
昨年12月6日、中山美穂さんの訃報が流れた。享年54。早すぎたその死に、日本中が悲しみに暮れた。
1985年、ドラマ『毎度おさわがせします』(TBS系)で彗星のごとく現れた美穂さん。その年、6月21日にリリースしたデビュー曲『C』はトータルで55万枚の大ヒットを記録。「日本レコード大賞」最優秀新人賞に輝き、一気にスターダムに駆け上がっていった。
しかしデビューまでの道のりは、決して平坦ではなかった。共に夢を追いかけてきた育ての親、株式会社ビッグアップルの創業社長・山中則男氏が、数々の挫折を乗り越えつかんだ夢の軌跡について熱く語ってくれた。
「当時中1だった美穂は、ちょっと浅黒く猫顔の目力がある女の子。あの夏目雅子さんの少女時代を思わせる顔立ちに、第一印象で“この子は売れる”と思いました」
それは1982年6月、盛夏を思わせるような汗ばむ土曜日の午後のことだった。そして美穂さんの母と3人で会ったとき、直感が確信に変わる。
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「私は、お母さんを楽にさせてあげたい。今までお母さんは苦労して、私と妹を育ててくれました。お金がないのに、私のわがままをなんでも聞いてくれた。だから頑張って楽をさせてあげたいんです」
婚外子として生まれた美穂は、涙ながらにそう訴えた。
この環境がこの子を強くさせている
その後、家族3人が暮らす自宅アパートへ行った。生活に必要なものだけしかない質素な部屋を見て、
「苦労して育ってきた子は、苦労を糧に生きる。この子はいける。この環境がこの子を強くさせている」
そう確信した山中氏は、モデル事務所を部下に譲って、美穂さんのためにゼロからスタートする決心を固める。
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しかしレッスンをしながらテレビドラマや映画、レコード会社のオーディションを受けたが、2年たってもチャンスはなかなか訪れなかった。
「このころ、アイドルとして活躍していた歌手やタレントは、いわゆる狸顔ばかり。猫顔の美穂のような顔立ちは少し時代が早すぎたんです。それでも次に来るのは絶対に猫顔だと信じてオーディションに挑戦し続けました」(山中氏、以下同)
しかし山中氏がつくった個人事務所の資金繰りは火の車状態。
─もうダメかもしれない。
そう思い始めたころ、かつての部下から声がかかる。それが伝説のテレビドラマとなる『毎度おさわがせします』のヒロイン、森のどか役のオーディションだった。
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『毎度おさわがせします』は、性への関心が高い中高生の繰り広げるエッチな騒動をコミカルに描いたゴールデンタイムのドラマ。オーディションの末に、
中学2年生で「下着姿や入浴シーン」も
「彼女でいくよ。目力がいい」
そうプロデューサーに言われ、演技経験のない美穂さんはチャンスをつかんだ。ところがいざ台本を開いてみると、山中氏の目は点になった。
「口にするのもためらってしまうような性に関する過激なセリフがたくさん入っている。下着姿や入浴シーンもある。アイドルとして育てていこうとしている中学2年の美穂にやらせるか悩みました」
しかしそんな心配をよそに美穂さんは、
「私、スターになりたい。テレビに出たい。チャンスを逃したくない。だから大丈夫」
と気丈に振る舞ったという。1985年1月。番組がスタートすると「不謹慎だ」といった声もある中、ドラマの視聴率は週を追うごとにうなぎ上り。事務所には仕事の依頼が殺到。ファンからの応援の電話が24時間鳴りやまなかった。
実は『毎度〜』のオーディションには、こんな秘話がある。
「中学の制服のセーラー服で来るようにと伝えたら、美穂は白いマニキュアを塗ってオーディション会場にやってきたんです。不良っぽいから落とせと言ったんですが、除光液が手に入らない。爪を隠すようにと注意したのに、美穂は堂々と面接に臨みました」
幸か不幸かそのマニキュアがプロデューサーたちの目に留まり、役を射止める。
白いマニキュアをつけてオーディションに臨んだのは確信犯のなせる業なのか。彼女が亡くなった今となっては、もはや謎に包まれたままである。
ドラマが社会現象になるほどヒットすると、多くのレコード会社から歌手デビューのオファーが舞い込んだ。
デビュー曲『C』をめぐって一波乱
デビュー曲『C』の作詞は、松田聖子などのヒット曲を数多く手がける松本隆氏にすんなりと決まった。ところが作曲をめぐって一波乱起きた。
当初は、ある大物作曲家に曲作りを依頼していた。ところが上がってきた曲を何度聴いても、山中氏はしっくりこなかった。
「初めて耳にしたのは『明星』の海外ロケでグアムに向かう飛行機の中。ちょっとテンポとイメージが違う。美穂も“うーん?”と言って首をひねっていました」
帰国した山中氏は、すぐさまレコード会社に電話を入れ、
「もう一曲作り直していただけませんか」
と訴え、了承を得ると希代のヒットメーカーである筒美京平さんに書いてもらいたいと、深々と頭を下げた。
期待に応えて筒美は1週間で曲を書き上げる。山中氏の狙いはズバリと当たった。「松本隆×筒美京平」によるヒット曲の誕生である。
1985年7月18日の音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS系)。
「今週のスポットライト」に登場すると話題沸騰、その翌週から『C』は9週連続ランクイン。
一躍、美穂さんは「レコード大賞新人賞」のダークホースに名乗りを上げることになる。
その一方で12月に公開される映画『ビー・バップ・ハイスクール』では、不良少女との決別宣言を行った。
「『ビー・バップ〜』の役が来たとき、『毎度〜』ののどか役と重なるものがありました。『毎度〜』『夏・体験物語』と不良少女役が2作続き、このままでは“不良少女”のイメージが定着してしまう。その前に脱皮させたほうがいい。
そう考えて制作サイドに直談判。こうして生まれたのが不良グループの憧れるセーラー服が似合うマドンナ役でした」
初出演した映画が興行収入14億円を超える大ヒットを記録。
祝賀パーティーを抜け出して向かった先
映画女優としても成功を収めると、美穂さんは最大のライバル、本田美奈子さんを破って「レコード大賞最優秀新人賞」も手にした。
デビューの年を締めくくる大みそか。祝賀パーティーを30分ほどで抜け出して、美穂さんは心許せるファンクラブのメンバーたちが待つ原宿の事務所に戻ってきた。
「最優秀新人賞受賞と新年のお祝いをファンのみんなとやりたくて、美穂がひそかに声をかけていました。“美穂コール”が起こる中、何度も手を振り笑顔を振りまく美穂の顔を私は忘れることができません」
1980年代アイドルの中で歌手、そして女優として「二刀流」を確立。唯一無二の輝きを放つ中山美穂さん。その成功の秘密は一体どこにあったのか。
「『ママはアイドル!』以降TBSのドラマを手がけ“ミポリン”の名づけ親でもある八木康夫プロデューサーをはじめ、業界内で“中山美穂と仕事がしたい”というファンがたくさんいました。
彼女自身の才能もさることながら、美穂の人柄が誰からも愛された。だから成功することができたと思っています」
山中氏には、美穂さんからもらって今も大切にしているプレゼントがある。それは、カシミアのセーター。
お小遣いの中から工面してのプレゼント
「レコードのプロモーションビデオの撮影でイタリアのベニスに行ったときのことです。
少ないお小遣いの中から工面してプレゼントしてくれたのがこのカシミアのセーター。今も大事に着ています」
山中氏が彼女の突然の死を知ったのは、亡くなった当日、昼食を終えたころ。ビッグアップル現社長から電話をもらい、動揺で言葉を失った。
12月12日。告別式が行われ東京・品川の桐ヶ谷斎場で荼毘に付された美穂さんを、山中氏は現地で見送った。
とめどなく涙が流れた。
「美穂、ありがとうな、今、僕があるのは、美穂のおかげだ。こう心の中で語りかけ、天国へと旅立つ美穂を見送りました」
トップスターへと育て、自分よりも先に逝ってしまった美穂さん。
「美穂と出会わなかったら、どんな人生を歩んでいただろう」
山中氏はこの思いで胸がいっぱいになるという。そんな“恩師”を今も美穂さんは空から、あの笑顔を浮かべて見つめているに違いない─。
取材・文/島 右近