画像はイメージです 新卒就職・転職先として圧倒的人気を誇っているコンサル。なぜこの仕事が人気なのか。ヒントになるのは、近年流行した「タワマン文学」で描かれた現代人の職業観である。
※本記事は、『東大生はなぜコンサルを目指すのか』から一部抜粋したもの。
◆「タワマン文学」が多くの人の支持を集めるワケ
東京都心部のタワーマンションなどを舞台に、いわゆる「勝ち組」にも分類される中流層が直面する残酷な格差、さらには内面に巣くう鬱屈や嫉妬心をも赤裸々に描く。ツイッター(現X)への投稿を起源とするそんな小説群は「タワマン文学」と呼ばれ、近年話題になっている。(「『SNSは本当に罪深い』 『タワマン文学』覆面作家・麻布競馬場さんが描く令和の幸福論」産経ニュース、2024年4月17日)
タワーマンション、通称タワマンに住んでいることはそれ自体が今の時代の成功の象徴と呼べる一方で、その中にも息苦しいヒエラルキーが存在することに目を向けるのがタワマン文学の本質である。世の中全体で見れば成功者の側に括られてしまうタワマンの住民が葛藤を吐き出せば、「恵まれているお前が何を言っているの?」ということになってしまう。
不可視にされがちなしんどさをポップな文体で綴ることで人気を博すタワマン文学は、タワマンの住民に限らず多くの人の支持を集め始めている。おそらくその支持層には「自分より優雅に暮らしている人たちの苦しみを眺めたい」というどろどろした感情を持つ人もいれば、学力にも仕事にも恵まれているにもかかわらず漠然とした違和感を抱えながら生活している人々が共感できるコンテンツとして楽しんでいるケースもあるだろう。
タワマン文学の代表的な作品でもある外山薫『息が詰まるようなこの場所で』には「タワマンには三種類の人間が住んでいる。資産家とサラリーマン、そして地権者だ」との記述があり、タワマンに住むサラリーマンはある種のエリートでありながらも実際には住宅ローンや子供の教育費などのために必ずしも余裕のある生活をしているわけではなく、資産家や地権者のような生まれながらに裕福な層とは異なる属性であることが語られる。
◆世間的には「勝ち組」でも、内実は…
この話をコンサルという職業に当てはめると、メン獄が『コンサルティング会社 完全サバイバルマニュアル』で描き出したコンサルの世界に漂う何とも言えない哀愁もより理解しやすくなる。コンサルは大きく見れば「勝ち組」と言われる側に属する職業であり、タワマンに住む人たちも多数存在すると思われる。
しかし、いくらコンサルファームに勤めているといっても、基本的には会社員であることに変わりはない。高い収入を求めて成長を志しても、上には上がいるのが東京である。必死に働いて収入を上げれば上げるほど、本当の富裕層とでも言うべき人々との差を実感せずにはいられなくなるのである。
さらに言えば、一言でコンサルと言ってもその内実は様々だ。そしてその内実は、コンサルが一般的に認識される職業となったからこそ、業界の外にも知られるようになる。東京の力学に詳しい人たちは、コンサル業界が大量採用を行っていること、もしくは「コンサル」と名乗っていても、その仕事は時に一般的な企業に存在する業務の代行やシステムエンジニアに近いものであることを知っている。
◆「日系の地味なSIer」がスルーされるリアルさ
「トー独くん? は、何やってんの?」「あ、コンサルです」「お、戦略?」「……いや、SIerで」「あ〜激務で大変な感じだよね」以上。(麻布競馬場『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』文庫版収録「トーキョー独身男子のお寿司食べある記」)
タワマン文学というジャンルが大きく注目されるきっかけとなった麻布競馬場の作品では、「DX景気で大量採用していたから滑り込めた」「日系の地味なSIer」で働く主人公が、初対面のインフルエンサーから仕事の詳細を質問される。
経営戦略を大企業の役員にプレゼンするような「戦略」に関わるコンサルなのかと確認され、そうではなくIT領域で仕事をする「SIer」だとわかると何となくスルーされるこの場面は、所属や仕事内容でその人を値踏みするような空間の中にコンサルという仕事がその詳細な業務領域も含めて位置づけられていることを示している。
主人公の勤務先が「日系の地味な」会社ではなく外資系のファームであれば、このシーンはまた違った展開になっただろう。コンサルにいるだけでは看板として機能しない場所の残酷さ、そしてそんな細かな差異で他人を値踏みするその場所自体のくだらなさが凝縮されたとても味わい深い描写である。
◆「職業・仕事」で生じる上下関係
タワマン文学の根底にあるのは登場人物の職業をめぐる微細な、だが当人にとっては何よりも重要な上下関係であり、それゆえ誰がどんな会社に勤めているか、どんな仕事をしているかの描写が多い。たとえば、『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』において、各篇の主人公およびその周辺の人物の勤務している会社や部門として記載されていて、かつ明確にその上下関係が位置づけられているものを表現そのままに書き出すと以下の通りである(登場人物の親の職業および篇ごとに扱いが少し異なる職業は除外)。
<ポジティブな位置づけの職業・仕事>
・丸の内に本社がある一流メーカー
・グローバルマーケティング部門
・P&G
・博報堂
・渋谷のメガベンチャー
・外資系の戦略コンサル
・ゴールドマン・サックス
・電通
・財閥のディベロッパー
・外資系消費財メーカーでマーケター
・商社
<ネガティブな位置づけの職業・仕事>
・僻地の工場の総務人事
・SIer
・携帯ショップ勤務
職業に貴賤はない、もしくはこのような描写自体が偏見を助長する、などいくらでも批判はできるだろう。また、こういった価値観が本当に社会全体に浸透しているのか疑問に思う向きもあるかもしれない。ただ、繰り返しになるが、スキルと給料が得られる仕事に就いていることが「成長」の文脈において評価される流れがある中で、ここに名前が挙がったような仕事が過剰に評価されるのはある意味で自然なことだとも言える(もちろんその「自然」自体が不自然なのではという問題提起は必要であり、本書の終盤で向き合っていくことになる)。
◆就活は「バトル・ロワイアル」のようなものに
職業で周りからの扱いがここまで変わるのであれば、良く思われる仕事に就きたいと思うのは当然だろう。その帰結として、大学生の多くが就職活動に対して熱量を持って向き合わざるを得なくなる。キャリア教育という形で早い段階から就活への道筋を舗装していく、つまりタワマン文学で描かれている話を助長するかのような動きがある。そんな雰囲気は就活を題材とする小説にも表れている。
小説における就活の捉え方に関する昨今のキーワードは「バトル・ロワイアル」である。書類提出から面接やグループディスカッションを経て人気企業の内定を得る過程は、大勢の志望者の中でいかに生き残るかを競うプロセスでもある。生き残るというのはあくまでも比喩であり、「今日は、皆さんにちょっと、殺し合いをしてもらいまーす」(高見広春『バトル・ロワイアル』)というわけではもちろんないのだが、実際に就活に臨んでいる側からすれば生死につながるものと認識されていてもおかしくはない。
◆「全人格を賭してすること」だから…
2021年にヒットして2024年には浜辺美波主演で映画化もされた浅倉秋成『六人の噓つきな大学生』は、同じ会社の新卒採用に臨む6人の大学生が「生き残り(内定)」をめぐって争う物語である。お互いが協力してグループディスカッションを突破することで皆に内定が出るという当初の設定が、内定者はこの中から1人だけだと変更されることで、「最高のチーム」だったはずの絆が崩れていく。
各自の暗い過去が順々に暴露されていく中で、なぜこんなことになってしまったのか、6人は本当に倫理的に問題のある人物なのかが明らかになっていくサスペンス的な要素がこの小説の肝だが、本書の論考において重要なのは「就活=全人格を賭して取り組む場」としての描き方である。
就活が全人格を賭してすることなのであれば、そこで否定されることは社会的に居場所を失うことに他ならない。そして、この小説内でお互いを貶め合う仕組みを作った採用サイドの人間が就活について「日本国民全員で作り上げた、全員が被害者で、全員が加害者になる馬鹿げた儀式です」と言及しているのもポイントである。
◆現状の就活こそ、無茶苦茶な世界観では?
その「馬鹿げた儀式」としての就活を突きつめたのが、佐川恭一『就活闘争20XX』である。この小説は、就活を比喩ではなく文字通りのバトル・ロワイアルとして扱っている。近未来の日本を舞台にしたこの小説で描かれる就活は、「ウルトラベビーブーム」によって「血で血を洗う争いとしか言いようのない惨劇」になっている。
登場人物たちは就活の準備として山にこもって修行を行い、さらにはOB訪問のために殺し屋のいるマンションの攻略を求められる。もはや少年マンガのような無茶苦茶な世界観だが、そもそも何ができるかわからない学生をポテンシャル採用という名目の下に曖昧な基準で選別し、その網に引っかかるかどうかでその後の人生が決まるという現実の状況自体が、何よりも無茶苦茶な世界観なのかもしれない。
タワマン文学で言及される過剰な職業ヒエラルキー、就活が舞台の小説での「バトル・ロワイアル」的な描写。現代のキャリアのあり方について斜めから映し出す作品群には、成長を目指さないといけない時代の歪みがエンターテインメントとして昇華されている。
<TEXT/レジー>