画像:TOKYO FM プレスリリースより(PRTIMES)デビュー10周年を記念した山下ふ頭での野外ライブが騒音騒ぎとなってしまったMrs. GREEN APPLE。ファンの民度も問われる事態に発展しています。
◆「無料で聞けるんだから笑」―ファンの傲慢な自己中心性
会場から漏れ伝わる重低音に対するクレームの声に、「無料でミセス聞けるんだからいいと思いなよ笑笑笑僕たちは何万もかけていってるんだからさ。」や「来年は更に爆音でやってくださいな。低音マシマシで。」、「10周年っていう節目のLIVE。人生沢山時間がある中でのたった合計6時間。素敵なLIVEをしてるんだろうなってどうしてで思えないのだろう。生きづらい、楽しみづらい世の中。。」と、批判に反論を試みるファンがいるのです。
良識あるファンはこうした声が逆効果だと理解していますが、“信者化”してしまった人たちには届いていない様子です。
少し冷静になれば、“音漏れが聞けて幸せ”だとか“ちょっとうるさいぐらい我慢しろよ”などと言うのは控えるはずなのに、いとも簡単に反射的に出てしまう。最近では、アーティストへの愛があまりに深いあまり、自分本位な言葉を平気で発するファンが増えているように感じます。
◆ファンの自己中心的な愛情の問題点
改めて、ミセスが浮き彫りにしたファンという存在の問題点について考えたいと思います。
まず、「無料でミセス聞けるんだからいいと思いなよ」という発言が象徴的です。自分にだけ価値のある趣味や好みを、他人に押し付けることに全く疑問を感じていない点ですね。
自分が熱狂的に楽しむだけであれば何の問題もありませんが、それを他者の生活圏にまで持ち込み、共感を強要する姿勢は、傲慢と言わざるを得ません。
これは例えるならば、犬を嫌がる人に向かって「どうしてこんなにかわいいのに?おかしな人ねえ」と言う飼い主の心理に似ています。
「私のかわいいミセスが10周年の記念イヤーなんだから、みんなおめでとうって祝ってくれたっていいじゃない」。このように何かを熱心に愛するというポジティブな行為を免罪符にして、他者のプライバシーを平気で踏みにじる行為と言えるでしょう。
これはファンというより、周囲への配慮を欠いた自己中心的な振る舞いに近いものです。そのため、今回多くの人がミセスのファンに眉をひそめているのかもしれません。
◆熱狂と商業的ジレンマの狭間で
こうした悩ましいファンを多く持つことが、今後のミセスに与える影響についても考える必要があります。なぜならば、その種の熱心さは信仰に通じるものであり、つまり、バンド活動の計算できる収益に直結する要素だからです。
バンドのイメージを考えればファンの行き過ぎた情熱は鎮めたいけれども、しかしながら、背に腹は代えられない状況もあります。
ファンのコミュニティが巨大化すればするほど、このジレンマに悩むことになります。今回の騒音問題は、その一端を示しているのです。
◆“若さ頼み”の人気は長持ちしない
では、こうした負の熱狂を中和させるにはどうしたらよいのでしょうか?
そのためには、ファン以外の部外者にも関心を持ってもらえる環境を整える必要があります。「アーティスト←→ファン」という2者だけの関係にせず、「客」という中立的な経由地を作ることです。この経由地を通じて、アーティストとファンの双方に対し、冷静な視点を提供することができます。
ミセスを推すのでも信仰するのでもない立場から、ただ作品を楽しむだけの人、純粋に鑑賞したり批評したりする人も巻き込めれば、彼らの人気はより多層的で持続的なものになるでしょう。
ただし、現状ではそれもなかなか難しいように思います。なぜなら、ミセスの音楽は、“若い人”限定のアミューズメントのような側面があるからです。裏声を多用した急激なメロディの上下動、唐突な転調、リズムチェンジにストップ・アンド・ゴー。これらは絶叫マシンのように即物的な刺激です。
そのため、すぐに消費されるので、常に新たな刺激を提供できないと飽きられてしまう運命にあります。つまり、アーティストもファンも“若い”ということでしか成立し得ないビジネスモデルなのです。
もっとも、それこそが、ミセスが他のアーティストと一線を画す唯一無二の個性だというジレンマでもあるのですが…。
Mrs. GREEN APPLEは、国民的なバンドです。今回の騒音問題は、いったん立ち止まってこの事実を再考するきっかけになったと言えるでしょう。
<文/石黒隆之>
【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4