
この指針では、芸能事務所が取るべき17の行動指針が示されており、その中でもとりわけ注目を集めたのが、「芸能事務所はタレントの退所後の芸名使用を制限してはならない」という行動指針であり、「合理的な理由なく退所後のタレントの芸名使用を芸能事務所が制限することは、独占禁止法違反となる場合がある」と示されました。
特に、本名を芸名としているような場合において退所後の芸名使用を認めない場合は、独占禁止法上問題となると考えられると、明確に示されました。
思い出す「能年玲奈」→「のん」への改名
実際、公正取引委員会の実態調査では、「退所後の芸名使用について契約書に何も記載がなかったのに、タレントが退所したとき、芸名の変更を事務所から求められた」といった問題事例が複数あったようです。今後、公正取引委員会は、問題事例のような行動を取る芸能事務所には厳しく対処していくとしていますが、タレントの退所後の改名というと、かつて能年玲奈さんが所属事務所を退所した際に、「のん」に改名したことを思い出した人も多くいるのではないでしょうか。
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この改名のいきさつについて、WebやSNS上では、当時の所属事務所が「能年玲奈」を商標登録していたため、「能年玲奈」を芸名として使用するには事務所の許可が必要だったからという話を見かけることがありますが、「能年玲奈」は特許庁データベースで確認する限り、過去も現在も商標登録されていません。
同じような時期に加護亜依さんが芸名を事務所に商標登録されていて、退所後にトラブルになっていたので、その話が混ざってしまったのかもしれませんが、いずれにせよ、「能年玲奈」が商標登録されていたという事実はありません。
では、なぜ「能年玲奈」から「のん」に改名することになったのでしょうか。そして、今回の公正取引委員会の発表を受けて、元の芸名である「能年玲奈」に戻すことはできるのでしょうか。それらを、専門家として芸能関連の契約に20年近く関わってきた経験に基づき、当時の芸能事務所とタレントとの契約内容の実情などを踏まえて解説します。
「能年玲奈」から「のん」に改名したいきさつ
当時の芸名である「能年玲奈」という名前は本名であったにもかかわらず、所属していた事務所を2016年に退所した際、芸名を「のん」に改名することになりましたが、その理由は、おそらく当時の事務所との契約内容にあるのではないかと推察します。
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「双方の合意」ではなく、「双方の協議」というやや曖昧な書き方のようですが、このような文言が契約書に入っていることは、2016年当時はさほど珍しいことではありませんでした。
筆者も専門家として20年近く芸能関連の契約に関わっていますが、このような文言が入っている契約書をこれまで多く見てきました。
具体的には、「事務所の承諾なく、使用していた芸名を退所後に使用してはならない」「芸名に関する権利は全て事務所に帰属するため、退所後の芸名の使用は事務所の承諾を必要とする」などです。
2010年代よりも前には、退所後の芸名使用について記載がない契約書も比較的あったように思われますが、2010年代に入ったあたりから、退所後の芸名使用を制限するような文言が入っている契約書が増えてきたと感じます。
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こうした当時の状況を考えると、「のん」さんが当時事務所と交わしていた契約書に、退所後の芸名使用を制限するような文言があったため、事務所とのトラブルなどを避ける意味でも、「能年玲奈」から「のん」に改名することになったと推測することができます。
退所に伴い改名したタレントはほかにも
ほかにも、退所に伴い芸名を改名したタレントの事例はあります。例えば、2002年「鈴木あみ」から「鈴木亜美」への改名、2022年「岡田健史」から「水上恒司」への改名、2024年「桜庭ななみ」から「宮内ひとみ」への改名などです。これらの改名の理由としても、当時所属していた芸能事務所との契約内容に、退所後の芸名使用を制限する旨の文言があったからという可能性もあります。退所後の芸名使用制限は今後、今回の公正取引委員会の発表に基づき、独占禁止法違反となる可能性があるわけですが、かつては、芸能事務所による退所後の芸名使用制限を認める裁判例(FEST VAINQUEUR事件第一審判決(東京地判令和元年10月9日)など)も存在しているような状況であったため、「確実に違法である」とは言えない状態でした。
そうしたことからも、業界の慣習として、退所後の芸名使用制限が契約書に入っていることが比較的多い状態が、長らく続いていたように見受けます。
しかし、2018年に、タレントの独立・移籍を芸能事務所が妨害するような行為が違法となる可能性がある旨を公正取引委員会が発表したあたりから、風向きが変わり始め、その後、退所後の芸名使用制限が違法であるという判断を下すような裁判例も出てきました。
その代表例の1つが、歌手の愛内里菜さんの裁判です。
愛内里菜さんの裁判の結末
この裁判は、2022年に行われました(東京地判令和4年12月8日)。歌手の愛内里菜さん(本名「垣内里佳子」)のかつての所属事務所(ギザアーティスト)が、愛内里菜さんに対して、退所後の「愛内里菜」の芸名使用をやめるよう求めた裁判です。
愛内里菜さんとギザアーティストが交わしていた契約書には、「契約期間が終了した後も、事務所の承諾なしに芸名を使用してはいけない」という文言があり、その文言に基づき、ギザアーティストは愛内里菜さんを相手に裁判を起こしたわけです。
この裁判ではまず、「愛内里菜さん自身に、芸名についてのパブリシティ権がある」と認定した上で、「契約書に記載の退所後の芸名使用制限は、事務所がタレントの育成のために投じた資本を回収するなどの目的であったとしても、社会的相当性を欠き、公序良俗に反するものとして無効である」と判断されました。
よって、退所後でも、愛内里菜さんが今後、「愛内里菜」の名前で活動をすることについて何ら問題がないという判決となりました。
この愛内里菜さんの裁判以外にも、近年は、契約書に退所後の芸名使用制限規定があっても、そうした規定は無効であるという判決が出ているため、こうした判決が今回の公正取引委員会の発表内容に影響を与えた可能性もあると思われます。
「のん」→「能年玲奈」に戻せるのか
今回の公正取引委員会の発表を受けて、「のん」さんが「能年玲奈」に芸名を戻せるかどうかですが、今回の公正取引委員会の発表では、本名を芸名としているような場合において退所後の芸名使用を認めない場合は独占禁止法上の問題がある、と強く問題視しています。そのため、仮に「のん」さんが本名である「能年玲奈」に芸名を戻した場合に、元の事務所がそれを止めることはできないと思われます。よって、今後、「のん」さんが「能年玲奈」に芸名を戻したとしても、何か問題が生じることはないはずです。
それでは、実際に芸名を戻されるかというと、おそらく戻さないのではないかと筆者は考えます。そもそも先述のような判決が出た時点などで「能年玲奈」に戻すこともできたでしょう。これまで戻せるタイミングがあったにもかかわらず戻さなかったことが、今後も「のん」という芸名を使い続けるということの表れではないでしょうか。
また、「のん」に改名してから、映画『さかなのこ』をはじめ、映画やドラマ、音楽などで素晴らしい作品をたくさん作り上げていますし、かつて「能年玲奈」として活動をしていたことを知らない若い人もいるでしょうから、今から名前を元に戻すというのは考えにくいのです。
<参考>
公正取引委員会「実演家等と芸能事務所、放送事業者等及びレコード会社との取引の適正化に関する指針」
藤枝 秀幸プロフィール
大手IT企業などでSEとしてシステム開発などに従事した後、2009年に「藤枝知財法務事務所」を開業。以降、IT分野やエンタメ分野を中心に契約書業務や知的財産業務を行う。メディアや企業のコンテンツ監修なども手がけている。All About 弁理士ガイド。(文:藤枝 秀幸(弁理士・行政書士))