「両手足を切断しました」40歳女性を襲った病「最初は胃腸炎と診断されて…」10日間意識不明に

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2025年07月04日 16:01  日刊SPA!

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切断手術後の久世さん
健康に過ごしていても、突然病気になるリスクは誰にでもあります。病気によっては、生活が一変してしまう人も少なくありません。
熊本県在住の横田久世さん(47)は、40歳で突然発症した病気により両手足の切断を余儀なくされました。しかし、大きなハンデを背負いつつもマラソンに3度挑戦し、2024年に42.195kmを完走しました。

Instagramでは「ポジティブ番長」としてキャッチボールやサウナなどのアクティビティにチャレンジする様子を投稿。ポジティブなメッセージが反響を呼んでいます。

今回は久世さんに、病気の発症やマラソンを始めた経緯、ポジティブでいられる秘訣を伺いました。

◆突然の発症と切断まで

――両手足を切断された経緯について教えてください。

久世さん:40歳で「電撃性紫斑病」を発症したのがきっかけです。肺炎球菌が何らかの原因で血液中に入り、血の巡りを止めて先端から壊死していく病気です。

私たち中年層は免疫を持っているのでほとんどの場合対処できますが、私の場合は、たまたま疲れていたか免疫が落ちていたかで、菌が入ってしまいました。

――入院に至るまで、どれくらいの期間がありましたか?

久世さん:1日です。今まで感じたことのない寒気がしたのですが、これまで風邪で寝込むことすらないほど健康だったので、寝ていれば治るだろうと思っていました。ところが、翌日もきつくて主人に病院に連れてってもらったら、胃腸炎と言われました。

しかし、今度は顔に斑点が出始めたうえに、両足が痛くなったんです。救急病院のロビーで痛い痛いと叫んでいたら、救急の先生が出てきてベッドに乗せてくれました。そこから10日間意識不明でした。

そして、少しずつ意識が戻ってくる中で「切断します」と聞かされました。

◆指先が真っ黒に変色していた

――切断と言われても、すぐ受け入れられるものではないですよね。

久世さん:受け入れる受け入れないよりもまず、自分に何が起こっているのか分からないんです。でも、指を見たら真っ黒で折り曲がっていて「ああ、もうこれダメだ」と思いました。

家族にはインフルエンザ流行期間の10分の面会時間で「切断することになった」とだけ伝えました。

切断後は死ぬほど痛かったです。それを手と足とで2度経験しました。入院から退院までの治療費は、70万〜100万ぐらいかかったと思います。

◆右手に残っていた「奇跡の2cm」の親指

――両手足の切断後、日常生活が無理なくできるまでにどれほどかかりましたか。

久世さん:1年半ぐらいは義足との相性を合わせるのが大変で、昨日はよかったけど今日は全然歩けない、みたいな日もありました。

今は家事も外出も何でもできます。ディズニーシーにも義足で行きました!ただ、髪の毛を結ぶのはやってもらってますし、洋服の小さいボタンは難しいので、自分で着られるものを選んでいます。

――指をすべて切断されたのにもかかわらず、なぜ何でもできるのですか?

久世さん:右手だけ「奇跡の2cm」の親指が残っているんです。だから、ペンを握ったりフォークとか持ったり、メイクも料理もできます。運転はアクセルとブレーキを手で操作できる車両に乗っています。

ただ、私左利きなのでめちゃめちゃ練習しました。神様はいたずら好きですね。でも、この親指部分がなかったら、もっと人生に苦労したと思います。

◆いろいろな頑張り方があると伝えたい

――マラソンはご病気をきっかけに始められたのですか?

久世さん:そうです。もともとやっていたわけでもなければ、病気前は普通の主婦で、夫の会社で事務仕事をしていました。

――義足をはめて42.195kmを完走するのは、並大抵の努力ではできないことだと思います。

久世さん:私、マラソンを42.195km完走するまでに3回かかっていまして。初めは22km、次は30kmと少しずつゴールを目指しました。

コーチを付けたことはありません。タイムを競いたいわけではなく、自分との約束を守りたかっただけだからです。

でも、人ってマラソンと聞くと、評価するじゃないですか。

――たとえば、どんなことですか?

久世さん:「42km完走するの?」とか「何時間で走るの?」とか。健常者の方が思う努力のハードルって、かなり高いんだなって感じて。

私にとっては出場することが大切だったので、1回で成功ではなく、諦めずに少しずつ目標に向かいました。私が挑戦し続けることで、普通の人たちに「頑張り方にもいろいろあるんだ」「挑戦していいんだ」と思ってほしいんです。

そうしていたら、人間関係もがらっと変わりました。人生が変わるような出会いばかりで、一般社団法人を立ち上げたり、地元熊本のお祭りでは100名規模のチームを組んで参加したりもしました。

――でも、ここまで五体満足の頃のように日常生活を送ったり、ましてやマラソンまでこなしたりするのは、簡単なことではありませんよね。

久世さん:「やりたいことがあるならやってみよう」と思っているのが大きいです。あとは、気持ちが一番大切だと信じているからです。人によって強い部分や弱い部分は違いますが、私が挑戦を続けられるのは、応援してくれる人たちがいるからです。

◆講演会やコンサルティングの依頼が来るように

――現在は、講演会やInstagramのコンサルをされているそうですね。講演会では、どういったところに出張されるのですか?

久世さん:一番多いのは学校関係ですね。たまに企業様のスタートダッシュや気合を入れたいときに呼んでいただけたりしますね。「自分との約束を守れるかどうか」をテーマにお話ししています。

誰でも、今日こそやろうと思ったことを破っちゃうことってあるじゃないですか。私もそうで、1日に何回も約束を破ります(笑)。でも、その中でたった1つでも約束を守れたら自信につながると思うんです。

両手足を切断して死ぬほど痛かった時も、自分に「今日だけ頑張ろう」と言い聞かせて乗り越えてきました。それを忘れないように、講演会などでもお伝えしてます。

――両手足切断の痛みは、どれくらいまで続いたのでしょうか。

久世さん:両手足でそれぞれ、1週間ほどでなくなりました。出産も相当痛かったけど、切断は「失うこと」で、出産は「希望」なので、捉え方がまったく違うと思いました。まあでも、痛みって忘れるものなんで!

◆「小学生のころから牛乳配達していた」

――久世さんのお話しぶりやビビットなファッションからは、自然と元気がもらえます。久世さんがポジティブなのは、病気をされる前からですか?

久世さん:元々派手好きでしたし、見た瞬間に元気になるような存在でいたいのは昔からです。

小学生のころから牛乳配達の仕事をしていたので「強くあらないと生きてこれなかった」側面もあると思います。苦労しましたが、頑張れば必ずいつか笑えるようになるんだなっていうのは経験しました。

――幼いころから、たくましく生きてこられたんですね。

でも実は私、社会不適合者なんです。中学時代は塾を退塾させられ、高校からは非行に走りました。17歳から結婚するまで水商売をしてましたし。昔は、人に話しかけられないぐらいトゲトゲしてましたよ。

――今の柔らかくて親しみやすい久世さんの姿からは、まったく想像できませんね。

久世さん:高校の1個下の子と久々に連絡を取ったとき「雰囲気変わりましたね」「あの頃話しかけられなかったです」と言われたほどです(笑)。

それに、病気する前はワンオペ育児だったので、子育てが自分の人生だと思い込んでました。やりたいことを周りに言うと笑われる経験ばかりだったし、いつしか夢を語らなくなっていました。

◆病気になって手に入れたもの

――そんな久世さんが、今では「やりたいことはやってみる」と言い切れるようになったのは、どんな変化があったからなのでしょうか?

久世さん:病気になって失ったものはあるけど、それよりも一番大切な「自分」というものを手に入れました。だから、五体満足の方には「失ってみないと分からない」ではなく、もっと自分を大切に生きてほしいと思います。

マラソンで言うとスタート地点はみんな同じですが、健康のために走るのか、タイムで競いたいのか、目的はそれぞれ違います。だから、やりたいことや夢を持っている方には、自分らしくスタート切ってほしいと思います。

――やれるかどうかではなく、やってみたいからチャレンジする。大変な経験をされた久世さんの言葉は、心にまっすぐ届きます。年齢や境遇を言い訳にせず、やりたいことに素直になる勇気をもらえました。

<取材・文/松浦さとみ>

【松浦さとみ】
韓国のじめっとしたアングラ情報を嗅ぎ回ることに生きがいを感じるライター。新卒入社した会社を4年で辞め、コロナ禍で唯一国境が開かれていた韓国へ留学し、韓国の魅力に気づく。珍スポットやオタク文化、韓国のリアルを探るのが趣味。ギャルやゴスロリなどのサブカルチャーにも関心があり、日本文化の逆輸入現象は見逃せないテーマのひとつ。X:@bleu_perfume

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