもSOを狙ってくる。SOがゲインされると、どのチームもしんどいし、ゲームメイカーとして信頼感もなくなってくる。だから、怖かったですけど、体を張ってタックルすることで、周りの14人の信頼感を得ました」

 2003年のワールドカップ直前、日本代表はケガ人が続出したこともあって、再び廣瀬に白羽の矢が立った。スコットランド戦の先発に抜擢された廣瀬は、この試合でも低いタックルを繰り返した。その日本の善戦ぶりは海外メディアの心を打ち、「ブレイブ・ブロッサムズ(勇敢な桜の戦士たち)」という日本代表の愛称につながったことでも知られている。

 1973年、廣瀬は大阪で生まれた。父親がラグビー経験者だったため、幼いころからテレビで試合を一緒に見ていたという。そして小学1年の冬、廣瀬は「ラグビー場に連れて行って!」と父親にお願いする。

 初めてラグビー観戦した試合は、「スクール☆ウォーズ」のモデルとなった伏見工業(現・京都工学院)が大阪工大高(現・常翔学園)を下して優勝した花園の決勝戦。その十数年後、平尾監督のもとでプレーすることになったのは、廣瀬にとって運命だったのかもしれない。

 廣瀬はますます楕円球の虜(とりこ)となり、小学2年から大阪・茨木ラグビースクールで競技を始め、その後、大阪府立・島本高に進学する。全国的には無名校だったが、高校2年時は花園予選を勝ち抜いてベスト16まで進出し、高校3年時は高校日本代表にも選ばれた。

【草ラグビー場で最後のプレースキック】

 廣瀬は幼少期にラグビーを始めてから、ほとんどSOしかやってこなかった。しかも、高校時代はなんと、「実はキックは下手だった」と吐露する。当時はキックの距離がまったく伸びず、すぐにボールがお辞儀して地面に落ちてしまっていたという。

「キックがもっとうまくなれば、もっと違うステージにいけるかもしれない」

 そう考えた廣瀬は、朝の練習前に1時間、夕方の練習後も1時間、ひたすらキックを蹴り続けた。その努力は京都産業大に進学しても続いた。「ゴールデンブーツ」は決して一朝一夕で誕生したのではない。

 京産大でも1年時からレギュラーに抜擢された廣瀬は、2年時と3年時には大学選手権ベスト4に貢献。その活躍が評価されて、大学3年時に晴れて日本代表の初キャップを獲得した。

 キックへの飽くなき探究心は、大学卒業後に入ったトヨタ自動車でも留まることはない。

 入社2年目にニュージーランドへラグビー留学した時、第1回ワールドカップの優勝に貢献したオールブラックスSOグラント・フォックスにキック指導を仰ぎ、マンツーマンで教えてもらった。

「ボールを蹴るのではなく、体全体を使って、股関節でボールを運ぶ」

 フォックスからキックのヒントを得たことで、プレースキックの精度はさらに上がったという。

 その結果、廣瀬はトップリーグで2シーズン連続して得点王に輝いた。特に2005-06シーズンは72本(50G/22PG)のプレースキックを決めて、成功率は90%を超えた。

 2008年、惜しまれつつも引退を決意。トヨタ自動車で監督を務めたあと、2019年ワールドカップでは組織委員会で働いた。現在は母校・京産大で監督を務め、後進の指導にあたっている。

 引退試合は2008年7月。神奈川県藤沢市の草ラグビー場で、旧知のラグビー仲間が舞台を用意してくれた。現役時代と同じように、廣瀬は砂で山を作って、最後のプレースキックを蹴った。

「一生の思い出になりました」

 廣瀬は満面の笑顔を見せて、ゴールデンブーツを脱いだ。

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