1992年のル・マン24時間レースを戦ったBRM P351。ウェイン・テイラー、ハリ・トイボネン、リチャード・ジョーンズがステアリングを握った。 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは1992年のル・マン24時間レースなどを戦ったグループCカー『BRM P351』です。
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1960年代にF1において数多くの成功を収めたイギリスのレーシングコンストラクター『BRM』。1962年にグラハム・ヒルとともにチャンピオンを手にするなど、60年代はランキング上位の常連だったこともあるBRMだが、やがて凋落の時を迎え、やがて70年代後半にはF1から撤退し、チームも消滅してしまう。
そのF1チームが消滅した1977年から15年の時を経て、スポーツカーレースシーンにおいて主にグループCカーによって争われていた1992年にBRMの名が復活した。その時に作られたグループCカーというのが、『BRM P351』であった。
当時のグループCカーは、F1との共用を狙った3.5リッターNAエンジン搭載を基にした新規定が導入されたばかりだった。にも関わらず、新規定の本格導入初年度である1991年にスポーツカー世界選手権(SWC)を戦ったジャガーやメルセデスといったメーカーが消え、残ったのはプジョー、トヨタ、マツダなどの数台のみ。そのような状態だったため、1992年のシーズン前は新規参入車両が求められていた。
そこでBRMは、F1やツーリングカーレースなどで知られたドイツのレーシングチーム、ザクスピードの元エンジニアだったポール・ブラウンにシャシーの設計を依頼。できあがったシャシーにウェスレイク製をベースにしたオリジナルのV型12気筒エンジンを搭載して、P351というグループCカーを作り上げた。
完成したP351はル・マン24時間レースやSWC、アメリカのIMSAシリーズなどに参戦した。しかし、このマシンが競争力のあるスピードを発揮することはなかった。その結果、1992年をもって再びBRMの名は、再び“一時的”にレースシーンから消えることなるのであった。
[オートスポーツweb 2025年07月30日]