
連載第70回
サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
チリで行なわれているU−20ワールドカップで日本代表が奮闘。グループリーグを戦った「エスタディオ・ナシオナル」は、後藤氏も過去に訪れたことのある歴史深いスタジアムです。
【日本は3戦全勝でグループリーグ突破】
南米チリで開催されているU−20W杯で日本代表が快進撃を続けている。グループリーグを3戦全勝、しかも無失点で突破。ラウンド16でフランスと対戦することが決まった。
もっとも、世界大会で日本チームがグループリーグを突破するのは珍しいことではない。ただ、どのカテゴリーでも決勝トーナメント初戦が鬼門なのだ。2019年のU−20W杯(ポーランド)でも日本は快調にグループリーグを突破したものの、ラウンド16で韓国に敗れてしまった。
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つまり、今大会もこれからが本当の勝負ということになる。
ところで、僕は今年2月に中国の深圳で行なわれたU−20アジア杯(W杯予選)を観戦に行ったのだが、日本は準決勝敗退に終わった。アジア屈指のパスワークでゲームを支配しながら、それを生かしきれていなかったのだ。「勝負弱い」という印象だった。
だが、それからわずか半年でチームは見違えるように成長した。
組織的な守備とテクニックでボールを握れるのはもちろん、選手たちは試合の流れを読んで戦うことができているし、攻守ともに前を向いて仕掛ける積極性も際立っている。
エジプト戦、チリ戦ともに日本は市原吏音のPKで先制して優位に立つことができた。
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積極的に相手ペナルティーエリア内にボールを入れ、積極的にドリブルで仕掛けていくからこそ、相手のファウルを誘ってPKを獲得できたのだ。
この半年間での成長をもたらしたのは、選手たちの各所属クラブでの経験だろう。
所属リーグはJ1リーグから大学リーグまでさまざまだが(小倉幸成が所属する法政大学は関東大学リーグ2部)、そこでの経験が成長につながった。
日本では若手選手の出場機会が少ないことが問題になっているが、さすがにU−20代表クラスとなれば、出場機会を得られている選手が多い。U−20年代も含めて日本からは数多くの選手が欧州クラブに巣立っていくが、その分さらに若い選手たちに出場機会が与えられるのだ。
たとえば、キャプテンとして守備を統率し、さらに攻撃でも存在感を見せる市原はJ1昇格を目指すRB大宮アルディージャの不動のセンターバックであるばかりか、攻守の中心的存在になっている(日本が快進撃を続ければ市原の帰国が遅くなるので、大宮の関係者は複雑な思いだろう)。
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【チリ最大のスタジアム】
ところで、A組を1位で通過したので、僕はてっきり決勝戦まで首都サンティアゴのエスタディオ・ナシオナル(エジプト戦、チリ戦の会場)で試合ができるのかと思っていたが、どうやらそうではないようだ。A組2位のチームがずっと首都で戦える日程になっていた。どうやら、チリは開幕前から「首位通過は無理」と考えていたようだ......。
正式名称は「エスタディオ・ナシオナル・フリオ・マルティネス・プラダノス」。4万6190人収容の同国最大のスタジアムだ。
「フリオ・マルティネス・プラダノス」というのは2008年に84歳で亡くなったサッカー専門記者の名前である。「ディエゴ・アルマンド・マラドーナ」とか「サンティアゴ・ベルナベウ」といったように過去の名選手や会長の名前がつくスタジアムはたくさんあるが、ジャーナリストの名前を冠しているというのは珍しい。
僕がこのスタジアムを初めて訪れたのは1978年のアルゼンチンW杯を観戦に行く途中にチリに立ち寄った時だった。
当時、日本から南米に行くのは大変だった。
南米までの格安航空券も手に入らなかったので大韓航空の安いチケットで太平洋を渡り、ロサンゼルスで南米までの航空券を買った。まずペルーの首都リマまで行って、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロからロサンゼルスに戻る、いわゆるオープンジョー・チケットだ。
その間、ペルーからボリビア、チリを経てアルゼンチンに入り、W杯終了後はパラグアイ経由でブラジルに行く計画だった。「南米に行く機会など二度とないだろう」と思ったから、なるべく多くの国を見ておきたかったのだ(実際にはその後、南米大陸には10回ほど行くことになったのだが)。
さて、ボリビア観光を楽しんでから同国の最大都市ラパスからチリのサンティアゴを目指したのだが、濃霧のため飛行機はチリ最北端のアントファガスタという銅鉱山の町に着陸。そこで一夜を明かしてからようやくサンティアゴに到着した。
サンティアゴは5月下旬の秋真っ盛り。ペルーやボリビアに比べて白人人口が圧倒的に多いので欧州的な落ち着いた街並みで、街路樹が黄色く色づいて本当にきれいな都市だった。
【1973年のクーデター】
日本の新聞にチリのニュースが載るのは珍しいことだが、1970年代前半には連日のようにチリ発のニュースが報じられていた。
チリは南米では珍しい民主国家だったが、1970年の大統領選挙で左翼「人民連合戦線」のサルバドール・アジェンデが当選して社会主義政権が誕生したのだ。
ソ連(ソビエト連邦)や中国の社会主義政権は革命によって樹立されたものだ。また、東欧諸国は第2次世界大戦後にソ連占領下で無理やり社会主義化された。
つまり、自由選挙の結果として社会主義政権が誕生したのはチリが初めてだった。
アジェンデ大統領は社会主義政策を進め、主要産業である銅鉱山の国有化にも着手した。ところが、銅鉱山に利権を持つ米国がこれに反発。1973年9月に米国の支援を受けたチリ陸軍がクーデターを起こした。
アジェンデ大統領は大統領官邸であるモネダ宮に立て籠り、自ら銃を取って戦って最後は自死する。政権を掌握したアウグスト・ピノチェト陸軍司令官(後に大統領)の独裁政権は左派系市民多数を拘束して「エスタディオ・ナシオナル」に収容。そこで多くの市民や学生が処刑された。
クーデター直後にはこのスタジアムでチリ対ソ連のW杯予選の大陸間プレーオフの第2戦が予定されていた(モスクワでの第1戦はスコアレスドロー)。だが、アジェンデ大統領を支持していたソ連は「血塗られたスタジアム」での試合を拒否して中立地開催を求めたが、FIFAは開催地変更を認めず、ソ連は試合を棄権してチリのW杯出場が決まった。
僕が最初にサンティアゴを訪れたのは、そんな大事件が起こってからまだ5年も経っていない時で、サンティアゴ市内のあちこちに軍事クーデター当時の弾痕が残っていた。
サンティアゴに到着した翌日には「エスタディオ・ナシオナル」で国内リーグの観戦にも行った。ウニベルシダ・カトリカ(カトリック大学)対エベルトンという名門同士の対戦だった(アルゼンチンW杯でチリは予選敗退していたのでW杯直前でもリーグ戦があった)。
市内のニュニョア地区にあるスポーツ公園内にあるエスタディオ・ナシオナル。全面同じ高さの1層式のスタンドが取り囲む長円形の陸上競技場だ。現在の収容力は4万6190人だが、1962年のW杯がチリで開催された時には約8万人以上を収容した。
【スタジアムの最大の魅力は...】
僕にとって1978年のアルゼンチン大会は2度目のW杯観戦で、最初は4年前の西ドイツ大会だった。
そのせいか、「エスタディオ・ナシオナル」に入った瞬間、「4年前に見たベルリンのオリンピアシュタディオンと似てるな」という印象を抱いた。しかし、「どちらもシンプルなデザインなのでこれは偶然の一致なのだろう」とずっと思っていた。
しかし、のちに『世界スタジアム物語』(ミネルヴァ書房)という本を書く時に調べたら、ベルリン五輪直後の1938年に完成したこのスタジアムは本当にベルリンのスタジアムを参考に設計されたということが判明したのでビックリした覚えがある。
ベルリンのスタジアムは2006年W杯開催のためにスタンド全面に屋根が取り付けられてかなり印象が変わっている。「エスタディオ・ナシオナル」にも屋根を取り付ける計画があったようだが、実現はしなかった。
このスタジアムの最大の魅力はバックスタンド後方に雄大なアンデス山脈が望めることなのだから、屋根なんか付けてほしくないものだ。
チリは食べ物も美味しい。
なにしろ4000キロ以上の海岸線を持つだけに海産物が豊富だし、ジャガイモやトウモロコシはアンデス山脈が原産地だから品種が豊富だ。
僕は1990年代から2000年代にかけて、何度もアルゼンチンを訪れた。アルゼンチンでは毎日、安くてうまい牛肉を食べられるのだが、さすがにそれに飽きてくることもある。そんな時には海産物を生かしたチリ料理が食べたくなる。というわけで、ブエノスアイレスには行きつけのチリ・レストランがあったのだが、2011年のコパ・アメリカの時に行ってみたら、店はもうなくなっていた。
チリはワインでも有名なのだが、ワインの話を始めると長くなりそうなのでやめておこう。
「日本代表が、こんなにいい試合をするんだったら、チリに行くべきだったなぁ」と後悔しきりの今日この頃である。
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