
Text by 今川彩香
自身の人生そのものが、インスピレーションの源である——そう語るのは、英国の映画監督、アンドレア・アーノルド。貧困のなかでもがく少女を繰り返し描いてきた彼女自身が、幼少期から貧しさのなかで育った当事者でもある。
映画批評家、常川拓也が映画作品を通して社会を見つめる連載コラム「90分の世界地図」第4回目は、アンドレア・アーノルドの最新作『バード ここから羽ばたく』をピックアップ。スタートから、社会の周縁に追いやられてきた人々に視線を向けてきた本連載。今回は貧困と子ども、そして貧困とクリエイティブ業界というテーマに焦点を当てる。
『バード ここから羽ばたく』の主人公は、英国の不法占拠居住区で暮らす少女だ。本作でも主人公は、アーノルド自身が投影されていると常川は語る。また、映画やテレビ業界のクリエイターは裕福な環境で育った人が多く、アーノルドのような出自から活躍している人はまだまだ少ない。そんななか、経験もふまえながらリアリティを表現する存在の重要性も指摘する。
徹底されたリアリズムに基づいたうえで、自身を主人公に投影する、その創作のあり方が生むものとは? クリエイティブ業界と、経済的な障壁の関係性とは? じっくりと紐解いていく。
現代を代表する女性映画作家——レナ・ダナム(※1)やレア・ミシウス(※2)ら——が、生涯のベスト映画に挙げた作品がある。アンドレア・アーノルドの長編第2作『フィッシュ・タンク』(2009年)だ。同作で描かれるのは、英国の低所得者向け公団住宅に住む15歳の少女。現在公開中のアーノルドによる待望の新作『バード ここから羽ばたく』も、英国の不法占拠居住区で暮らす少女が主人公だ。
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本作の主人公は、12歳の少女ベイリー(ニキヤ・アダムス)。英国ケント州の不法占拠居住区(スクワット)で、自己中心的な若いシングルファーザーのバグ(バリー・コーガン)と、地域の自警団を行う異母兄ハンター(ジェイソン・ブダ)と暮らしている。父は、知り合って間もない恋人との結婚や、ヒキガエルから幻覚剤を抽出するというよくわからないビジネスに夢中。ベイリーは、それに嫌気が差していた。制御不能な家庭から逃れたいと思っていたとき、「バード」と名乗る謎めいた人物(フランツ・ロゴウスキー)に出会う——。
英国映画における社会派リアリズム(※3)の流れを受け継ぐアーノルドは、一貫したテーマを描き続ける。貧困の悪循環に陥る少女が、よりよい人生を夢見るというのはどういうことか。そして、崩壊した生活環境で繰り広げられる家族の不和も、生々しく映し出すのだ。
© 2024 House Bird Limited, Ad Vitam Production, Arte France Cinema, British Broadcasting Corporation, The British Film Institute, Pinky Promise Film Fund II Holdings LLC, FirstGen Content LLC and Bird Film LLC. All rights reserved.
アーノルドが描くテーマは、自身の出自に由来する。英国ケント州に生まれ、公営住宅の団地で育った。母親は労働者階級のシングルマザーで、アーノルドを16歳で出産、22歳までに4人の子を産んだという。幼少期から貧困を目の当たりにしてきた経験は、『第77回アカデミー賞短編実写映画賞』を受賞した『Wasp』(2003年)にも反映されている。劇中では、4人の小さな子を持つ貧しいシングルマザーが描かれる。その家の冷蔵庫に貼られたステッカーは、アーノルドが描き続ける恵まれない女性たちの心情を象徴しているかのようだ。
「バービーになりたい。あのビッチ、何でも持ってんだもん」
そののち、アーノルドは16歳で学校を中退し、17歳でロンドンの名門ダンススクールに入学、18歳で家を出てロンドンでダンス劇団に加わった。ダンスに団地からの現実逃避を求めた彼女の思春期は、『フィッシュ・タンク』で表される。主人公のダンサーを夢見る孤独な少女は、冷淡なシングルマザーの母親と激しく言い争う日常のなかで、パジャマのまま、小さなテレビに映るモデルの真似をして踊っていた。同作は、最も自伝的な映画といえるだろう。
アーノルドは過去に「私は労働者階級の家庭で育ったので、自分の知識について描いていると言えるかもしれません」と述べている。自身を「観察者」であると説明する彼女は、「人生そのもの」を「インスピレーションの源」として映画をつくってきた。
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英国映画界では、1950年代後半から労働者階級の生活に焦点を当てた「ブリティッシュ・ニューウェイヴ」が勃興した。その当時は、上流階級に出自を持つ映画作家の手によって制作されていたが、そののちにケン・ローチ(※1)やマイク・リー(※2)といった、実際に労働者階級の地域で育った作り手が登場し、現在までこのムーブメントの伝統が継承されてきた。
しかし一方で、2024年の調査では、英国の映画やテレビ業界のクリエイターのうち、労働者階級出身は約8%で、60%以上が中上流階級出身だったと報告されている(※3)。英国全体では私立学校に通う子どもは6%ほどであるにもかかわらず、過去10年間の『英国アカデミー賞』ノミネート者のほぼ半数が私立教育を受けた者だった。世界規模で見ても階級主義や縁故主義が未だ根強く、多くの国においてクリエイターには裕福な家庭に生まれた人が多い(映画業界に入る最も一般的なルートのひとつは無給のインターンシップであるため、生活費を稼ぐ必要のある労働者階級の人々には経済的な障壁となっている)。「セルロイドの天井」(※)とも言われるように、歴史的に昇進や機会、賃金格差などの障壁に直面してきた女性クリエイターの場合、一層その傾向は強まるだろう。
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ダンサーとしてテレビの仕事に就き、朝の子ども向けテレビ番組の司会者まで務めたあと、20代後半でロサンゼルスの映画養成機関AFI(アメリカ映画協会)コンサバトリーに通ったことで、門戸を開くことが叶った少し遅咲きのアンドレア・アーノルド。最初の短編『Milk』(1998)を発表したのは37歳のときだった。
実際に労働者階級出身である彼女のような女性映画作家が、人生経験をありのままに語ることは重要だ。彼女の緻密なリアリズムは、労働者階級の人々に言説の場を与えるためにある。貧しい境遇を偶像化することなく、疎外されてきた環境の人々の現実を、容赦なくも、率直に描き出すのである。
ときにその鑑賞は、居心地の悪い体験となるかもしれない。観察型ドキュメンタリーのように、手持ちで同じ目線の高さから撮影された映像は、アーノルドが言うように、「主人公の視点を共有し、観客がつねに彼女たちとともに歩み、彼女たちの目を通して世界を見て、彼女たちと同じように物事を経験」させるからである。
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本作の題名でもある「鳥」は、自由の象徴として表現されてきた(※1)。鳥かごのような閉鎖的な環境に置かれ、「ここではないどこか」を夢見る者たちの渇望——アーノルドは短編『Dog』(2001年)でも、空を飛ぶ鳥たちのイメージを、逃避を望む少女の心情に重ねていた。本作も、空を駆ける鳥の群れを、ベイリーがスマートフォンで撮る姿から始まる。
短編時代から『Dog』や『Wasp(スズメバチ)』と動物の名を題名にしてきたアーノルド。長編に移行しても、『フィッシュ・タンク』では鎖につながれた馬、『アメリカン・ハニー』(2016年)では野生の熊や亀、そしてドキュメンタリー『COW/牛』(2021年)では酪農場の乳牛に密着。『バード ここから羽ばたく』においては、ベイリーがスマートフォンで鳥や蝶、カモメ、馬など、さまざまな生物を撮影する。アーノルドの生態学的視点は、ベイリーのその行動によって強く打ち出される。
特に、孵化する繭や柔らかな羽への観察には、思春期を目前に控えた子どもの「大人になりたい」という願望が反映されているかのよう。また、窓にぶつかるハエは、羽ばたきたいと思いながらも囚われ続けている彼女自身を表しているかのようだ。その撮影した動画をSNSに投稿するのではなく、小型プロジェクターで寝室の壁に投影し空想に耽るベイリー。彼女は、小さなプライベート映画館をつくっているのだ。
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アーノルドは、ベイリーの「内面世界に入り込み、彼女を表現する手段」としてスマートフォンを用いたと説明する。それによって、彼女の世界の見方を観客である私たちと共有していくのである。
一面が荒野に囲まれた北ケントの家で過ごしたアーノルド自身も、幼少期、誰にも付き添われずに「白亜の採石場や野原、森、高速道路などへいつも探検に出かけていた」と述懐するように、気の向くままに自然をひとり歩き回って育った。そして10代になると、遭遇した人との出会いや出来事、周囲の世界への尽きることのない観察記録を日記に書き綴っていたという。それは、自分なりに世界を理解するための観察の手段だったのかもしれない。まるで映画監督のように、美しい瞬間を視覚的に記録するベイリーには、アーノルド自身が重ねられているのだろう。
自身を投影した女性主人公に、プロの俳優ではなく、街で出会った若者を起用するのもアーノルドの特徴である。『フィッシュ・タンク』の主演ケイティ・ジャーヴィスは、駅でボーイフレンドと激しい口論をしているところを発見された。『アメリカン・ハニー』の主演サッシャ・レインは、春休みにビーチで日光浴をしているところをキャスティングされた。本作の主演ニキヤ・アダムスも、地元の学校にいたときに声をかけられたという。
劇中で、彼女たちは若さゆえに軽率な決断を下し、衝動的な選択を取ってしまう。一方でアーノルドのカメラは、決して批判することなく辛抱強くそばで見続ける。「私はつねに誠実で共感的であり続けるよう努めています」と述べるアーノルドの信念は、「長期間観察し続ければ、誰であっても共感できるようになる」ということだ。
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アーノルドは、若い女性が貧困のなかで生きる現実に視線を向け続ける。そのうえで、本作を制作するにあたって「これまで男性らしさというものが何を意味するのかを探求してきた」としている。ヒロインたちの目の前に現れるのは、苦境から救い出してくれる王子様ではない。虐待的な継父であり、軽薄で粗暴なボーイフレンドだ。アーノルドの映画は、少女たちが利己的な男たちと有害な関係を築き、無垢な心に徐々に侵入されていくさまを冷徹に見ている。本作でも、ベイリーは父からネグレクトの状態にあるだけでなく、別居する母親の新しい彼氏から暴力に晒される。
これまでのアーノルドのヒロインたちは、自身よりも大きな力を前にして、誰にも頼ることができずに独力で苦闘した。公的機関に訴えるような選択肢を持つのが簡単ではない人々。今回は、マジックリアリズムを導入することで、現実を超克する新境地に達した。残忍な暴力に対抗できる力として、有害な男性像とは異なる「バード」という形而上学的な存在を、憂鬱な日々を過ごす少女の前に登場させたのだ。
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ベイリーに神のように寄り添い、ともに歩むバード。それは、現在のアーノルド自身なのかもしれない。彼女が本作で試みたのは、困難に立ち向かう恵まれない少女に、善意も見守っているのを示すことだ——劇中の壁や窓にたびたび登場する落書きの「心配しないで」という文字のように。それは、自身の映し鏡の女性たちを描くうえでの、彼女なりの切実な倫理的責務だったのだろう。『バード』あるいは、日本ではこの8月に公開された『愛はステロイド』(2024年)のような、現代の家父長制を打倒しようとする映画は、愛を一種のスーパーパワーとして表現する。
劇中、〈人生はいつもむなしいわけじゃない/過去に囚われるな〉と歌うFontaines D.C. “A Hero’s Death”がベイリーの人生を後押しするように鳴り響く。心の滋養強壮剤となるような映画だと思う。