
34年の時を経て、偉大な歴史が再現された。予選(9月14日)で44秒33の日本新を出していた中島佑気ジョセフ(23)が、16日の男子400m準決勝3組で44秒53の2位。91年東京世界陸上の高野進以来、この種目での決勝進出を果たした。当時高野が与えたインパクトは絶大で、その後の短距離・ハードル選手たちは、世界を目指すことが当たり前の雰囲気になった。男子では400mハードル、200m、100m、110mハードルの順でファイナリストが誕生したが、きっかけを作った400mでは、高野に続く選手がなかなか現れなかった。中島はどんな走りで34年ぶりの快挙を実現したのだろう。また、高野と中島の“意外なつながり”も紹介したい。
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ラスト100mで5人をゴボウ抜き中島の“末脚”の強さが、テレビ放映を通じて日本中に知れ渡った。公式に発表されたデータで300m通過は32秒77の7位。トップを走っていたK.ジェームズ(33、グレナダ。22年オレゴン世界陸上銀メダル)とは0.81秒、約6〜7mの差があったが、そこから5人を抜き去った。2位以下の7人が0.44秒差でフィニッシュする混戦だからこその逆転劇だったが、中島のラスト100mの11秒76は、3組目では一番、準決勝全体でも二番目の速さだった。
中島は「冷静」に走ったことが、逆転劇の要因だったという。「準決勝になると一か八かを狙って、前半から速いスピードで突っ込んでくる選手がいることは想定していました。それに惑わされず、(44秒33の日本新で走った)予選で良い形で走れたので、自分の感覚を信じて、自分のスタイルに徹して、最後150m、100mで勝負していこうと思っていました」。
予選と準決勝の通過タイムを比較すると100mが11秒20と11秒23、200mは21秒52と21秒65、300mが32秒69と32秒77、そして400mが44秒44と44秒53。中島自身は同じペース配分で走り切っていた。
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大会前には高野の34年前の偉業について、「決勝に行って初めて、偉大な高野先生に少し肩を並べられます。今の世界陸上でもう一度、違う選手が400mの決勝に行くことに価値があると思うので、しっかり受け継いでいきたい」と話していた。
準決勝レース後に高野について質問されると、「感慨深いですね」とコメント。「自分はオレゴン世界陸上、パリ五輪と(個人種目は)不甲斐ない結果に終わっていました。東京世界陸上は皆さんの声援を力に変えて、自分のバリアを破る絶好の機会だと思っていたんです。地元開催の世界陸上は最初で最後のチャンス。このチャンスを逃さず目標を達成できたことは本当に幸せですね」
中島の終盤の強さは以前から注目されていた。学生時代から指導する東洋大の梶原道明監督(72)は、中島の特徴をこう話した。
「スピードがすごくある選手ではありませんが、マックスより少し下のスピードで繰り返す能力が高かったんです。代表になり始めてM.ノーマン(27、米国。オレゴン世界陸上金メダル)のチームで500m+400m+300mの練習をやったときも、最後の300mはジョセフの方が強いこともありました」
国内では終盤の強さで勝つことはできても、世界では前半で後れないことが重要と考え、ここ数年は前半のスピードアップに取り組んできた。しかしそこを重視するあまり、国際大会で終盤のスピードが落ちてしまっていた。45秒04と当時の自己新で走ったブダペスト世界陸上準決勝では、200m通過は21秒56と今回と変わらないが、最後の100mは12秒10かかっていた。
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今季は終盤の強さを軸にレース構成を考える方向に変更した。前半をより楽にスピードを出すことを意識し、結果的に今大会では同レベルのタイムで200mを通過できた。一度、前半のスピード向上に取り組んだことが、今回の44秒4〜5台の連発につながっている。
短距離、ハードル種目のレベルを向上させた高野の功績高野は88年ソウル五輪で44秒90と日本人初の44秒台をマークしたが、準決勝を突破できなかった。後半型のレースパターンでは難しいと考え、前半から外国勢に後れないレース展開を目指した。そのため89、90年間は400mへの出場をなくし、89年は100m、90年は200m中心にレースへ出場した。90年北京アジア大会は200mで優勝している。
そして91年に400m復帰し、6月の日本選手権で44秒78の日本新をマーク。8月の東京世界陸上で7位に入賞した(舞台はどちらも国立競技場)。これは1932年ロサンゼルス五輪100mで6位になった吉岡隆徳以来の、男子短距離種目での世界大会入賞だった。高野は翌年のバルセロナ五輪でも8位入賞を果たしている。
高野は“ファイナリスト”という言葉を使い、短距離種目の決勝で走ることの意味を陸上界にも、世間にもアピールした。高野を追うように日本の短距離、ハードル種目が成長し、世界と戦う気運が大きくなり始めた。
400mハードルの山崎一彦が95年イエテボリ世界陸上7位と続き、100mの朝原宣治と200mの伊東浩司が、96年アトランタ五輪で決勝進出にあと一歩と迫った。そして01年エドモントン世界陸上400mハードルで為末大が銅メダルを獲得し、03年パリ世界陸上200mでは高野が指導した末續慎吾が銅メダルを獲得。
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100mは伊東が98年に出した10秒00を破るのに時間がかかったが、100m&200m選手たちは確実に成長していた。朝原と末續らがメンバーだった4×100mリレーは、08年北京五輪で銀メダルを獲得。16年リオ五輪でも山縣亮太(33、セイコー。21年に9秒95の日本記録)、桐生祥秀(29、日本生命)らで銀メダルを獲得した。
その中から桐生が17年に9秒98と、日本人初の9秒台をマーク。その記録を更新したサニブラウン・アブデル・ハキーム(26、東レ)が22年オレゴン世界陸上7位、23年ブダペスト世界陸上6位と連続入賞した。
110mハードルは23年ブダペスト世界陸上で泉谷駿介(25、住友電工)が6位と初入賞。村竹ラシッド(23、JAL)がパリ五輪、今大会と2年連続5位に入賞した。110mハードルは高野が作った流れに入らないかもしれないが、110mハードル選手の100mの記録が上昇していることが、世界に近づいた要因の1つとされている。
しかし短距離・ハードル躍進の起点となった400mでは、高野以後誰も決勝に進めていなかった。日本記録を46秒台中盤から44秒78まで引き上げた高野は、当時の日本では突出した存在だったからだ。高野が指導した小坂田淳が、44秒台は出せると言われながら出すことができなかった。しかし小坂田と伊東がメンバーだった4×400mRの日本チームはアトランタ五輪5位、小坂田が3大会連続メンバー入りした04年アテネ五輪も4位と入賞した。その後時間は空いてしまったが、日本チームは21年東京五輪予選で3分00秒76と、アトランタ五輪で出した日本記録に並ぶと、23年オレゴン世界陸上で2分59秒51のアジア新で4位入賞。24年パリ五輪も2分58秒33のアジア新で6位に入賞した。
400mの日本記録は23年ブダペスト世界陸上で佐藤拳太郎(30、富士通)が44秒77と、高野の記録を0.01秒更新した。そしてオレゴン以降の4×400mリレーでメンバー入りしてきた中島が今回、五輪を含めた世界大会でいうと33年ぶりに決勝進出を果たしたのである。
中島の準決勝レース後に、高野が自身のSNSでこうつぶやいた。「ジョセフありがとう!決勝、応援しています。」
高野の高校時代を指導した人物とは?その高野と中島に“意外なつながり”があった。梶原監督の兄の千秋氏が、静岡吉原商高(現富士市立高)時代の高野を指導していたのだ。
梶原監督は91年の東京世界陸上にも、大会スタッフとして参加していた。高野の決勝進出も目の前で見ていたという。「鳥肌が立ちましたね。泣いているつもりはないのに、自然と涙が出ていたと思います。兄の教え子が地元開催の世界陸上で歴史に残る快走をして、すごく感激したことを今でも鮮明に覚えています」
それから34年が経ち、今度は自身が手塩にかけた中島が、高野と同じように決勝進出を果たした。34年前と同じように涙が出てしまっただろうか? 大会前の取材では
「どうですかね。ジョゼフが思った通りの走りをして決勝に残ったら、それなりに感動すると思いますが」と話していた。
中島自身は決勝に向けて、以下のように考えている。
「まだ修正できるところはあります。特に前半は、もう少し行って(スピードを上げて)、後半もまとめられたらメダルも見えてくると思います。自信を持って行きます」。大会主催者の取材には「44秒20が目標です」ともコメントした。
高野の7位入賞から34年。その間、400mをもう一度世界のトップに、と頑張ってきた先輩たちがいた。ともに4×400mリレーを走り、個人でも世界大会決勝へと切磋琢磨してきた仲間たちもいる。そして自身を日本トップレベルに引き上げてくれた梶原監督。9月18日に行われる決勝を、中島は色々な人たちの思いに背中を押されて走る。
(TEXT by 寺田辰朗 /フリーライター)