
今年6月、徳山秀典は舞台『ミュージカル信長〜朧本能寺』のステージに立っていた。主役の織田信長を演じることに加え、初めて脚本と演出も務めた作品だった。
「タイトルを“朧”としたのは、実際にはどんなことがあったのかわからない本能寺の変について、自分なりに考えて物語にできるかなと思ったこと、そして見てくださった方もさまざまに解釈できる、そんな舞台を目指そうと考えたからなんです」
これまで舞台を共にした才能ある仲間たちと新たな作品をやりたい─そうした熱い思いが結実した。しかも自身が所属する事務所で舞台の製作も担当したことからさまざまな不安があり、刀を振る所作の稽古をしている夢に驚いて目を覚ますこともあったそうだが、蓋を開けてみれば連日満席、無事に5日間の公演を終えた。
本格的なデビューから30年。俳優・歌手として活躍してきた徳山だが、「実は何度も辞めようと思ったことがある」と言う。
掃除のおじさんから突然のスカウト
徳山は1982年1月30日、姉が2人いる末っ子の長男として東京・中野で誕生した。「秀典」という名は、浅草生まれで、時代劇が大好きという父方の祖父がつけたという。
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「だから父方のいとこは、将軍や武将みたいな『秀◯』という名前が多いんですよ。僕の名前は、おじいちゃんが考えて、道端の占い師さんにも相談して決めたそうです」
当時住んでいたアパートの隣室にはいとこの4人きょうだいが住んでおり、よく一緒にサッカーや野球などをして遊んだという。
「いろいろ習い事もさせられたんですけど、僕は勉強が嫌いで(笑)。空手、サッカー、習字、英語なんかをやりましたけど、それは両親が夜に働く仕事をしていて、僕が1人にならないようにという配慮だったのかなと思います。夜は男1人で寝ていたんですが、時々夜中に目を覚ますと怖くなって、親が仕事でいないので2段ベッドに寝ていた姉たちのところへ潜り込んでいました」
小学5年生まで中野で育った徳山は、父の仕事の都合とグレート・ピレニーズという大きな白い犬を飼うため、都下の東村山へ引っ越した。
ちょうどこのころ、次姉が通っていた芸能学院「テアトルアカデミー」へ、母について行ったときのことだった。姉を待っていると、掃除をしていたおじさんから「君は受けないの?」と聞かれたという。
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「母が『この子は受けません』と言ったんですけど、実はそのおじさん、そこの社長で(笑)。その場でスカウトされたんです」
徳山の次姉は、もともと友人が応募するときにすすめられて一緒に書類を出し、合格したことがきっかけで通っていたそうで、「私は行く気がなかったんです」と笑う。
「ノリ(秀典)は子どものころ、そんなに前に出るようなタイプではなかった気がしますね。姉2人が強かったもので(笑)。でも意志が強くて、自分の気持ちをはっきりストレートに出す、活発で素直な男の子でした」(次姉)
演技や芸能界にまったく興味がなかったという徳山だったが、両親のすすめで当時新宿にあったレッスン場まで電車とバスを乗り継いで通うようになる。
「両親が洋画が大好きで、子どものころから一緒に見ていたんですけど、僕はドキュメンタリーだと思っていたんです。でもそれがお芝居だと知ってビックリして(笑)。だから僕の中ではお芝居はリアリティーが重要で、劇団の子たちの演技を見て『ちゃんちゃらおかしいぜ』と思っていたんですけど、いざ自分がやると……できないんですよね。
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たった2〜3行のセリフも言えず、頭が真っ白になる。そこからどうしたら洋画のようなリアリティーのある演技ができるんだろう、と考えるようになりました」
それまでエキストラ出演ばかりだった13歳のとき、'95年に放送されたNHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』のオーディションに合格。主人公・徳川吉宗の次男・田安宗武の少年期を演じることになった。
「当時オーディションでだいたい最終まで行って、よく落とされていたんです。だからこれも数あるオーディションの中のひとつで、『ああ受かったんだ』と思ったくらいで、どんなオーディションだったか全然覚えてないんですよ(笑)。でも周りが騒いでいたのは覚えていますね」
せっかくの大河ドラマ出演なので、これを機に芸名をつけたほうがいいのではと祖父や父が盛り上がり、ドラマにあやかって「徳川秀典」としようとしたそうだが、事務所と相談の上、川を山にして「徳山」となった。
「『徳川はないでしょ、勘弁してほしいな』と思いましたね(笑)。まあ当時はまだプロ意識が全然ないガキで、今見ると下手クソなお芝居してるんですよ。現場では学校で友達から教わった十円玉を使ったマジックを、共演した西田敏行さんや黒木瞳さんたちに披露して、“十円坊主”と呼ばれてました。
そうそう、西田さんに『サインください』とお願いしたら『ちょっと待ってね』と言われて、その日の撮影終わりに筆ペンとスプレーで、色紙にとてもきれいなご自分の似顔絵を描いてくれたんですよ。それがすごくうれしかったなぁ」
今から30年前の大河ドラマが、徳山秀典としてのデビューとなった。
10代で味わった天国と地獄
中学2年生で東村山から杉並へと引っ越し、転校先で周りになじめなかった徳山はより真剣に芝居に向き合っていくようになる。ロビン・ウィリアムズやゲイリー・オールドマンといった演技派俳優が好きな徳山はテアトルアカデミーの選抜クラスに入ることになり、そこにはこれまでの友達とは違うタイプの男子が集まっていて、彼らと自然と一緒に遊ぶようになったという。
高校への進学はまったく考えていなかったというが、両親や事務所のすすめで堀越高等学校へ入学する。
「同級生は今の六代目中村勘九郎(当時、二代目中村勘太郎)、佐藤江梨子、安達祐実、金子ノブアキですね。でも僕、高校はほとんど行けなかったんですよ。週に2日行くかどうかで、なかなか会えないから“レアポケモン”って言われてました(笑)。
1年生のときにオーディションで受かった映画『稚内発 学び座〜ソーランの歌が聞こえる〜』で北海道で2か月撮影したときは安達祐実ちゃんと一緒で、『学校で隣同士の席なのに、北海道でお芝居してるって不思議だね』って話してました」
忙しくて部活に入る時間がなかったため、自主的に街のボクシングジムへ通って「1人ボクシング部」を自称していた。
高校1年生だった徳山が、オーディションのため当時麹町にあった日本テレビへ行ったときのことだ。マネージャーから「オーディションがなくなった」と言われ、たまたま同じ日にやっていた別のオーディションへ急きょ参加することになる。それがドラマ『ぼくらの勇気 未満都市』だった。
「僕はレギュラーエキストラのリュウという役だったんですが、『未満都市』は子どもたちが毎週死んでいく展開で、その回だけエキストラにもセリフが1、2行あったんですね。でも僕は自分のやりたいことをきちんと見つけたいと生意気にも思っていたので、このままエキストラの役なんだったら早くドラマを辞めさせてくださいとスタッフの方に話をしにいったんです。
そうしたら『ちょっと待ってて』と言われて。それである回の台本をもらったらセリフが1、2行どころじゃなくて、リュウが主演のKinKi Kids(現在はDOMOTO)の2人を激しくいじめる敵役だったんです」
その回の放送後、徳山を取り巻く事態が一変した。
「それまで僕の名前なんて誰も知らなかったのに、放送の翌日にいつもどおり外出したら、もう歩けないくらい人に囲まれちゃって、急に有名人になってしまったんです。ドラマの撮影は河川敷にでっかいセットを建ててやってたんですけど、遠くからロケを見学するファンの方たちの大声援が聞こえていて、僕には『消えろ! やめちまえ! いじめるな!』で……反応がとんでもなかったです(笑)。
でもリアリティーのある芝居をやりたかった僕としては『してやったり』だったんですよ。でもその後、共闘するようになってリュウがどんどんいいやつになっていくと、黄色い声援に変わったんですよね。『リュウく〜ん!』みたいな」
翌年には大ヒットドラマ『GTO』に生徒の依田ケンジ役で出演。当時は段ボール2箱ほどのファンレターが毎日届いていたというから、どれほどの人気だったのかがわかるだろう。
「このころは本当に記憶にないほどアホみたいに頑張ってました。若いパワーで本気でお芝居して、遊んで、やんちゃして、悩んで、みたいな。努力なくして成功はないですけど、さらにそこに嘘みたいな運が味方してくれた。
11歳のときからずっと頑張ってきたことで、宝くじに当たるよりもすごい確率のものをたぐり寄せたのかな、と今になって思いますね」
ところが好事魔多し。あまりに人気が出すぎたことで業界のパワーゲームに巻き込まれ、オーディションに呼ばれなくなったり、無視や衣装を隠されるなどの嫌がらせをされたり、さらにはそのあまりに厳しい状況におそれをなして親しい人が離れていったりなど、いわゆる“干された”状態になったという。そんな苦しい状況を救ってくれたのが「音楽」だった。
「16歳のときに音楽の仕事の話が来て、それまで聴くだけだったので一生懸命ギターを練習して、ボイストレーニングも1年間欠かさずやったりしました。音楽をやってる方たちがすごい優しくて、大人な人たちだったから、そんな状況の中でも頑張れたんです。そのときの恩人が、L⇔Rの黒沢健一さんなんです」
'99年、黒沢のプロデュースによる『あふれる思い』で歌手デビューを果たした徳山が今も音楽活動を大切にしているのは、このときの思いがあるからなのだという。
そしてもうひとつ、徳山を救ってくれたのはファンからの手紙だった。
「3か月先までの仕事が雑誌の連載を書くくらいしかなくて。だけど街を気軽に歩けないほど人気がある。もうホント、意味がわからなかったですね。
インタビューでテレビには出ないのかと聞かれて『出たくないから音楽やってます』とか答えていたんですが、『出られない』が本当で……。
だから頂くファンレターが本当にありがたくて。なのでこれは当時からなんですけど、自分の気持ちを落ち着かせるため、いつもファンレターを持ち歩いているんです。今もバッグに必ず1、2通入れています」
苦しいときを救ってくれた恩返しのため、今も徳山は何よりもファンを大事にしているという。
しかし事務所移籍に伴うゴタゴタに巻き込まれたあげくに冷遇され、完全にやる気を失ってしまった徳山は、本気で役者の仕事を辞めることを考え始める。
運命を変えたオーディション
「おまえにぴったりな役があるんだけど、ちょっと来てくれないか?」
そう言って、苦境にある徳山をオーディションに誘ったのは、'98年公開の映画『F』で出会い、映画『クロスファイア』でも一緒に仕事をした映画監督の金子修介だった。金子監督は「勘弁してください。行きません」とにべもなく断る徳山を「一回だけ。ちょっと顔出してよ」と説得。その熱意に押され、金子が総監督を務めるドラマのオーディション会場へと向かうことになった。時は2005年、徳山は23歳になっていた。
「受かる気も全然なくて、『チーッス』って感じで入っていって、『どうして来てくれたの?』『金子監督にお世話になってるんで、今日ご挨拶に来た次第で』みたいな態度で(笑)。もう役者を辞める気満々ですし、そのことも伝えたんです」
しかしそんな徳山を見て驚いた人がいた。このドラマ『ホーリーランド』の原作者である漫画家の森恒二だった。
「実は、ある有名俳優にほぼ決まっていた役がどうもしっくりこなくて……そうプロデューサーに伝えるとオーディションをやってくれることになり、私も同席させてもらったんです。多くの候補者が来るもなかなか決まらない中、遅刻してきて『すいません』と小声で謝ってダルそうにイスに座った男がいたんですよ。
暗い表情からやる気は感じられなかったんですが、そのとき『彼だ!』と思ったんです。しかもオーディションなのに『通っても通らなくても、役者は無理かなと最近思うことがあって……演じるのは好きだけど、これからは音楽メインでやっていこうかと思ってます』なんて言って、一同ドン引きですよ(笑)。
でもね、それで私はますます気に入りました。陰のある表情、引き締まった緊張感のある身体、何よりその雰囲気……彼のすべてが私の理想の“伊沢マサキ像”でした。なので会議で『彼でお願いできないでしょうか!』と頼んで、皆さんに納得してもらって決まったんです」
徳山が演じた伊沢マサキというキャラクターは複雑な家庭環境で育ち、心の中に弱さを抱え、あることがきっかけで居場所を失い、ケンカに明け暮れるようになった“路上のカリスマ”と呼ばれる男で、やがて主人公の神代ユウを導くという重要な役柄だ。徳山はドラマの制作発表の会見で「女性にも男性にもカリスマのマサキを演じるのは、かなりプレッシャーがありました」と語っていた。
「僕がたまたま小学校でやっていた空手、高校のときのボクシングの経験が役に立って、しかも自分の人生がうまくいかなくて『大人なんてクソ野郎だ!』と思っていたことなんかが、金子監督から言われた『おまえにぴったりな役』だったんだなと。
ドラマの撮影はすごく面白くて、マサキはまるで僕の心の中を表現してるかのように闇が深いキャラクターで、夜の街で暴れまくるんです。そのときのフラストレーションをお芝居にぶつけて、暴れられて、楽しかったなぁ」
ドラマは深夜帯の放送にもかかわらず、アクションや格闘技経験者の若い出演者たちが自ら激しいシーンを演じ、話題を呼んだ。ドラマのアクション監督も務めた森は、撮影現場での徳山の印象を回想する。
「凍えるような寒さの深夜の撮影の待ち時間、俳優たちは焚き火の周りに集まってワイワイ話をしていたんですが、ふと見ると徳山がいないんです。それで辺りを見回すと、焚き火から離れた高架下の支柱にもたれて佇んでいる男が……そこには“伊沢マサキ”がいました。
そのときは声をかけられず、撮影後に尋ねると彼は照れたように笑って『次も大事なシーンだったので解除できなかった。マサキのまま、あそこにいたかったんです』と。優れた役者とはこんなに凄いものなのかと、寒さとは違う震えがきたことを覚えています」
トントン拍子に仕事が舞いこむ
このドラマの放送直後、徳山のもとに出演の依頼が来る。'06年放送の『仮面ライダーカブト』の矢車想(仮面ライダーザビー/キックホッパー)役で、オーディションではなく徳山を指名するオファーだった。またそのつながりで'08年には『炎神戦隊ゴーオンジャー』で須塔大翔(ゴーオンゴールド)役を演じることになるなど、それまでの状況が嘘のようにトントン拍子に仕事が舞い込んだ。
「『ホーリーランド』での僕の演技が鮮烈だったらしくて、それを見てオファーしたと言っていました。だから『ホーリーランド』が音楽に続く第二の“蜘蛛の糸”で、僕の運気がブチ上がるきっかけになったんです。冷たかった事務所の人たちも、見直してくれましたし。一回落ちた人間って、なかなか上には行けないものですけど僕は運が良かったんでしょうね。
もしあのまま波にのまれずに役者をやっていたら、たぶん25歳くらいで調子に乗って、勉強することも忘れて、下手したら人生の終結まで考えちゃうぐらいだったかもしれないなって。伊沢マサキは一回落ちた経験がないとできなかった役でしたから、今考えると必要な挫折だったんだと思います」
楽しいと思えることを信頼できる仲間と
5年ほど前、徳山は突然、耳の不調に悩まされるようになった。
「耳鼻科へ行ったら、すぐ『向こうで検査します』と言われて。そうしたら耳管開放症だと診断されたんです」
耳管開放症は耳と鼻、喉をつなぐ耳管が開きっぱなしになり、耳がふさがった感じになったり、自分の声や呼吸音が響いたりする症状が出るもので、徳山は「舞台に立っていても、急にパッと耳が聞こえなくなっちゃったりして、集中力も保てないから、お芝居ができなくなるんです。もちろん音楽も……」と症状のつらさを吐露する。
それまで健康だった徳山だったが、耳の不調だけでなく突然の大腸の病気で入院、さらに'20年には新型コロナウイルスに罹患し、体外式膜型人工肺「ECMO」を使用する寸前まで症状が悪化してしまった。
その後体調は持ち直し、不調と付き合っていく術を得たものの、コロナ禍で仕事が軒並みキャンセルとなり、すっかりやる気を失ってしまう。
「僕の仕事は『調子のいいときだけ頑張って何かやる』みたいな、そんな都合いいものじゃないので、これはもうダメかな、って……。このときは事務所も辞めて、芸能界とは全然別の仕事を立ち上げようとしていたんです」
それを止めたのが、現在徳山が所属する事務所「H.I.J company」を立ち上げたJayだ。Jayはギタリストで、もともと徳山と同じ事務所に所属していたバンド仲間であり、友人だった。
「せっかくやってきたことなんだから、辞めちゃうのはちょっともったいないんじゃない?と話して、じゃあ一緒にやってみるか、会社をつくるよということになって事務所を立ち上げたんです。
徳山は縛られすぎるのがあんまり好きじゃないので、自然体で、自分たちが楽しいことをやっていこうよ、という方向で始めたんです」
ところが思った以上に事務所の仕事や業務が増え、今ではステージ制作まで手がけるほど忙しくなり、「あれ? 話違うんだけど、って感じになっちゃって」とJayは笑う。
「芝居に秀でてるガチなやつ来い」
10月からは来年9月に再演が決まった『朧本能寺』の出演者オーディションが始まるという。
「年齢、性別、プロアマ問わずで、歌に秀でていたり芝居に秀でてるガチなやつ来い!と思ってます」
自分が若いころに干されて腐ってしまった経験があるからこそ、実力のある人、やる気がある人、一芸に秀でる人に門戸を開き、チャンスを与えて、自分がこれまでに得てきたことを舞台の演出を通して惜しみなく伝えていきたいと徳山は言う。さらに今後は歌手として新作ミニアルバムのリリースやライブ、役者として出演した作品の公開も控えている。
「僕の座右の銘は『文句は偉くなってから言え』なんです。“努力に勝る天才はなし”なんですけど、どんなに努力をしていたって苦労はあるし、自分なんて一生偉くなんてなれないと思ってる。だから文句を言えるような日なんて来ないんだから、イラついても、落ち込んでも、失敗しても、うまくいかなくても、『悩んでる場合じゃないよ』と思い直して、また努力していける。そう考えるようになってから、人のせいにしなくなりましたね」
そんな徳山のことを次姉は、「気に入ったゲームにすぐ飽きたり、習い事も続かなかったノリが、演じることだけはずっと続いている。当初は『すぐ辞めるかな?』と思っていたんですけど(笑)。
でも人生でひとつでも誇れることが見つかったのはすごいことだし、本当に天職なんだと思うんです。だからこれからも頑張っていくと思います」と語る。
オーディションでの出会い以来、今も徳山と親交がある森は「徳山は理不尽な目にさんざん遭ってきたけれど、つぶれなかった。それは彼が唯一無二の存在だからだと思います。彼は美しさを持っていますが、奥行きや重さも持っている。だからこれからも素晴らしいものを残してくれると思いますよ」とエールを送る。
「僕の場合、本気で『辞めよう』と思うと、不思議といい役やいろんなオファーを頂いたり、仲間と出会ったり、楽しいことが起こるんですよ。だから大変なときは『辞めようと思ったら……すごい運、来るかな?』なんて考えたりして(笑)。
でも、もし『もう一回人生やり直せる』となっても、僕は今の自分の人生を選びます。苦労して、とんでもない波乗り人生ですけど、本当にいい仲間に出会えたなって思っているんで」
クールに見られがちな徳山だが、心の中には誰よりも熱い思いと情熱がみなぎっている。
<取材・文/成田 全>
なりた・たもつ 1971年生まれ。イベント制作、雑誌編集、マンガ編集などを経てフリー。幅広い分野を横断する知識をもとに、インタビューや書評を中心に執筆。NHK朝ドラ『おしん』の出演者やファンによるイベント「おしんナイト」実行委員。