
中畑清×篠塚和典 スペシャル対談(7)
(連載6:松井秀喜と阿部慎之助の成長裏話 ミスターが張本勲を呼んで指導した「ゴジ」のすり足打法>>)
巨人のレジェンドOB、篠塚和典氏と中畑清氏のスペシャル対談。その7回目は、1978年に行なわれた、巨人と"ビッグ・レッド・マシーン"と言われたシンシナティ・レッズとの試合のエピソードを聞いた。
【ミスターに気合いを注入された中畑は「絶対に打ってやる」】
――1978年、当時「メジャー最強」と言われたシンシナティ・レッズが来日し、巨人と日米野球で対戦しました。中畑さんはレッズのマリオ・ソト投手から逆転ホームランを放ちましたが、狙っていましたか?
中畑清(以下:中畑) その時の自分は、狙うとか狙わないとかいう考えはなかったです。試合に出られるかどうか、という控えの立場でしたから。でも、8回表の守備から高田繁さんに代わってサードに入っていたのですが、たまたま打席が回ってきたんです。「代打を出されるかな?」と思っていたら、ミスターがベンチから出てきて、「ベンチなんか見てるなよ。自分で行く気がないのか?」ってバーンとケツをたたかれて気合いを注入されたんです。
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「よーし」と気合いが入って「絶対に打ってやるぞ」と。相手の投手がどういうボールを投げるかまったくわかりませんし、真っすぐだけを待っていました。そうしたらいきなりアウトサイド寄りの真っすぐがきたので、1、2、3のリズムで振ったらホームラン。無我夢中でしたね。
篠塚和典(以下:篠塚) それが逆転2ランになって、初勝利になったんですよね。確か、張本勲さんのタイムリーで1点差まで迫って、中畑さんに打席が回ったと記憶していますが、ミスターが中畑さんにチャンスを与えた形になりましたよね。
中畑 ミスターが自分に最後のチャンスを与えてくれたんだよな。普通であれば間違いなく代打だよ。あのホームランがなければ、自分はおそらく一軍に定着できずにプロ野球人生が終わっていたはずだし、ターニングポイントになった。日米野球のメンバーに選んでくれたこともそうだし、ミスターには本当に感謝しているよ。シノの何倍もチャンスをもらっているかもしれない(笑)
篠塚 本当ですよ(笑)
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【当時は、メジャーに比べると「我々は蚊みたいなもん」】
――当時のレッズは"ビッグ・レッド・マシーン"と呼ばれ、ピート・ローズやトム・シーバー、ジョニー・ベンチ、ジョージ・フォスター、ジョー・モーガン、ケン・グリフィー(父)など数多くのスター選手がいましたが、プレーを目の当たりにしていかがでしたか?
中畑 スター軍団でしたからね。「勝てるわけがない」と思っていました。
篠塚 巨人軍を創設した正力松太郎さんの遺訓のひとつに、「巨人軍はアメリカ野球に追いつけ、そして追い越せ」というものがありました。それだけ手の届かない相手だったわけですが、それは戦ってみて実感しました。
中畑 4番のジョージ・フォスターが堀内恒夫さんから打ったホームランはすごかった。後楽園球場の左中間の最上段にある看板にぶつけたからね。
篠塚 投手が投げるボールなんかも全然違うなと。やっぱり重いですし、打っても「あれっ?」ていう感覚で思ったよりも飛ばなかった。パワーの差はすごく感じましたね。
中畑 今はメジャーとの差がなくなってきているけど、当時のメジャーといえば別世界のような捉え方をしていたよな。
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篠塚 日本の野球はナメられていましたよね。メジャーの選手たちは日本に観光気分で来て、それでも勝てないわけですから。
中畑 でも、巨人が初戦で勝ったもんだから、2戦目以降は本気モードに入っていたよな。
――ピート・ローズといえば"安打製造機"として知られていますが(※)、ハッスルプレーも代名詞でした。
※イチローは日米通算4367安打。ピート・ローズはMLB通算4256安打で、シーズン200安打10回はイチローとタイ記録。
中畑 あの魅せ方ですよ。寒いのに半袖でプレーして、ヘッドスライディングをしてくるんです。普通、ヘッドスライディングは長袖を着てなければダメなのですが、そういうことはお構いなし。ケガのリスクを無視しての全力プレーと、迫力がすごかった。「そういったプレーで魅せるのがスターなんだな」と勉強になりました。影響を受けて自分もヘッドスライディングをしたけど、絵にならなくて(笑)。
篠塚 我々は蚊みたいなもんですよ(笑)。メジャーの選手たちは、それこそライオンが迫ってくるような迫力でバーッて走ってきましたよね。ピート・ローズには特に迫力を感じました。パワーもそうだし、ひとつひとつのプレーにしても全然違うので、「メジャーを目指そう」という気持ちにはなりませんでしたね。
中畑 ミスターは若い時からメジャーに憧れていたみたいだけどね(※)。自分はそういう感覚がなかったな。それよりも、「日本でなんとか生き残りたい」という気持ちのほうが強かった。
※当時、ロサンゼルス・ドジャースのピーター・オマリー会長からスカウトされていたが、巨人に残った。特に右打者として、ニューヨーク・ヤンキースで活躍したジョー・ディマジオ氏に憧れていたという。
【ふたりは先輩・後輩でありライバル】
――最後の質問ですが、中畑さんにとっての篠塚さん、篠塚さんにとっての中畑さんは、どういう存在ですか?
中畑 シノは年下だけど、どこか"教えられている"ところがあります。ライバル意識を持ったことはないけれど、ライバルのようなところもあるかなと。シノと出会ってなかったら今のような自分ではなかったかもしれませんし、存在感のある後輩です。私のことを、シノは「怖い」と思ってないんじゃないかな?(笑)。
篠塚 先輩なのですが話しやすいというか、それが中畑さんのいい部分じゃないですか。自分がセカンド、中畑さんがファーストで守備位置が隣だったのでいろいろ会話もしましたしね。「(守備位置を)もう少しあっちへ行ってください」とか言っても大丈夫、と思えるのは中畑さんの人柄ですよ。
それと、同期入団で最初に多摩川グラウンドで会った時の印象は、とにかく元気ハツラツでしたし、「いずれみんなを引っ張っていく存在になるんだろうな」と見ていました。実際にそういう存在になりましたし、「中畑さんが言うことは絶対だ」という思いでやっていましたしね。(対談の5回目で)首位打者争いの話もしましたが、僕は中畑さんを尊敬する先輩であるとともに、ライバルとしても見ていました。
中畑 シノにひとつ謝っておかなければいけないことがある。シノがバッティング練習の時間帯に、球場にかかるBGMを演歌にしたことがあったんだけど、シノから「リズムがとれなくなった」とクレームを受けたことがあって(笑)。迷惑をかけてしまって申し訳なかった。
篠塚 よくかかっていましたよね。
中畑 ただ、あの難しいリズムで打てたから首位打者が獲れたかもしれないし、そこは感謝してもらいたいよ(笑)。
篠塚 ありがとうございます(笑)。
【プロフィール】
■中畑清(なかはた・きよし)
1954年1月6日生まれ、福島県出身。駒澤大学を卒業後、1975年のドラフト3位で巨人に入団し4年目から一軍に定着した。通算打率.290の打撃、ファーストでゴールデングラブ賞を7回獲得した守備で勝利に貢献。長嶋監督から調子を聞かれ、試合に出るために「絶好調!」と答えて「絶好調男」としても人気を集めた。1989年に現役を引退。2012年から4年間、DeNAの監督を務めた。また、2004年のアテネ五輪ではヘッドコーチを務めていたが、チームを率いていた長嶋茂雄氏が脳梗塞を患って入院したあとに監督を引き継ぎ、チームを銅メダルに導いた。
■篠塚和典(しのづか・かずのり)
1957年7月16日生まれ、東京都出身、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年を最後に現役を引退して以降は、巨人で1995年〜2003年、2006年〜2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。