【Jリーグ】FC町田ゼルビアがACLに初参戦 ベテランライターが見た14年前JFLからの大きな進化

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2025年09月16日 07:30  webスポルティーバ

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連載第67回 
サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

 現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。

 2025−26シーズンのACLがスタート。今回は初参戦するFC町田ゼルビアを取り上げます。後藤氏が始めて試合を見たのは14年前。そこからクラブは短期間で大きく進化を遂げました。

【伝統の強いサッカー界で新興クラブが成功】

「伝統の力」というのは思ったより大きなものだ。

 Jリーグには「オリジナル10」という存在がある。1993年にJリーグが開幕した時にメンバーだった10クラブのことだ。

 それから30年以上が経過し、Jリーグのクラブ数は60にまで拡大したが、「オリジナル10」のほとんどは今でもしっかりJ1リーグで戦っている。

 10のクラブのうち消滅(合併)した横浜フリューゲルスを除く9クラブのうち8クラブが2025シーズンでもJ1リーグに所属。残るひとつであるジェフユナイテッド(当時は市原。現在は千葉)は、このところずっとJ2で戦っているが、今シーズンは激しい昇格争いを繰り広げている。

「オリジナル10」以外でも、強豪チームのほとんどはJリーグ発足前からの長い歴史を背負っている。

 たとえば、今シーズン、リカルド・ロドリゲス監督の下で優勝を争っている柏レイソルがJリーグに参戦したのは3年目からだったが、前身は日立製作所。1950年代、日本サッカー界が大学中心から実業団中心に変化していく頃からの実業団の雄であり、1965年の日本サッカーリーグ(JSL)発足時の「オリジナル8」の一員である。

 今シーズン、AFCチャンピオンズリーグエリート(ACLE)に出場するクラブのうちヴィッセル神戸の前身は1966年創部の川崎製鉄。1986年以降はJSL2部で戦っていた。そして、サンフレッチェ広島(東洋工業)はJリーグの「オリジナル10」であると同時にJSLの「オリジナル8」でもあり、JSLの第1回から第4回まで4連覇を成し遂げた伝統クラブだ。

 それほど「伝統の力」が強いサッカー界で、新興クラブが参入してトップリーグまで昇格を重ねて成功を収めるのは容易なことではない。そんななかで、見事に強化を果たしたのが、いよいよACLEに初参戦するFC町田ゼルビアである。

【14年前はJFLだった】

 町田の創設は1989年だが、強化の歯車が動き出したのは21世紀に入ってからだった。

 関東リーグ2部参入が2006年で、日本フットボールリーグ(JFL)入りが2009年。2011年にJFLで3位に入ってJ2リーグ昇格を決めたが、翌2012年にはJ2最下位で終わって降格。その後、1シーズンでJ3リーグに昇格。その後の躍進ぶりはご承知のとおりである。

 2023年に現在の黒田剛監督が就任するとその年にJ2リーグで優勝を飾り、J1リーグ初昇格となった昨シーズンは最後まで優勝争いを演じ、3位に入ってACLE出場権を獲得したのだ。

 僕が町田の試合を始めて見たのは、2011年10月のことだった。

 翌年のロンドン五輪を目指していたU−22日本代表(関塚隆監督)が町田と練習試合を行なうというので、町田市立陸上競技場(野津田)まで出かけたのである。五輪チームを見るのが目的だった。

 この試合、前半5分に永井謙佑(現名古屋グランパス)が抜け出してU−22日本代表が先制したが、32分に酒井良のゴールで町田が同点とした。最後は72分、82分に大迫勇也(現神戸)が2点を決めてU−22日本代表が勝利したが、それよりも町田の質の高い攻撃が印象的な試合だった。

 ちなみに、現在、町田の守備の要として活躍している昌子源は、この時はU−22日本代表の一員として後半開始からピッチに立っていた。

 今ではJFLでも元Jリーガーが多数プレーしており、この数年、競技レベルも急激に上がってきているが、当時のJFLはまだそれほど強化が進んでいなかった。そんななかで、町田のプレーは「JFLでもこんなにしっかりした試合をするチームがあるんだ」とちょっと驚きだった。

 当時の町田の監督はランコ・ポポヴィッチだった。

 現役時代はイビツァ・オシム時代のシュトルム・グラーツ(オーストリア)のリベロとしてUEFAチャンピオンズリーグにも出場した選手で、2009年に大分トリニータの監督として来日し、2011年に町田の監督に就任していた(その後、FC東京や鹿島アントラーズなどでも監督を歴任)。

「なるほど、ランコが作ったチームなのか」と僕は納得した。

【短期間で大きく進化】

 ポポヴィッチ監督とは以前から面識があったので、その後はJFLで戦っていた町田の試合も何度か観戦に行った。そのうち、クラブ関係者とも面識を持つようになり、2度目の相馬直樹監督時代となってからも、町田の試合はずっと見続けてきた。

 ひとりの選手の若い頃から晩年までを見届けることも珍しい経験だが、下部リーグにいたクラブがトップリーグに昇格していくのを見るというのも、一生のうちに何度もあることではない。

 いろいろな監督がやって来た。

 攻撃サッカーを志向するポポヴィッチや、慎重で手堅い試合をする相馬、自由にプレーさせようとするオズワルド・アルディレスなど歴代の監督はそれぞれ個性的だったが、クラブとしての方向性はさっぱり見えてこなかった。

 そして、最後にクラブを成功に導いたのは、過去のどの監督とも異なるキャラクターの黒田剛という監督だった。

 とにかく徹底して勝負に拘る指導者だ。守備を徹底し、時には反則をして流れを断ちきることも躊躇せず、そしてセットプレーやロングスローを駆使して"結果"にコミットする姿勢が町田の成功につながった。

 かつてはローカルなクラブでいわゆる"親会社"を持たず、多くの地元企業が支えていた町田だったが、2023年からはサイバーエージェントがメインスポンサーとなって、今ではJリーグのなかでも資金力の大きなクラブとなった。

 その結果、昌子や中山雄太、相馬勇紀といった日本代表経験のあるベテランや、谷晃生、藤尾翔太、望月ヘンリー海輝といった若手の有望株を抱え、さらに韓国の呉世勲(オ・セフン)、羅相浩(ナ・サンホ)、オーストラリアのミッチェル・デュークなど各国の代表クラスを的確に補強して、Jリーグ屈指のチーム力を誇るようになった。

 短期間の間に、これだけの変化(進化)を遂げたクラブも珍しい。

【スタジアムも大きく変わった】

「変化」といえば、本拠地の町田市立陸上競技場も大きく変わった。

 かつては小さなメインスタンドと芝生席だけの競技場だったが、まずメインスタンドを全面改築し、バックスタンドも建設。J1リーグの基準を満たす約1万5000人収容のスタジアムとなった。

 このスタジアムの魅力は自然に囲まれた環境だ。風が吹いて、バックスタンド裏の樹々が揺れる光景はなかなか魅力的だ。

 ただし、最寄りの鉄道駅から「徒歩60分」と言われ、交通をバスに頼らなければならないのが大きな難点。将来的には多摩モノレールの延伸計画もあるようだが、モノレールの輸送力は一般の鉄道には遠く及ばない。スタジアムをさらに拡張するとすれば、大規模なバスターミナルを建設するしかないのだろうか。

 そういえば、Jリーグ参入以前はシャトルバスもなく、野津田に行くには路線バスを利用するしかなかった。

 僕がいつも利用したのは多摩センター駅から鶴川駅行きのバスで、細い田舎道を走行する路線だった。野津田公園のそばの「新屋敷」という停留所で降りて、急な坂道を昇って養鶏場の脇を通って野津田公園に入ると、バックスタンドの裏手に出ることができた。

 しかし、バスは50分に1本しかなかったので、帰りはあらかじめ時間を調べてそれに合わせてスタジアムを出なければならなかった。

 ところが、ある時、試合後の記者会見でポポヴィッチ監督の話が長くなって、バスに乗り遅れてしまったことがあった。

 同じオシムの弟子筋に当たるミハイロ・ペトロヴィッチ監督(広島、浦和、札幌で監督を歴任)と同様、ランコ・ポポヴィッチは話しだしたら止まらない監督だった。しかも、この時は僕の質問に対する答えだったので途中で抜け出すわけにもいかず、結局、僕は予定より50分後のバスを待つはめに陥った......。

 さて、その町田がいよいよACLEに参戦する。

 前述のように黒田監督の町田は守備を固めて勝負に徹する戦いをする。そして、攻撃では前線に配した各国代表クラスの個人能力に頼るところが大きい。先日の横浜FC戦では、まさかのロングスローからの失点で1点のビハインドとなったが、攻撃的選手を次々と投入してロングボールを駆使しての力攻めに徹し、最後はデュークの同点ゴールで引き分けに持ち込んだ。

 これは、一般的な日本のサッカーとはちょっと違う戦い方だ。というより、むしろこれまでのACLでは日本チームがアジア諸国と対戦する時にさんざん悩まされてきたスタイルなのである。

 そんな、従来の日本サッカーのイメージを覆そうとしている町田がACLEで韓国や中国のチーム相手にどんな戦いを演じるのか。それも見どころのひとつではないだろうか。

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