90年代に絶大な人気のあった鮮やかな色彩の海の絵。光が反射した波や躍動感溢れる動物たちが描かれた版画が、若者が集まる街や庶民的なショッピングモールで売られており、販売員から声をかけられるという経験をした人は多いのではないか。
この小説はフィクションであり、実在するアーティストのことが書かれているわけではない。だが読み始めると、高額の絵画がごく一般的な経済力の人々や二十代の若者に向けて大規模に販売されていた頃のことや、そこから現在までの時代の変化について、考えずにはいられなかった。
主人公の有沢真由子は、美術誌の編集者として長年働いてきた。最年少で管理職になり、働く女性のロールモデルに祭り上げられたものの、ある時期から男性の後輩社員たちに追い越されるようになった。畑違いの部署に異動になったが、そこでもやる気を失うことなく女性向けのウェブマガジンを立ち上げて成功している。50歳の誕生日に、区分所有権を持つ古びたリゾートホテルに一人で訪れたところ、エレベータホールにジャンピエール・ヴァレーズの版画が飾られていた。ハワイ在住でフリーダイバーとしても活躍していたというそのアーティストは、人気の高さにもかかわらず美術業界からは黙殺される存在だった。美術誌の編集者だった頃には真由子も鼻で笑っていたのだが、バブルの遺産のようなその絵になぜか惹きつけられた。
「ストレートに綺麗」な画風は、ヴァレーズを知らない若い社員にも新鮮に映るようだ。かつては犯罪的な販売方法も問題になっていたが、今は別の会社が販売権を持っており、高級ホテルでの展示会も開かれている。ある事情からウェブマガジンが廃刊になったため、真由子はヴァレーズをテーマにした書籍の出版を企画する。どこかきな臭い販売会社の社長や、アーティストに関する情報があまりに少なすぎることに疑問を持ちつつ、真由子は本人に会うために自腹でハワイへ向かう。だが、現地にはヴァレーズを知る人はほとんどおらず、消息もわからない。ヴァレーズはどこにいるのか。現地では無名のアーティストが日本でブームになった裏側で、何が起きていたのか。
頼もしいなあ、真由子。転んでもただでは起きないところがいい。華やかに見えるキャリアを重ねているが、誰よりも熱心に働き、寝る間も惜しんで余暇を楽しみ、失敗も挫折も糧にしてたくさんの悔しさも乗り越えてきたのだろう。そうやって手に入れたのであろうメンタルの強さと行動力、決して相手に飲み込まれない冷静さにより、一人でいくつもの壁を乗り越えていく。真由子とは違うやり方で、したたかさと抜け目なさを身につけたある女性が登場するのだが、二人の緊張感溢れる駆け引きに息を呑んだ。ついに、真由子はヴァレーズを巡るある秘密に気づいてしまうのだが......。
私たちが美術作品に触れることができるのは、それを創作する人と、作品を世に広める人や鑑賞する場所を作る人がいるからである。そこに生まれる闇と光の両方を、著者はこの小説の中で見せてくれた。編集者として長く美術に関わってきた真由子だからこそ辿り着いたラストに、美術作品を鑑賞することを生きる楽しみのひとつとしている者として、胸がいっぱいになった。ミステリとしての面白さが詰まっていると同時に、アートとは何かを考えるきっかけをくれる小説である。
(高頭佐和子)
『青の純度』
著者:篠田 節子
出版社:集英社
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