Ozzy Osbourne Instagramより オジー・オズボーンでも死ぬのか。ずっといるものと思い込んでいた。彼くらいの存在になると、普通の人間に訪れる死とは無縁なのだと勝手に考えていた。
最後のライブと銘打たれた「Back to the Beginning」を7月5日(現地時間)に開催したオジー。しかし、何度も引退を表明してはそのたびに活動再開してきた彼である。この先、何度も引退詐欺をしてくれるものだと思っていた。
◆「ろくでもない死に方」をすると思っていたが……
「生涯現役」「完全燃焼」と口にする人は多いが、「ステージから去る」=「死」になるなんてあまりにカッコよすぎやしないだろうか。ラストライブは、まさに生前葬。しかも、そこで弾き出した270億円もの収益を医療寄付してからこの世を去り、ランディ・ローズの待つ世界に行ってしまった。なんという見事な幕引きか。
人生最期のライブの最後の曲が、10代で出会った旧友3人=ブラック・サバスと演った「Paranoid」である。サバスで始まり、サバスで終わる。最高の生き様と死に様ではないか。
きっと、オジーはろくでもない死に方をすると思っていた。かつての彼は、そんな生き方を送っていたからだ。でも、仲間と家族に見守られながら76年の人生に幕を閉じた。
最後にジェイク・E・リーと良好な関係に戻れたのも幸せだったと思う。もしかしたら、本人は悟っていたのかもしれない。
◆刑務所から出所後、音楽活動を始めた10代のオジー
オジーがブラック・サバスのヴォーカリストとしてデビューしたのは70年代初頭。当時はレッド・ツェッペリン、ディープ・パープルと共に「ハードロック3大バンド」と呼ばれていたが、特に日本においてサバスは他の2バンドほど人気を獲得できなかった。英国ブルース・ロックをモノトーンに凝縮した陰鬱さは、日本人にわかりにくかったのだ。1971年に予定されていた来日公演が中止になったのも痛かった。
しかし、サバスを脱退後である80年代以降のオジーはヘヴィメタルのアイコンとして大きな存在感を示し、アンダーグラウンドへの入り口としての役割を担い続けた。
オジー・オズボーンが初めてバンドを組んだのは、10代の頃。1948年に労働者階級の家庭に生まれたオジーはさしたる教育も受けないまま成長し、酒代を稼ぐために夜な夜な商店に忍び込んでは盗みを繰り返す日々を送るようになった。
いつしか“ヤバい仕事”に手を染め、刑務所に入ったオジー。出所後、彼は友人が組んだバンドにヴォーカリストとして加入した。しかし、メンバー全員がまともにチューニングもできない有り様で、バンドは程なく解散。再び“ヤバい仕事”を始めたオジーは「これじゃまた、刑務所行きだ」と将来を案じ、近所のクラブにバンドのメンバー募集を告知する。それに応募してきたのが、のちにサバスのベーシストになるギーザー・バトラーだった。
その後、ドラムのビル・ワード、ギターのトニー・アイオミの順番で加入して「アース」なるグループ名でバンドは始動。当初はイギリスで流行っていたジョン・メイオールズ・ブルースブレイカーズのようなブルース・ロックを演奏していたが、その頃は泣かず飛ばずだった。
そして、ある日転機が訪れる。オジー本人が回顧する。
「ある日、リハーサルスタジオにトニー・アイオミが来て、向かいの映画館でホラー映画をやってるって言うんだ。『みんな怖い目に遭いたくって金を払うだなんて、おもしろいと思わないか?』って。それで、聴くだけで怖くなっちまうような音楽をやってみようかってことになったんだ。そうして書いたのが、『Black Sabbath』(デビューアルバムの1曲目)だった。あまりにインパクトがある曲だったんで、どのクラブでも俺たちは『あのBlack Sabbathを演るバンド』って呼ばれるようになったのさ。それである日、アースって名前のバンドがほかにもいるって知って、だったらバンド名をブラック・サバスにしちまおうってことにしたんだ」(「ミュージック・ライフ」1996年3月号、以下同)
◆「なにか変なクスリはやってないだろうな?」父親から尋ねられる
なにしろ、デビューアルバムのタイトルが『Black Sabbath』(黒い安息日)である。このアルバムを手にしたオジーの父親は、しばらく凍りついたという。
「サンプル盤を家に持っていったときのことを今でも覚えてるよ。俺は両親や兄弟に『どうだい、俺のレコードだぜ!』って自慢したかっただけなのに、みんなジャケットを見て絶句してた。それから、1曲目の『Black Sabbath』を聴いた親父が一言こう言ったんだ。『親として言うんだけど、なにか変なクスリはやってないだろうな?』ってね(笑)」
このデビューアルバムは全英チャート初登場2位にランクイン。しかも、そこからチャートに2年半居座り続けるという大ヒットを記録したことで、彼らはあらゆるドラッグを容易に入手することが可能になった。2ndアルバム『Paranoid』を発表する頃、オジーはすでにいっぱしのヤク中だった。
3rdアルバム『Master of Reality』のオープニング曲「Sweet Leaf」は、重低音なリフに「さあ、試してみな」という歌詞が乗る露骨なドラッグソングである。4thアルバム『Black Sabbath Vol.4』に収録された「Snowblind」は、ヘッドフォンで聴くとオフ気味に「コカイン」と繰り返されているのがわかる。
バンド内で最もしらふだったトニー・アイオミでさえ『Vol.4』レコーディング時はビル・ワードの足にライターオイルをかけて火をつけたり、レコード会社のパーティの食事に自分の大便を混入させるなど、あまりにもな前後不覚状態に。つまり、4人全員が始末に負えない感じだった。
◆サバスを解雇されたオジーはランディ・ローズと出会う
1976年、サバスは7thアルバム『Technical Ecstasy』をリリース。しかし、ツアーの重圧、離婚、父親の死などで精神異常をきたしたオジーは1978年に入院した。
「もうこれ以上サバスにいたら発狂すると思って、自分から精神病院に入ったんだ。そしたら『あなたはオ●ニーをしますか?』とかくだらない質問をされて、バカヤロー! って思ったね」
一方のサバスは後任シンガーであるデイヴ・ウォーカー(元フリートウッド・マック)を加入させたがうまくいかず、オジーを呼び戻すことに。しかし、8thアルバム『Never Say Die!』を録音し、アルバムに伴うツアーを行った後、再びオジーは解雇された。
「その決断を下したのはトニー・アイオミだったんだけど、あいつは俺に直接言わず、メンバーのなかで一番俺と仲が良かったビル・ワードに言わせたんだ。
ソロになってから最初のアルバム『Blizzard of Ozz』に入ってる『Goodbye to Romance』はサバスをクビになったときのことをイメージした曲なんだ」
「たった一人でアパートの部屋で酒を飲んで、落ち込むだけの毎日だった。本当に空虚な気持ちだったよ。『昨日は過ぎ去ってしまったけど、明日は太陽が差すだろうか? それとも雨が降るだろうか?』というのは、今後のキャリアに対する不安を歌っている。ただ、あの曲はランディ・ローズと出会ったことで希望に満ちた終わり方になっているのが(『Paranoid』との)大きな違いだよ。『きっと晴れるだろう』ってね」
◆“コウモリの首食いちぎり事件”の真相
ソロアーティストに転向し、名盤『Blizzard of Ozz』で世に打って出たオジー。この頃から彼の行動はよりエスカレートしていった。
まずは、『Blizzard〜』プロモーション・パーティの席上での“鳩の首食いちぎり事件”である。
「俺は例によって酔っ払ってたし、しかもああするしかない状況下だったんだ。最初、(妻の)シャロンが『パーティで鳩をパッと飛び立たせたらいいんじゃないかしら』って言うんで、なんかダサいアイディアだなぁと思いながらもそうすることにしたんだ。でも、いざそのパーティで鳩を飛び立たせようとしたら、3羽のうち2羽しか飛ばなくて、1羽はグッタリしてるんだ。ジャケットのポケットに長い間入れてたからだと思うんだけど、それで周りのみんながクスクス笑い始めた。それで仕方ないな、と思って、その鳩の頭をガリッとかじったんだ。
それからはもう大変だった。動物保護団体からは毎日苦情の電話がかかってくるし」
ステージ上での“コウモリの首食いちぎり事件”は、オジーの代名詞的エピソードである。
「よく観客がプラスチック製のヘビとかトカゲをステージ上に投げ込んでたんだ。そのなかにコウモリがあったものだから、オモチャだと思ってその頭に食いついたら、俺の口のなかでバタバタもがき出したんだ! そのコンサートの後は狂犬病の注射を何本もケツに打たれたよ」
ダメ押しは、1982年1月の“アラモ砦事件”。
「ああ、あれも酒が入ってたせいさ。アメリカツアー中でどこかの新聞社がアラモ砦(南北戦争の戦死者を奉った聖なる場所)でフォトセッションをやりたいって言い出したんだ。それで手順が揃う前に一杯やってね、それで尿意を催したんでそばにある壁に小便をしたんだ。そしたら、その壁がアメリカの誇りであるアラモ砦の一部だったんだ。それでしばらく、テキサス州からは追放だってさ!
まあ、そういう事件を何度か起こしているけど、いずれも酒の上の出来事なんだ。別に責任回避する気はないけど、しらふだったら鳩もコウモリも殺さなかったし、アラモ砦に小便だってひっかけなかった」
1984年には、『Blizzard〜』の収録曲「Suicide Solution」を聴きながら拳銃自殺を遂げた少年の両親からオジーは告訴されている。
「別に、『Suicide Solution』は自殺を奨励しているわけでもなんでもない曲なんだ。俺の歌をどう解釈しようがそいつの勝手だけど、自分で勝手に解釈しておいて、それを俺のせいにするのはやめてほしいな。だいたい、その少年は1日じゅうずっと『Suicide Solution』を聴いてたっていうじゃないか。その時点でなにかおかしいって普通は思うだろう? あの親は子どもとの対話を怠って、すべてを俺のせいにすることで自分を納得させてるのさ。なにも言うことはないよ」
◆「ポール・マッカートニーと俺の妹が結婚してくれたらなあ」
このような言動、活動で“ヘヴィメタルの帝王”になったオジーだが、茶目っ気があって憎めない人だということは、今では多くの人が知るところだろう。
“ヘヴィメタルの帝王”になってからもビートルズの曲は毎日欠かさず聴いていたし、幼少期は「ポール・マッカートニーと俺の妹が結婚してくれたらなあ」と妄想していたほどだった。2001年にポールと共演し、しどろもどろになったオジーの姿はショックなほど可愛い。
そういえば、一時期のオジーはかなりジョン・レノンに寄せたルックスになっており、2001年にリリースした曲「Dreamer」は本人いわく「ジョン・レノンのImagineのオジーバージョン」だったそうだ。
たしかに、オジーの音楽を聴いているとビートルズ「Tomorrow Never Knows」を元にした歌メロなのでは? という曲がたくさんある。
◆愛娘・ケリーの結婚を見届けて人生の幕を閉じる
リアリティ番組『The Osbournes』で爆発的に知名度と好感度を上げたことも、彼のキャリアに大きな影響を与えた。気さくで、気弱で、家族思いの顔が周知され、ものすごい勢いで“愛されキャラ”になっていくのは本当に驚いた。絶対にオジーの音楽を聴いていなさそうなブッシュ元大統領(父親のほう)でさえ、この番組のファンだったという。
特に印象深いのは、愛娘・ケリーとのやり取り。ケリーが「タトゥーを入れたい!」と言い出したとき、「一生残るからやめろ!」と説き伏せているオジーの両腕にめちゃめちゃタトゥーが入っていた場面はあまりにもな“おまゆう”で爆笑した。
ラストライブのバックステージでは、そのケリーがスリップノットのシド・ウィルソンからプロポーズされた。それをを間近で見ていたオジーは「くそったれ、俺の娘と結婚するな!」と割り込んだが、周りにいる者はみんな笑顔だった。もしかしたら「もう、長くない」と身内は知っていたのかもしれない。イカれた生き方をしていたオジーは、愛娘の結婚を見届けてから逝った。公私ともに、これほど見事な幕の閉じ方をした人を私は知らない。
ヘヴィな音楽にユーモアを伴わせたのも、オジーにしかできない芸当だった。ヘヴィメタルのアイコンとして、オジーは唯一無二の存在だった。
1994年、オジーは「I Don’t Want to Change the World」という曲でグラミー賞を受賞している。「俺は世界を変えたくない」と歌ったオジーだが、オジーは間違いなく世界を変えた。突然の訃報にNo More Tearsとはいかないが、オジーを悼んで今夜は月に吠えたい。
<TEXT/寺西ジャジューカ>
【寺西ジャジューカ】
1978年、東京都生まれ。2008年よりフリーライターとして活動中。得意分野は、芸能、音楽、(昔の)プロレス、ドラマ評。『証言UWF 最後の真実』『証言UWF 完全崩壊の真実』『証言「橋本真也34歳 小川直也に負けたら即引退!」の真実』『証言1・4 橋本vs.小川 20年目の真実 』『証言 長州力 「革命戦士」の虚と実』(すべて宝島社)で執筆。