最高峰RSCレプコ・スーパーカー・チャンピオンシップの殿堂入りも果たしているギャリー・ロジャースが、現地10月22日夜に80歳で逝去 オーストラリアのモータースポーツ界を象徴する存在として、最高峰RSCレプコ・スーパーカー・チャンピオンシップの殿堂入りも果たしているギャリー・ロジャースが、現地10月22日夜に80歳で逝去。シリーズは深い悲しみに暮れるとともに、古豪ギャリー・ロジャース・モータースポーツ(GRM)を率いて人気を博した元チームオーナーに対して、スコット・マクラフランら卒業生たちから哀悼の言葉が寄せられている。
自身もドライバーとして活躍したロジャースは、60年以上にわたりモータースポーツ界に携わり、引退後は1996年から2019年まで自身の名を冠したチームを率いてスーパーカーに参戦。そして2000年には聖典『Bathurst 1000(バサースト1000)』でガース・タンダーとジェイソン・バルグワナが、過酷なコンディションのなか“大番狂せ”の勝利を得た。
彼は多くの若手ドライバーを育成したことでも知られ、タンダー、ジェイミー・ウインカップ、スコット・マクラフランといったドライバーはGRMでデビュー後、それぞれチャンピオンを獲得するドライバーとして羽ばたいた。
シリーズ最高経営責任者(CEO)のジェームズ・ウォーバートンは、その長い声明のなかで「情熱的で忠誠心に満ち、個性的な人物のひとりであったギャリー・ロジャースの逝去を深く悼んでいる」と哀悼の意を表した。
「パドックで最も尊敬され、息の長いチームのひとつを築き上げたことを含め、その功績は計り知れない。2015年のスーパーカー殿堂入りは、彼の長年の功績だけでなく、何世代にもわたるドライバー、チーム、そしてファンに残した揺るぎない足跡を称えるものだ」と記したウォーバートン。
「ギャリーは才能ある若手を発掘し育成することで名を馳せた。ガース・タンダー、ジェイミー・ウインカップ、スコット・マクラフランなど、数多くの選手が彼の指導のもとスーパーカーの道を歩み始めた。彼の潜在能力を見抜く目、若者への信頼、そしてトレードマークである率直なユーモアは、彼をスーパーカー界で最も愛され、尊敬されるチームオーナーにした」
チームは1996年から2013年までホールデンを採用し、その後2014年から2016年まではファンに人気のボルボS60にマシンを切り替えた。現在インディカーのトップランナーであるマクラフランは2013年にチームに加入し、GRMのボルボ・プロジェクトを瞬く間に成功へと導いた。これを契機にDJRチーム・ペンスキーから大型契約のオファーが舞い込み、苦渋の決断の末にシリーズ3連覇と2019年の“聖典”初制覇へと繋げている。
「あなたは本当にタフな人でしたが、僕に自分らしくいること、メディアやファンと円滑に付き合うこと、自分のコントロールできない些細なことに惑わされることなくレースカーをドライブすること、そして決して諦めないことを教えてくれた」と、こちらも想いの込もる長文の追悼コメントを綴ったマクラフラン。
当人は2012年最終戦でステップアップのスーパー2で王座を獲得したわずか数時間後に、体調を崩したアレクサンダー・プレマの代役としてメインカテゴリーに昇格。デビュー翌年にはフルタイムのシートを獲得し、地元プケコヘですぐに優勝を果たした。チームがボルボにスイッチした後も残留し、わずか2戦目のアデレードでは歴史に残る激戦を制してウインカップを撃破した。
こうして2013年から2016年にかけて、マクラフランはGRMで8勝、17回のポールポジション、26回の表彰台を獲得。DJRチーム・ペンスキーへの移籍は賛否両論を巻き起こしたが、ロジャースのマクラフランへの信頼は揺るがなかった。
「ペンスキーに移籍するためチームを去ったときのことを覚えている。あなたはいつも僕に温かい言葉を掛けてくれ、僕が必要なときにいつでも連絡を取り、的確なメッセージを送ってくれた。定期的に連絡を取り合っていたし、そのことには今でも感謝している」と続けたマクラフラン。
「ギャリー・ロジャースがいなければ、今の僕はいない。彼は僕や多くの人に、良いときも悪いときも成功するチャンスを与えてくれた。彼はジェムソン(アイリッシュ・ウイスキー)が大好きだった。今日はあなたのために2杯用意しておこう。寂しくなるだろうけど、きっとあなたはこう言うだろう。『スコッティ、甘ったるいことはやめて、ちゃんと仕事に取り組め』って。また会える日まで。一緒に美味い飯とビールを飲もう。チーフ・ブロー、安らかに眠ってください」
[オートスポーツweb 2025年10月24日]