「SNSで最もバズっているJリーガー」J3栃木シティ・田中パウロ淳一の人生を変えた中村憲剛のひと言

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2025年07月18日 07:20  webスポルティーバ

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田中パウロ淳一インタビュー(3)

 今季、Jリーグに初参入した栃木シティが、J3初挑戦ながら第20節終了時点でリーグ首位に立つ健闘で、旋風を巻き起こしている。その快進撃の中心にいるのが、FW田中パウロ淳一(31歳)である。

 今でこそ「Jリーグイチバズっている男」と注目を浴びているが、そのキャリアは決して順風満帆ではなかった。

 2012年、大阪桐蔭高から川崎フロンターレに入団した田中パウロは、2年目のJリーグ開幕直後に自ら申し出てクラブを退団している。いったい何があったのか。

 それはプロ1年目のことだった。第16節のヴィッセル神戸戦、守備陣に故障者が続いたことで、田中パウロは不慣れな左サイドバックで初先発を飾る。そしてその試合のピッチ上で中村憲剛にかけられたある言葉が、退団のきっかけになったと振り返る。

「もともとは攻撃的MFやFWでプレーしていました。でも、なかなか試合に絡めず、監督だった風間(八宏)さんと話し、左サイドバックをやることに。内心は嫌でしたけどね。

 最初に出た神戸戦では、相手は完全に僕のサイドから崩しにきました。もちろん相手がくるのはわかっていましたが、僕のミスなどで、流れがつかめない展開が続きました(試合は0−1で敗戦)。僕のミスでボールを奪われシュートを打たれて、自陣のゴールキックになった場面だったと思うのですが、憲剛さんは『(パスの出しどころに困ったら)オレにパスすればいいから』と言ってくれました。同じようなミスが続いて、普通ならカッとなって『何回、ミスすんだよ!』と怒鳴られる場面です。それが、優しく声をかけてくれたわけです。そのときに、まだ自分はここで戦うレベルに達していないんだなと痛感しました」

 自分の得意である攻撃的ポジションでリベンジをしようにも、当時の川崎にはレナトや小林悠ら前線のタレントは多く、加えて翌シーズンには3年連続で得点王に輝く大久保嘉人が加入した。

「メンツを見たら絶対出られないと思い、心が折れました(苦笑)。しかもひとつ年上のMF大島僚太はバリバリ試合に出ていたし、気持ち的にも焦るじゃないですか。最後は紅白戦にも入れず、ひとりでピッチの脇で練習していましたからね。今振り返れば、別の選択肢もあったかもしれませんが、当時はここにいても成長は難しいと感じ、自分ひとりで退団を決めました」

【「オマエはパウロ」になった】

 その後、海外挑戦を試みたが、契約はまとまらず。紆余曲折の末、14年に新設されたばかりのJ3のツエーゲン金沢で再スタートを切ることになった。

 ちなみにそれまでの登録名は「田中淳一」だったが、金沢でJ2昇格を果たした2年目のタイミングで「田中パウロ淳一」に変更している。田中パウロは日本人の父とフィリピン人の母を持つが、"パウロ"はセカンドネームではなく、あくまで愛称だ。

「もともとはただの"あだ名"です。大阪桐蔭のサッカー部に入ったときに、先輩が直前に『やべっちFC』に闘莉王さんのお父さんのパウロさんが出ているのを見ていたらしく、同じ田中姓ということで"オマエはパウロ"となって(笑)。

 そしたら響きがよかったのか、チームメートだけじゃなく、大会とかに行くとほかのチームの選手からもパウロって呼ばれるようになるなど、いつの間にか定着して。川崎に入ったときも、サポーターのコールはパウロでしたからね。そしたら、もうパウロでいいじゃないかと思い、登録名を"田中パウロ淳一"にしました」

 金沢のあとはFC岐阜、レノファ山口、松本山雅FCとクラブを渡り歩いたが、先発に定着できた時期は短く、思いどおりにプレーできないシーズンが続いた。22年にはJ3の松本山雅で、8試合で3点を挙げたが、先発出場は2試合のみで契約満了となった。

 そこから栃木シティに加入し現在に至るが、当時は引退も考えていたと明かす。

「松本のときは正直、サッカーをやめようと思った時期もありました。なんか僕は"ボールを持つとひとりでサッカーをする"という偏見を持たれているんじゃないかと感じたこともありましたし。栃木シティからは早い段階で声をかけてもらっていましたが、当時の僕はサッカーを続けるなら『Jリーグ』しか考えていなかったので、最初は断っていたのですが、結局、どこにも行くところがなく栃木シティにお世話になることにしました。ただ、来た以上は腹を括って臨む覚悟を決めました。そうしないと続かないですからね」

【日本代表が気になる?】

 栃木シティでは信頼するスタッフやチームメートにも恵まれ、ピッチ内外で本来の力を解き放つように躍動し、チームの快進撃に貢献している田中パウロ。チームの公開練習や試合後のファン対応でも一番の人気者で、その丁寧な姿勢には、これまでのキャリアで培った思いが滲んでいるように見える。キャリアで最も充実したシーズンを過ごしているからこそ、今が楽しいともいう。

「栃木シティの大栗(崇司)代表は、関東1部だった頃から本当にJリーグで上を目指すと言っていました。普通、"地域リーグでそれを言っても......"と思いますが、トップの人がそういうマインドを持っていたので、僕もそれに乗っかった部分もありました。栃木県栃木市岩舟町にあるホームの『CITY FOOTBALL STATION(シティフットボールステーション)』は環境面も非常に整っていて、選手としてもやりがいを感じています。関東リーグから上がってきた選手がここからどこまで行くのか、僕自身も楽しみです。そして今後、僕はSNSでどこまでバズれるのか(笑)。チームとしては今季、とにかくJ2昇格(リーグ2位以内)。それはチームメートのためにも絶対、ですね」

 6月のワールドカップアジア最終予選の時には、日本代表の森保一監督が招集メンバーに関して「サプライズもある」と事前に言っていたため、田中パウロがSNSで「何で自分が選ばれていないのか!」という発信をしたら、"本気でリアクションしてきた人がいて困った"と笑う。

「"マジレス"はやめてほしいですね。本気でブチギレていた人もいたみたいですが、少し心にゆとりを持っていただければ......。でも、森保さんがサプライズって言っていたので、期待しちゃうじゃないですか(笑)」

 ユーモアに溢れ、ピッチ中外で話題を提供し続ける田中パウロ。その存在感は、今後ますます強まっていきそうな気配がある。

田中パウロ淳一
1993年10月23日、日本人の父とスペイン系フィリピン人の母の間に兵庫県で生まれる。12年、大阪桐蔭高から川崎フロンターレへ加入。左足の強烈なシュートが評価され、「和製フッキだ」と期待を寄せられたが、わずか1年強で退団。14年からは複数のクラブを渡り歩き、23年から栃木シティ所属。その明るいキャラクターでTikToker、You Tube「パウロちゃんねる」などでも活躍。25年2月・3月のJ3リーグ月間MVP賞を受賞。ポジションはFW。

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