
梅雨明けしたばかりの空を、入道雲が立ち上っていく。国道134号線。長者ヶ崎のカーブを左にハンドルを切ると、大きく視界が開ける。風を孕んで帆走するヨット。早くも夏の訪れを告げるダブルレインボーが真っ青な空にかかっている。
『夏のクラクション』
稲垣潤一の新曲のタイトルはすでに決まっていた。ところが歌詞を書くために必要なストーリーがなかなか思い浮かばない。葉山から西海岸通りへ、佐島マリーナに向かう道行きを愛車の白いクーペで駆け抜ける。
そんなとき、
「すべての海沿いのカーブにはドラマが潜んでいる」
ふと、そんなフレーズが売野雅勇の脳裏に浮かんだ。
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白いクーペ、まぼろしの天使のシンボルとして描かれる女性、無垢なる夏の終わり、遠ざかるクラクションの響きが、ガラス窓に遮られて聴こえない世界が始まる……。
避暑地の別れを切なく描いたラブストーリーである。
この歌詞を見た筒美京平は、
「なんて音楽的な詞なんだって思った。音楽が聴こえてくるから、そのままメロディーを書けばよかった。だから、すぐにメロディーをつけられたよ」
歌謡界のレジェンドに褒めてもらったことがうれしくて、雅勇はそれを昨日のことのように覚えている。
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今再び、世界的なブームを呼び起こしている「シティ・ポップ(city pop)」。
1970年代から1980年代にかけて日本で流行したニューミュージックの中でも、洋楽志向の都会的に洗練されたメロディーや歌詞を持つ音楽。その中でもイタリアンジゴロを思わせるおしゃれなファッションに身を包んだ雅勇は、一世を風靡した。
「スタイリッシュで時代を背負った売野さんの登場は衝撃的でした。お互いに地方都市の出身だけに、アメリカや東京への憧れが強かったね。そのエネルギーがシティ・ポップを生んだんじゃないかな」
そう語るのは、雅勇と共にシティ・ポップ界を牽引した作曲家の林哲司である。
2人の共作で忘れられないのが、稲垣潤一の『P.S.抱きしめたい』。カルロス・トシキ&オメガトライブの『be yourself』。そして杉山清貴の『真夏のイノセンス』雅勇の詞と林の曲が絡み合い、今もファンから神曲として語り継がれている。さらにもう1曲挙げるなら、稲垣潤一の『思い出のビーチクラブ』だと話すのが、売野雅勇作詞活動35周年記念CD―BOX『Masterpieces〜PURE GOLD POPS〜』などでライナーノーツを執筆したライター兼編集の速水健朗。この曲の“聖地巡礼”に行った日のことを、今も思い返すという。
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「油壺の閉鎖されたビーチクラブは、まさに兵どもが夢の跡。売野さんが愛するシティ・ポップの原点を見る思いがして、それから何度も足を運んでいます」
しかし雅勇が手がけた歌は、決して「シティ・ポップ」だけではない。
作詞家デビューのきっかけとなった、シャネルズの『星くずのダンス・ホール』や後のラッツ&スター『め組のひと』。『少女A』『1/2の神話』『禁区』といった中森明菜の“ツッパリ三部作”も忘れることはできない。さらに、自ら手紙を書き、
「書かせてほしい」と訴えた矢沢永吉の『SOMEBODY'S NIGHT』『PURE GOLD』。そして、坂本龍一の楽曲まで手がけた作品の守備範囲の広さは超人的といってもいい。
例えてみれば、アップタウンの華やかな“酒とバラの日々”から、ダウンタウンに生きる人たちの生きざままで見事に描き切ってしまうマエストロといえるだろう。
昼下がりのパレスホテル東京にやってきたマエストロは、穏やかな笑みを浮かべ、取材に訪れた筆者においしいコーヒーを振る舞ってくれた。
クラスメートを従えるガキ大将
1951年2月22日。雅勇は「源氏の棟梁」と呼ばれた足利氏の発祥の地・栃木県足利市で生まれた。驚くなかれ、売野雅勇はペンネームではない。祖父が命名、父が寺の住職に相談して漢字を選んでいる。身体こそ大きくなかったが小学3年生のころから、雅勇はクラスメートを従えるガキ大将だった。
「通っている小学校で両親が教えていたこともあり、成績の良かった私は先生からの覚えもめでたく、天狗になっていたのかもしれません。ある日、身体のデカい上級生から“おまえ威張ってんだってな”“偉そうにしてると俺たちも黙っちゃいないぞ”と胸ぐらをつかまれたこともありました。そのときは怖かったな」
放課後になるとそんなことも忘れて、雅勇はクラスの男子を引き連れ、街の高島屋やほかの小学校へ自転車で繰り出した。彼の居場所は、いつも友達の輪の中心。言ってみれば放課後のエンターテイナー。しかし小学5年生のとき。そんな雅勇に心境の変化が訪れる。
「クラスの男子生徒を毎日怒鳴り散らして、子分のように扱ってきました。きっと中学・高校に行ったら、僕から受けた屈辱的な思いを忘れられないだろうな」
そんな思いに駆られたのは、学芸会で演じる芝居の役どころがきっかけだった。雅勇が演じるのは、王様のワシに媚びへつらい弱い鳥たちには威張り散らす、嫌われ者のハゲタカだった。
「これはまるで、俺のことじゃないか」
まさにブーメラン。因果応報というべきか。ガキ大将の雅勇が陰でいつも偉そうにしているのを、先生は気がついていて、ハゲタカ役を雅勇に「当て書き」したに違いない。
そう気がついて、
「今から考えても泣きたくなるくらい恥ずかしくなった」
ところがインフルエンザが流行って学芸会は運のいいことに中止。悪夢は去った。しかしこのときのショックが忘れられなかった。
「その反動もあってか、中学に進学するとバスケ部や陸上部に入って、あり余るエネルギーを発散。高校時代も練習の厳しいハンドボール部に入部して汗を流しました」
いつしか明るくひょうきんな雅勇は、クラスや部活の人気者になっていた。
しかしその反面、部活のない日は地元の悪ガキたちともつるんでいた。
「作詞家の出発点がシャネルズだから、京浜工業地帯のティーン・エイジャーの青春。土曜の夜だけが俺たちの生きがいみたいな世界が僕にはすごく合っている。
そういう人たちの生き方に真実を感じる感性が、生まれつき備わっていたんじゃないかな」
生まれ育った足利市もまた京浜工業地帯と同じ工場街。こうした日々こそ、作詞家・売野雅勇のもうひとつの原点なのかもしれない。
コピーライターから“作詞家・売野雅勇”へ
1年浪人の末、雅勇は上智大学文学部英米文学科に進学。
憧れのキャンパスライフに胸をふくらませていた。
「ところが原宿や青山のおしゃれなカフェに繰り出すような生活もすぐに飽きてしまい、ゴールデンウイーク明けにはアメフト部に入部。毎日泥にまみれる青春の日々に逆戻りしていました」
根が熱血漢で、男っぽいことが大好きな雅勇は厳しいアメフトの練習に耐え、部員たちが憧れる、クオーターバック(QB)のポジションも勝ち取った。そんなある日、1つ年上のアメフト部の先輩から、
「おまえ、英文学科なんて、就職ないぞ。何やりたいの」
と進路について聞かれた。
「映画の字幕をやってみたい」
そう素直に答えた。すると、
「売野にピッタリの職業がある。コピーライターになれ」
と言われ、驚いた。
「とても優秀で優しい、尊敬できる先輩からのアドバイス。その言葉がサブリミナル効果みたいに刷り込まれていった気がします」
雅勇は大学卒業後、老舗の広告代理店・萬年社に入社。コピーライターとしてのキャリアをスタートさせる。実は雅勇にコピーライターの道をすすめた先見の明の持ち主こそ、後に大手広告会社「電通」の代表取締役社長を務めることになる石井直である。
やがて広告業界を渡り歩くうちに、雅勇に大きなチャンスが訪れる。
シャネルズのファーストアルバム『Mr.ブラック』の発売日に、朝日新聞の夕刊・ラテ欄の下の全スペースを使った広告が掲載された。顔を黒く塗ったメンバーが並んだ写真の下に、
《メイクの下も、黒いアメリカ。》と書かれた雅勇のキャッチフレーズが採用された。
「ゲラが上がった時点で、キャッチコピーが全国紙にふさわしくないと心配する意見が出て一悶着ありました」
その顛末を見ていて興味を持ったEPICソニーの制作ディレクター、目黒育郎から、
「作詞をしてみませんか?」
と丁寧な口調で電話をもらった。
糸井重里が沢田研二の『TOKIO』を作詞するなど、コピーライターが作詞を手がける時代が、すぐそこまで来ていたのである。それまで雅勇は歌詞など書いたこともなかった。しかし、
「やらせていただきます」
と、ほとんど反射的に答えた。これが後に時代の寵児となる作詞家・売野雅勇、誕生の真実である。
ターニングポイント『少女A』誕生秘話
作詞家になって1年。雅勇はすでに50曲ほどの歌詞を手がけ、業界内では「ポップな阿久悠」といわれ注目を集めつつあった。しかし作詞家として知名度はいまひとつ。
'82年3月。そんな雅勇に転機が訪れる。歌唱力では折り紙つきの中森明菜のデビューである。
「プロの作詞家でやっていくには、こういうアイドルのを書かないとダメだよ」
そう事務所のスタッフにも釘を刺されていた。デビュー曲はすでに来生えつこ作詞、来生たかお作曲による『スローモーション』に決まっていた。セカンドシングルも来生姉弟による『あなたのポートレート』が有力だった。
しかしコンセプトを持った楽曲で、ほかのアイドルと差別化を図りたい明菜サイドは常に野心的な作品を求めていた。だが雅勇は、
「当時アイドルの歌詞を手がけたことがなく、気恥ずかしくて正直、気が進みませんでした」
しかも締め切りまでわずか1週間しかない。タイトルが浮かばないまま数日が過ぎたころ、明菜のチラシを眺めていて、
「ちょっとHな美新人っ娘(ミルキーっこ)」
というキャッチフレーズが引っかかった。
「プロフィールに16歳と書いてあることから、自分が高校生のころ、周りにいたセクシュアルな女の子のことを想像してみました。そこで思い出したのが、浅黒い肌をした早熟な14歳の美少女、シノハラヨウコです」
故郷の足利市でスナックを営む、シングルマザーのもとに生まれたシノハラヨウコ。人目もはばからずに、
「売野くん、大好き」と思いを打ち明けられ、1度だけ誘惑されたこともあった。
コケティッシュで愛嬌があって明るい彼女を思い出しているうちに、雅勇には楽曲の全貌がおぼろげながら見えてきた。
「『少女A』。その記号でシノハラが、ニュースになる可能性を僕は知っていました」
雅勇は油性ペンで原稿用紙に大きな文字で、
「少女A(16)」
と書いてみた。新聞の社会面と同じように、最初は年齢も入れていた。
「チャラチャラしたタイトルではなく、社会問題を切り取ったタイトル。これだったらアイドルを書いても恥ずかしくない。そう思ったんです」
歌詞のボキャブラリーとは思えないこのフレーズを使うことで、違和感を生み出す。
「視聴者に、何これ!?」
と思わせる。
このタイトルこそ、売野雅勇が生み出した発明。コピーライターだからこそ思いつくことができたのか。それはまさに、日本の歌謡界に革命を起こす瞬間でもあった。
歌謡界の“ドン”をも唸らせたアクシデント
ところがこのデモテープを聴くなり、明菜の表情はみるみる曇った。
「イヤだ。絶対に歌いたくない」と言って、泣きじゃくり、頑なに歌うことを拒んだ。最終的に、担当する島田雄三ディレクターが、
「もしこれが売れなかったら、俺が責任を取る」
と啖呵を切ってレコーディングにこぎつけた。そんないきさつがあったことなど雅勇は知らされていなかった。'80年代の歌謡界を、ひっくり返してしまうほどの破壊力を生み出した『少女A』。
だがこの歌詞に驚愕したのは、明菜だけではなかった。'70年代から歌謡界に君臨するドン・阿久悠もまた、この曲に驚きを隠せなかった。
「『少女A』のヒットの後、まだご挨拶もしたことがなかったので、ゴルフの帰りに先生の伊豆の別荘に遊びに行くことになりました」
そのゴルフのプレー中、まさかのアクシデントが襲う。
「8ホール目、第3打を打とうとキャディさんのところにクラブを取りに行ったときのこと。
下半身に衝撃が走り猛烈な熱さが下腹部に広がりました。
それから1秒とおかず、悲鳴を上げずにはいられないほどの激痛が走り、叫び声を上げながら僕は芝生の上をのたうち回りました」
事もあろうにゴルフボールが雅勇の股間を直撃したのである。
「睾丸が潰れたのかもしれない。1人だけでも子どもをつくっておいてよかった」
そんな思いが雅勇の脳裏をよぎった。病院に運ばれ検査を受けると、ゴルフボールは急所に当たってはいたものの大事には至らず。まさに九死に一生を得た。その話を聞いた阿久は、
「そんな話、聞いたこともない。これはひょっとすると、超弩級の大ヒットを当てる。そういうことかもしれんねぇ」
高台にある別荘のリビングから真っ青な海を見つめ、そう真顔でつぶやいたという。
昭和歌謡史を生き抜いてきた阿久だからこそ唱えることのできた予言。それが間もなく実現することになるとは、まだ誰も信じてはいなかった。
アイドルから演歌まで、'80年代歌謡界を牽引
'84年1月21日、チェッカーズの2枚目のシングル『涙のリクエスト』が発売された。
音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS系)の「今週のスポットライト」に登場して人気に火がつくと、3月に入って7週連続で第1位をキープ。
それにつられるようにデビュー曲の『ギザギザハートの子守唄』もランクイン。5月1日にサードシングル『哀しくてジェラシー』が発売されるとベストテンに3曲同時にランクインする快挙が1か月にわたって続いた。
しかし雅勇は、自分が作詞を手がけた『涙のリクエスト』がデビュー曲に選ばれなかったことが不本意だった。『ギザギザハート』のセールスが期待どおりに伸びなかったころ、心配するメンバーに『涙のリクエスト』は売れますかと聞かれ、
「ビートルズだってデビュー曲『Love Me Do』は全然売れなかったけど次の『Please Please Me』で売れたんだよ。中森明菜だってそう。2枚目の『少女A』で売れただろ。期待してて」
そう自信満々に言い放った。結果、タータンチェックの衣装に身を包んだチェッカーズはあっという間にスターダムに駆け上がっていった。
「『涙のリクエスト』は、映画『アメリカン・グラフィティ』をヒントに、主人公の少年がDJに電話して年上の女の人に曲をプレゼントするシークエンスを切り口に、たった1時間45分で書き上げました。こんなことは珍しかった。
おそらくテーマが良くて、言葉の選択が適切で、みずみずしいフィーリングと第六感が冴えわたり、ちょうど良いバランスで書けたからだと思う」
ボーカルの藤井フミヤは当時を振り返り、
「売野さんの歌詞の世界がそのまま“ちょっとヤンチャで、ナイーブで、ハートブレイクな少年たち”というチェッカーズのイメージをつくり上げたと思います」
そう話せば、雅勇自身もチェッカーズへの思いをひそかにこう語っている。
「気がついてくれる人は少ないんだけど、本当はリーゼントにしたかったくらい僕はロカビリーが好きなんだ。だからチェッカーズはすごく書きやすかった」
それを裏づけるように、その後も『星屑のステージ』『ジュリアに傷心』『あの娘とスキャンダル』『俺たちのロカビリーナイト』『Song for U.S.A.』と作曲家・芹澤廣明とタッグを組んだ「売芹コンビ」はヒットを連発していく。共に“運命の男”と呼び合う芹澤は雅勇のことをこう評している。
「歌詞の1番と2番の字数が合ってないのは当たり前。そしてその当時に流行り始めた、ハッとさせる言葉を選んで書いてくる。そこが斬新でアバンギャルドだった。
少年少女の夢を『Song for U.S.A.』に託してやめたかった。
“売芹”でショボい終わり方はしたくなかったからね」
チェッカーズの快進撃と共に、雅勇への歌詞の依頼は殺到。近藤真彦、荻野目洋子や河合奈保子、菊池桃子といったアイドルから、稲垣潤一、RA MU、カルロス・トシキ&オメガトライブ、杉山清貴といったシティ・ポップ。そして森進一、細川たかし、藤あや子といった演歌歌手に至るまで幅広く手がけるようになり、気がつけば'86年、'87年に2年連続で作詞家として「レコード売り上げ枚数1位」を獲得。'80年代の音楽シーンを牽引する存在となっていた。
「こういうのを矢沢は待っていた」
雅勇には作詞家として成功を収めても、忘れられない「初心」があった。
「いつか名前が売れたら、矢沢さんからオファーがあるんじゃないか」
20歳のときにキャロル時代の『ルイジアンナ』『ヘイ・タクシー』を聴いたときの衝撃。文京公会堂にキャロルのコンサートを見に行ったこともあった。
─キャロルのコンサートで受けた感動こそ売野雅勇の原点。
ところがいくら待っても矢沢からの依頼は来なかった。
そこで'88年の夏。雅勇は東芝EMIのディレクターに矢沢への思いを綴った24枚にも及ぶ手紙を託した。すると、福岡県・小倉で行うライブをぜひ見てほしい、という伝言が矢沢から返ってきた。当日、挨拶のために楽屋を訪れると、矢沢からはこんなひと言が待っていた。
「今日は売野さんのために歌いますから。最高のコンサートにします」
ライブが終わり、矢沢に連れられ数軒のバーを飲み歩いた。矢沢が魂の深いところで、ありのままの自分を感じてくれていることがわかった。
「東京に帰って10曲で構成されるアルバムのコンセプトを考え、プランを企画書にすると矢沢さんに送りました」
その年の冬、スタジオに招かれると1本のデモテープが用意されていた。矢沢がアコースティックギター1本で歌っている『SOMEBODY'S NIGHT』。
「売野さんが考える、矢沢を描いてください」
そう言われ、最初の2日間はメロディーを身体に染み込ませるように繰り返し聴き、心を横切っていく言葉をメモしながら『SOMEBODY'S NIGHT』というひと言が象徴する意味を、謎を解くように追いかけた。
─物語の主人公は自分でありながら、他人の夜を過ごす。
『SOMEBODY'S NIGHT』が鍵穴なら「偽名」という言葉こそ、鍵穴にピタリとはまる鍵ではないか。
偽名のサインが切ない避暑地せめても魂(こころ)は裸にしなよ
歌詞を書き上げ雅勇は、矢沢の待つスタジオへ向かった。
「矢沢さんの声を聴くと、いつも特別な気持ちになる。郷愁もある。憧れもある。悲しみもある。ささやかな幸福もある。生きることへの問いかけがある。
つまり人生のほとんどが一瞬にしてその声の中に現れる。こんな歌手に出会えたことを僕は本当に感謝しています」
愛おしくてたまらない矢沢の声の中で雅勇の歌詞が踊る。
「売野さん、すごいね。これだよ、こういうのを矢沢は待っていたんです」
こんなに感動してくれるアーティストに出会ったのは初めてだった。そして、差し出された雅勇の右手を握り返し、
「本当によくぞ、僕の前に現れてくれました。感謝してます」
と、改まった口調で言った。『SOMEBODY'S NIGHT』は'89年4月26日、矢沢の24枚目のシングルとして発表され、この曲を含む10曲中9曲を雅勇が手がけたアルバム『情事』はチャートの2位まで駆け上った。そして翌年リリースされたシングル曲『PURE GOLD』は第1位にチャートイン。これは『時間よ止まれ』以来、12年ぶりの快挙となった。
すべてを込めた最初の2行が曲の“命”になる
'81年のデビュー以来、来年で作詞家生活45周年を迎える。
これまで約1400曲あまりの歌詞を手がけ、数多くのヒット曲を生み出してきた。そんな作詞家・売野雅勇には独特の流儀がある。
「作詞家には“歌詞が降ってくるタイプ”もいますが、僕は“歩いていたらたまたま言葉が降りてきた”というタイプではありません。だから集中力と執着心と情熱をもって推敲を重ねます。それだけに、歌詞を書いて得られる“痺れるような感覚”は今も昔も変わりません」
そのために、最初の2行には並々ならぬ情熱を傾ける。
「先に曲を作る“曲先”の場合は、繰り返し曲を聴き、浮かんだメモ書きを見ながらタイトルと最初の2行の歌詞に思いを馳せる。この2行さえ書けてしまえば後は、メロディーの命じるままに描いていけばいいんです」
シティ・ポップ界のクイーンとして讃えられる杏里のリリック・プロデューサーとして名を馳せ、ミリオンヒットとなった平原綾香『Jupiter』を手がけた作詞家・吉元由美も広告代理店に勤務していたころ、雅勇の弟子となり薫陶を受けた。
「構成力はもちろんですが、最初の2行でどうやってグッとリスナーの心を引き寄せるか。身をもって教えていただきました。
そしてもうひとつ。売野さんが大切にしていたのが名詞。水平線、防波堤、キャンドルライト、ハートブレイク。情景が見える言葉を耳にするだけで自然と物語が浮かんでくるんです。売野さんからいただいた『角川類語新辞典』は、今も大切に使っています」
そんな雅勇が“アニキ”と慕う、世界的なおもちゃのコレクター、北原照久は、前世で兄弟だったかもという雅勇にこんな言葉を贈っている。
契りあれば
六つの巷に待てしばし
おくれ先立つことはありとも
(もしあの世でも縁があるなら、死後の世界の入り口で待っていてくれ。どちらが先になるか後になるとしても)
これは関ヶ原の戦いで西軍に加わって敗れ、自害した大谷吉継の辞世の句。女ばかりか男も惚れる。売野雅勇のオトコっぷりには頭が下がるばかりだ。
<取材・文/島 右近>
しま・うこん 放送作家、映像プロデューサー。文化・スポーツをはじめ幅広いジャンルで取材執筆。ドキュメンタリー番組に携わるうちに歴史に興味を抱き、『家康は関ヶ原で死んでいた』を上梓。現在、忍者に関する書籍を執筆中。