沖縄戦について語る安里盛徳さん=5月10日午後、沖縄県糸満市 多数の住民が犠牲となった太平洋戦争末期の沖縄戦で、母親の死に直面した安里盛徳さん(91)=沖縄県糸満市=は、80年が経過した今も当時の光景が頭から離れない。「つらい思いをする人を生み出してはいけない」。国際情勢が緊迫化する中、二度と自身と同じような体験をしてほしくないとの思いを強くしている。
父親はおらず、母と祖母と兄の4人で暮らしていた。沖縄戦当時は11歳だったが、兄は出征後に戦死し、残る3人で必死に逃げ回った。自然壕(ごう)や、母が懸命に作った防空壕も日本兵に占領され追い出された。
戦況が日増しに悪化する中、身を潜めていた壕から母が外に出た瞬間だった。海上からの米軍の艦砲射撃が始まり、母は目の前で犠牲になった。「とてもひどくて、今でも思い出す」。80年がたっても、倒れた瞬間や遺体の状況が脳裏をよぎり、ふさぎ込むことがある。
激しい艦砲射撃が続く中、必死に山の中へ逃げたが、はぐれた祖母は山中で亡くなった。その後、米軍に見つかり収容所暮らしも経験した。
戦災孤児となったものの、幸運にも近隣の家族に引き取られ、戦後を生き延びた。養父母はわが子と同じように食事を分け与え、病気の時はトラックを走らせ、遠い病院まで連れていってくれた。養父母の実子の安谷屋幸勇さん(70)は「当時、親戚でもないのに引き取るのは珍しいと聞いたが、本当の兄貴のようだった」と振り返る。安里さんは「孤児院の子はみんな痩せていて、ひもじそうだったが、私はそういった思いはせずに済んだ」と感謝の言葉を繰り返す。
ロシアによるウクライナ侵攻をはじめ、今も世界では戦闘が続く。「私のような肉親を失ってつらい思いをする人を、二度と生み出してはいけない」。安里さんはそう力を込めた。