2人で146歳のお笑いコンビ『ザ・ぼんち』が語る、人生が激変した“一夜”と決して偉ぶらない理由

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2025年11月03日 16:00  週刊女性PRIME

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ザ・ぼんち 撮影/佐藤靖彦

 それまでのお笑いのスタイルを破り、'80年代に起こった漫才ブームで一躍スターになったふたり。酸いも甘いも噛み分けてきたコンビが、まだ新しいことに挑戦し続けるその理由とは―。

日本一忙しい73歳

 灼熱の太陽が照りつける、8月下旬の日曜日。JR新宿駅に直結するファッションビルは、涼を求める買い物客でにぎわっていた。

 最上階の7階フロアを占めるお笑い劇場「ルミネtheよしもと」の客席も、子どもから大人まで幅広い年齢層の客で埋めつくされている。座席数およそ500の劇場は、客席とステージの距離が近く、臨場感たっぷりだ。

「名前だけでも覚えて帰ってくださいねー」

「ほんとに覚えてるか、あとでもっかい聞きますよー!」

 開演前、新人コンビが“前説”として登場し、場内の雰囲気を徐々に温めていく。この日の出演者は8組。テレビでもおなじみのアインシュタイン、レイザーラモン、M-1王者の笑い飯など、豪華な顔ぶれだ。一組の持ち時間はおよそ10分。

 客席との掛け合いで場内を盛り上げたり、巧みなしゃべくり漫才を披露したりと、それぞれが個性あふれるパフォーマンスで劇場を笑いの渦に包む。

 そしてラストの8組目─。“トリ”を務めるザ・ぼんちの出囃子『恋のぼんちシート』が鳴り響くと、観客からひときわ大きな歓声が上がった。

 芸歴54年。ボケのぼんちおさむと、ツッコミの里見まさとは共に1952年生まれで、今年73歳を迎える。6000人以上の芸人が所属する吉本興業で、トップに君臨するレジェンドの中の一組だ。

 “トリ”の持ち時間は、ほかの出演者たちより5分長い15分。おなじみの「お、お、おさむちゃんでーす!」の挨拶から、観客は笑いっぱなし。

「気をつけー! 小さく前ならえ!」

「メッシ、メッシ、おかずも食べなさーい!」

「かわいいだけじゃ、ダメかしら♪」

 突拍子なく次々と飛び出すおさむのボケに、爆笑のあまり天を仰ぐ客。

「……きみ、大丈夫か」

 と冷静にいさめるまさとのツッコミが、また新たな笑いを生む。師匠クラスの大ベテランなのに、なんだかかわいくて、カッコよくて、その上おしゃれで、なんといっても華がある。トリにふさわしい爆笑をさらい、ステージを後にした。

「まだまだ今日は始まったばっかり。あと2ステ(ージ)ありますから」と、楽屋でコーヒーを片手に、しばしの休息をとるふたり。

 この日の『ルミネ』は入れ替え制で3回公演。ザ・ぼんちはそのすべてでトリを務めた。

昨日は大宮、おとといは幕張と、3日連続で劇場出演です。今日終わったらやっと、大阪に帰れます」(まさと)

昨日、金属バットの友保さんに“おじいちゃんやのに無理せんとき”って言われましたよ(笑)」(おさむ)

 日本一忙しい73歳、といっても過言ではないだろう。'80年代の漫才ブームを牽引し、一世を風靡したザ・ぼんちがおよそ40年ぶりにセカンドブレイクを果たし、テレビに舞台にひっぱりだこだ。

 きっかけは、今年5月に開催された『THE SECOND』(フジテレビ系)。結成16年以上の漫才師に限った賞レースに、ザ・ぼんちは30〜40代のコンビにまざり予選から参加。

ベテラン風を吹かしたら自分たちが終わる

 後輩たちにまったくひけをとらない……どころか、かつての活躍ぶりを凌駕するキレキレの漫才を披露。観客席からはどよめきも巻き起こった。決勝トーナメントでは金属バットに惜しくも2点差で敗れたものの、会場を大いに沸かせた。

大変な反響でした。終わったあと、西川きよしさんや、鶴瓶さんや、いろんな方から電話もらってね。洋七(B&B)は、“あの'80年代の漫才ブームのすごさ、改めてみんなに伝わったと思う、ありがとう”と泣いてました。またまた、嘘の涙やろ! と電話越しにツッコんだけど(笑)、僕も涙が出たね」(まさと)

 ふたりが何よりうれしかったのは、それまでザ・ぼんちを知らなかった10〜20代の若者たちからも、「笑いすぎて腹ちぎれた」「ザ・ぼんちってこんなに面白かったんだ」など、SNSで称賛の声が相次いだことだ。

出場にあたっては、周りから心配もされました。でも、劇場で後輩たちが頑張る姿に刺激をもらってね。僕らも挑戦しなきゃ、と」(まさと)

ベテラン風吹かして、ふんぞり返ってなんていられません。それをしたら、そこで自分たちが終わってしまいますから」(おさむ)

 レジェンドと呼ばれる存在でありながら、まったく偉ぶらず、舞台を降りると孫ほども年の離れた後輩芸人やスタッフにも気さくに接する。

 今も若手らと全国の劇場を回り、ひたむきに芸に邁進するその姿勢は、決して順風満帆ではなかったこれまでの芸人人生から生まれたものだ。

 同い年のふたりは、大阪・天王寺の興國高校の同級生。ただ、在学中は顔見知り程度だったという。

僕は野球部で、野球漬けの日々でした」(まさと)

 一方、おさむはこのころからコメディアンへの憧れを持っていた。

アメリカのボードビリアンが好きでね。コンビを組むなら、映画『底抜けシリーズ』のジェリー・ルイスとディーン・マーティンの底抜けコンビのようになりたかった。もちろん、三枚目のジェリーが僕ね。相方はディーンのような男前がいいな、と。相棒(まさとのこと)はイメージに近いでしょ」(おさむ)

 まさとは偶然目にした雑誌で「20歳で家を建てた」と話す西川きよしの記事を読み、“えぇなぁ”と、いささかよこしまな動機で芸人を目指すことに。卒業後間もなく、タイヘイトリオに弟子入りした。

 師匠の荷物持ち、身の回りの世話などの修業生活を送りながら1年が過ぎたころ、週に1度通っていた漫才師養成所で偶然、おさむと再会する。

同級生だし、まぁいいかと、あまり深く考えずにコンビを組んだんです」(まさと)

 こうして、'72年10月にザ・ぼんちを結成。当時、吉本の先輩では横山やすし・西川きよし、今いくよ・くるよなどが活躍しており、同期にはB&Bがいた。ふたりは結成から半年足らずで、なんば花月にて初舞台を踏んだ。

出番が1回でも3回でも1日のギャラが500円

あのころは芸人が少なかったから、舞台の仕事だけはありました。今の若手は大変ですよ、出演枠の取り合いやもん。だけど当時は、出番が1回でも3回でも1日のギャラが500円(笑)。それだけじゃ食べていけないから、スナックでバイトして」(おさむ)

僕は夜8時から午前2時まで、サウナでお客さんの案内やタオル交換のバイトをやってました」(まさと)

 '76年には『NHK上方漫才コンテスト』で優秀敢闘賞を受賞。一見すると順調のようだが、仕事は相変わらず劇場中心。テレビにはなかなか出られなかった。

 そんなとき、桂三枝(現・六代文枝)や桂文珍が出演し、大阪で話題となっていたお笑い番組『ヤングおー!おー!』(毎日放送)からお呼びがかかる。

 若手中心のユニットグループを売り出すことになり、そのメンバーに、紳助・竜介、西川のりお・上方よしおとともに、ザ・ぼんちも選ばれた。

 まさとが忘れられないのは、このときの三枝の言葉。まさとと竜介、上方よしおのツッコミ3人を呼び出し、

売れたいならボケ、つまり君らの相方を目立たせなあかん。そのツッコミは僕がやるから君らは死んどきなさい

 と、直言したというのだ。

三枝さんのツッコミは、そりゃピカイチでしたから、僕らは何も言えません。売れてる人はきちんと考えてはんのや、やっぱり違う、と思わされましたね」(まさと)

でもね、この番組ではすでに三枝さんとさんまちゃんが大人気やったから。結局、ユニットも大して話題にはならなかったんです」(おさむ)

 テレビの仕事は少しずつ入るようになったが、どうにも殻を破り切れない……。加えて、このころの上方演芸界は、やや盛り上がりに欠け、停滞ムードが漂っていた。

スーパーの店頭で営業をやっても、客が全然集まらない。川中美幸ちゃんがまだ売れてないとき、よく一緒に営業をやりましたよ」(まさと)

 吹田市出身の川中美幸は、当時“春日はるみ”という芸名で活動していた。突然の呼び出しにもすぐ駆けつけてくれることから“困ったときのはるみちゃん”と重宝がられていたという。

スーパーで、一緒にミカン箱の上で営業してた美幸ちゃんが立派な歌手になったのがうれしくてね。浅草の大きな会場で歌う姿を見たとき、涙が出ました」(おさむ)

 そんな不遇の時代、ふたりの支えになったのが「笑(しょう)の会」だった。

事務所の垣根を越えて、漫才を勉強する会です。吉本を辞めて東京に拠点を移していたB&Bや、吉本からはオール阪神・巨人も参加してました」(おさむ)

 会長は、エンタツ・アチャコの漫才作家でもあった秋田實氏。「上方お笑い大賞」を立ち上げた読売テレビの有川寛氏や、『11PM』(日本テレビ・読売テレビ)の司会を務めていた放送作家の藤本義一氏らがまとめ役となり、若い漫才師や漫才作家らの育成にあたった。

 この会が、思いがけずのちの転機につながることになる。藤本氏が「大阪の若い漫才を東京の人たちに見てもらおう」と、新宿紀伊國屋ホールでの公演を企画。ザ・ぼんちも参加することになった。

事務所は関係ないイベントですから、新幹線代は自腹。会場前で、ぜひ見に来てくださーい!と、道行く人にチラシを配りました」(おさむ)

 実はこのときの客席には、のちに伝説的なお笑い番組『THE MANZAI』を手がけることになるフジテレビの横澤彪氏をはじめ、TBS、日本テレビなど在京キー局の演芸担当プロデューサーがズラリと顔をそろえていた。

漫才ブーム前夜

 そんなこととはつゆ知らず、ふたりは大阪の劇場でも客からの反応がよかった、自信のあったネタを精いっぱい披露した。

仲が良かったB&Bも、東京で頑張ってる。僕らも負けてられない! という気持ちでしたね」(まさと)

 帰阪してしばらくたったころ、東京でも活躍している先輩芸人たちから、劇場で声をかけられることが増えていった。

「おまえらのこと、フジテレビの横澤さんが褒めてはったで」

「TBSの桂(邦彦)さんがな、おまえらの話しとったぞ」

 ふたりにしてみれば、寝耳に水。「その人ら、誰?」とポカンとするしかなかった。

あとからわかったことだけど、東京のテレビ局の人たちが新宿で僕らの漫才を見て、“コイツらはいつか使えそうだ”と感じてくれたようなんです」(まさと)

 漫才ブーム前夜。笑いの本場・大阪ではなく東京を中心に、少しずつ時代が動き始めていた。

 チャンスは突然やってきた。フジテレビの横澤プロデューサーが企画する、まったく新しい漫才番組の制作が決まり、東京で人気が出始めていたツービート、B&Bらとともにザ・ぼんちもその収録に呼ばれたのだ。

スタジオに入ってびっくりしましたよ。英語で“MANZAI”と描かれた大きな電飾が輝いていて、小林克也さんがDJのように僕ら漫才師を紹介してくれる。とにかくおしゃれでね。見たことがない演出でした」(まさと)

 きらびやかなステージに、粋なアイビールックでキメたふたりはよく映えた。

「僕は昔から洋服が好きだから、相方にお願いして衣装は好きなように決めさせてもらってたんです。ジャケットはおそろいの『VAN』のニューポートブレザー。僕は蝶ネクタイだけど、アイビールックにはやっぱりストライプのネクタイが合うから相方につけてもらって。足元はバッシュでね」(おさむ)

 古めかしい演芸のイメージを一掃し、漫才をポップで新しいものに変えた『THE MANZAI』。横澤プロデューサーは出演者の選定にあたり、知名度よりもコンビの新鮮さや、ネタのスピード感を重視した。

 東京ではほぼ無名のザ・ぼんちを起用した理由のひとつに、新宿の公演での強烈な印象もあっただろう。第1回の放送は'80年4月1日。視聴率は15.3%と、予想をはるかに上回った。

スタッフが運転するバイクの後ろに乗ってテレビ局を行き来

翌日は、長崎大学の学園祭の仕事でした。飛行機の中で相方と並んで座ってたら、CAさんが“サインをください!”と。有名人でも乗ってるのかな?と思ったら、まさか僕たちにサインを頼んでるなんて。前日のオンエアで、僕らを見たと言うんです。びっくりでしたよ」(まさと)

 長崎大学では思ってもいなかったほどの観客が大挙して詰めかけ、実行委員会の学生らが右往左往していた。

放送を見た人らがステージに押し寄せて、“昨日のテレビのネタやってー!”と叫ぶんです」(おさむ)

僕らが番組でネタをやった、その数分を境にして人生が動き始めた。“たった8分の奇跡”です」(まさと)

 運命は一夜にして変わった。1回限りの特番の予定だった同番組は、好評を受けシリーズ化されることに。視聴率は右肩上がりで、年末には30%を超えた。このほかにも

 『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ系)、『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ系)などのお笑い番組が次々に成功、若者の間で熱狂的な盛り上がりを見せる。テレビが時代の中心だった'80年代初頭、爆発的な漫才ブームの到来だ。

どこに行ってもお客さんでいっぱい。それまではずっと、地方の営業では一部が漫才、メインの二部が歌謡ショーでした。それが、ザ・ぼんちを二部にしてほしいと言われるようになったんです。ぼんちが先だと、お客さんが二部を見ずに帰ってしまうから困る、と」(おさむ)

 イケイケドンドンの昭和のテレビ業界、ダブルどころかトリプルブッキングも当たり前。スケジュールは分刻みで、渋滞を避けるためにスタッフが運転するバイクの後ろに乗ってテレビ局を行き来した

 山梨と静岡で同日に4ステージをこなすため、ヘリで移動したこともある。レコード『恋のぼんちシート』のヒットも、人気に拍車をかけた。

歌番組に出ると、女の子たちがたのきんトリオにキャーキャー言うのと同じように、僕らにも大声援を送ってくれるんです」(おさむ)

 この当時、ふたりは不遇の時代を支えてくれた女性とそれぞれ結婚していたが、アイドル的人気は変わらず。レコードは80万枚を売り上げ、'81年の7月には、武道館で単独ライブを開催。漫才師としてはもちろん初。チケットは完売、大入り満員だった。

でも、決して天狗にはならなかったね。蝶よ花よと、もてはやしてくれるのは東京のスタッフだけですから」(まさと)

「大阪の劇場では、ベテランの先輩方から“おまえら偉うなったなぁ”“なんや楽屋で寝るんかいな!”って、さんざんイヤミを言われてましたよ(笑)」(おさむ)

 売れたことを心から実感できたのは、やはりホームである大阪なんばの劇場だった。

僕ら漫才師は、やっぱり劇場でトリを取りたいんです。それまでは、トリは三枝さんかやすきよさんで、代演もお互いが務めると決まってた。でも僕らがやすきよさんの代わりをやらせてもらえるようになってね。おそれ多いけど、うれしかったなぁ」(おさむ)

 社会現象にまでなった漫才ブーム。ただ、打ち上げ花火のようなお祭り騒ぎは静まりゆくのもあっという間だった。

『THE MANZAI』をはじめとする人気番組が視聴率低迷とともに次々と終了するなか、台頭したのは『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)。

今でも会社を恨んでますよ」

 台本があるようでないような即興性、出演者同士のフリートークなど目新しい演出が新世代にウケ、その後10年以上にわたり“土曜8時”枠でトップの視聴率を誇るお化け番組となる。ビートたけし、明石家さんま、島田紳助など多くのスターを生んだ。

僕らも最初から『ひょうきん族』に参加したかった。そのことについては今でも会社を恨んでますよ」(おさむ)

 当時、ザ・ぼんちは裏番組の司会を務めていた。日本テレビのプロデューサーから出演を切望され、吉本側が断り切れなかったという。

 結局この番組は数か月で終了し、しばらくしておさむだけが『ひょうきん族』に合流。しかしそれまでにはかなりの時間がかかり、合流後も“サブメンバー”感はぬぐえなかった。

そんなとき、うめだ花月の舞台に立ったら、前列の母娘のお客さんが“この人ら、すごかったねぇ”って過去形で言ってるのが聞こえてね。漫才ブームの終焉はとっくに感じてたけど、このひと言は決定的でした」(まさと)

 B&B、紳助・竜介、西川のりお・上方よしおなど、漫才ブームを共に駆け抜けてきた仲間たちはすでに解散していた。

 まさとは、この舞台のあとすぐにおさむを劇場下の喫茶店に誘う。お互いに燃え尽き症候群であることはわかっていた。「しばらく休もうか」との提案を、相方も承諾した。

このころ、後輩からも言われてました。“兄さん、客に全部見せすぎやねん。また見たいと思わせな飽きられるよ”って。でも目の前にお客さんがおったら、つい全力でやってしまう。僕は出し惜しみできないんです」(おさむ)

 '86年3月、13年続いたコンビは解散。このとき、ふたりはまだ33歳。そこからピンの活動が始まった。

 解散前から少しずつ役者の仕事を始めていたおさむは、連続ドラマ『はぐれ刑事純情派』(テレビ朝日系)の巡査役としてレギュラー出演が決まる。

 一方、まさとは窮地に陥った。仕事は月に数回。全盛期に数百万円だった月収は、10万円足らずまで落ち込んだ。その状態が3年続いたという。

当時、子ども2人はまだ小さくて。そりゃあキツかったけど、嫁は文句ひとつ言いませんでしたよ」(まさと)

 どん底の中、天の助けとばかりに昼のワイドショーの仕事が舞い込む。15分間のコーナーの司会に、当時20歳そこそこだったお笑いタレントの亀山房代さんとともに起用されたのだ。

客席からはクスリとも笑いが起きなかった

 この出会いがきっかけとなり、その後ふたりは漫才コンビを組むことになる。

本気でやるなら、彼氏と結婚はしてもいいけど3年間は子どもをつくらないでほしい、とカメ(亀山さん)に頼みました。コンビが形になるまでには何年もかかりますから」(まさと)

 ザ・ぼんち解散以来、3年半ぶりに漫才師としてうめだ花月の舞台に立った。少しはウケるだろうという予想に反し、客席からはクスリとも笑いが起きなかったという。

そこからはひたすら、稽古の日々です」(まさと)

 稽古場所の確保すら難しく、自宅で朝から夕方まで7時間の稽古を繰り返す毎日。亀山氏はまさとの家族ともすっかり仲良くなった。

 「おさむがいなきゃダメだね」と思われたくないという意地と、後輩の亀山さんを一人前の漫才師にしてあげたいという思いのみが、まさとを支えた。

やっぱり、稽古は嘘をつかないね。2年を過ぎたころからお客さんの反応がよくなり、漫才の仕事も少しずつ増えていったんです」(まさと)

 正月など、大事な舞台にも呼ばれるようになった。「何があっても3年は辞めない」と決めていたその期限が、とうに過ぎた6年目の'95年、なんとふたりは上方漫才大賞奨励賞を受賞する。

 このときのことを、まさとは著書『おおきに漫才!』(ヨシモトブックス)でこう記している。

《みんなから反対されたコンビやったけど、間違いやなかたんや、そう思うと涙があふれてきた。過去を含めて、一番嬉しい賞だった。これから先にどんな賞を頂くかはわからないが、この喜びを超えることはないと思う》

 その後、亀山さんの妊娠により12年続いたコンビは円満解散。最後の舞台が終わったその日に、まさとは事務所からザ・ぼんち復活を提案される。

再結成とはいえ、16年ぶり。またイチから漫才をやることがどんなに大変か。相方には僕ひとりで話をしに行こうと思いました」(まさと)

 おさむの自宅では、奥さんが手料理を作って待ってくれていた。

やりたい気持ちはあっても、漫才ってそんな簡単なものじゃないのはわかってるから。すぐに、うんとは言えませんでしたね」(おさむ)

 結論が出ないまま、おさむの自宅を後にするまさと。そのとき、外まで見送りに来た奥さんが泣きながら声をかけてくれた。

おさむは照れ屋だからあんな言い方しかできないんです。おさむにはまさとさんが必要です。もう一度ふたりで漫才をやってください……

 お互いの家族の思いも背負い、ふたりは50歳を迎える年に再結成を決意。ザ・ぼんちのセカンドステージが幕を開ける。話題性は十分。仕事には困らなかった。

会社も、再結成やし、なんとかなると思ってたんでしょうね、でも、そう簡単じゃない。昔の漫才を少し変えてみたり、新しいことを取り入れたり、いろいろ試すけどどうもうまくいかなかった」(まさと) 

 当時のことを、50年来の盟友で、共に漫才ブームの立役者だったB&Bの島田洋七はこう証言する。

芸は自分のものだから」

「ずいぶん悩んでたよ。特にまさとは、ものすごいまじめやからね(笑)。昔のスタイルをどうにか変えようとしているように俺には見えたの。だから、元のままでええやん、無理に変えんでええやん、って言ったんよ。

 だって、ザ・ぼんちってすごい個性を持ってるでしょ。昔と同じことやってる、って言う人もおるかもわからん。でも人は関係ないよ。芸は自分のものだから

 迷っていた時期にたまたまついた、20代の女性マネージャーの存在も大きかった。ザ・ぼんちのふたりとは父娘ほども年の差があるが、まったく臆せず「とにかく稽古です。

 月曜と木曜、13時から15時まで。会議室借りますから必ずやってください」と、ふたりの尻を叩いたのだ。

舞台でしくじると、バシッと言ってくれるのもありがたかった。周りから、また兄さん怒られてるやん、なんて言われてね(笑)」(おさむ)

彼女との出会いには本当に感謝してますよ」(まさと)

 稽古を続けるうち、50代のザ・ぼんちらしいスタイルができあがってきた。

ただ笑いをとればいいわけじゃないんです。僕は昔から、漫才には品はもちろん、優しさとか可愛げとか、そういうものがなきゃダメだと思ってる。そこだけはずっと変わりません」(まさと)

やっぱりあったかい漫才が好きですね。他人をクサすのではなく、自分を悪く言って相棒にツッコんでもらうほうがずっといい」(おさむ)

 まさとはこのころ、元相方の亀山さんの突然の死というつらい出来事に直面する。悲しみを乗り越え、'12年にはなんばグランド花月での還暦ライブを大成功させた。そして気づけばいつの間にか、再結成後の歴史のほうが長くなっていた─。

おかげさまでいろんな劇場に出させてもらって。そこで若い後輩らの漫才を見ているうち、僕らも新しい挑戦をしたくなったんです」(まさと)

 70歳を過ぎての『THE SECOND』への参戦。初エントリーの昨年度は、惜しくも決勝進出には至らなかった。今年度の予選(ノックアウトステージ16→8)の対戦相手はくしくも、昨年勝ちを譲ったハンジロウ。

 このとき、大きなハプニングが起こる。MCのノンスタイル・石田明や、ほかの出演者らを感嘆させる圧巻の漫才を披露したにもかかわらず、ネタ時間が既定の6分を超え、減点されてしまったのだ。

 しかし、ハンジロウにもともと大きな点差でリードしていたため、結局勝ち進んだのはザ・ぼんちだった。それで結果オーライでもいいはずだが、まさとは違った。

減点の原因は僕の進行ミスでもある。悔しいし、相方にも申し訳ないし、帰りに品川駅のトイレで泣きました

 勝利の喜びより、ルール内でネタができなかった歯がゆさのほうが強かったというのだ。どれだけの覚悟を持ってふたりがこの大会に臨んだか、その意気込みがわかるだろう。

 5年前からザ・ぼんちのマネージャーを務める竹内碩秀さんは、ふたりのことを「とにかく漫才への情熱や向上心に満ちあふれている」と語る。

台本を担当しているまさとさんはコントや落語も勉強されていて、参考になると思えば後輩芸人の公演もこっそり見に行くほど。何よりおふたりとも、若手の意見も素直に吸収するし、決して否定から入らないんです。ベテランでありながら進化し続ける理由が、そこにあると思います

 その後の決勝大会での活躍と反響は、冒頭でも述べたとおり。B&Bの島田洋七は、テレビでその様子を見ていた。

子どもも若い人もお年寄りもみんなが笑える、それがふたりの強みだと改めて思ったね。今の若い漫才師たち、賢くてすごいなぁと思うけど、ネタが難しすぎて笑いが起こるまでに一瞬考えさせられたりするでしょ。それに、ザ・ぼんちほどの個性がない。ふたりの漫才は、今の若い人にはむしろ新鮮でしょうね

 現在は、55周年記念の単独ライブに向けて準備を重ねる日々。年明けには初の台湾単独公演も控えている。

目標はもっと先にあるんです。その光を追っていかないと

 と、それまでの柔和な表情を一変させたおさむ。なんとこのふたり、44年前に獲った上方漫才大賞をもう一度狙うつもりなのだ。

「もちろん、獲ろうと思って獲れるような賞じゃない。でもこの勢いのまま、来年も突っ走ります

 と意気込むまさとの目も、いたって本気だ。

大先輩の夢路いとし・喜味こいし先生も、年齢を重ねても新ネタをやってました。それを見てきたから、僕らも頑張らなと思えるんです。後輩たちに偉そうにアドバイスできることなんて何もないけど、われわれの背中を見て何かを感じてくれたら、それだけでありがたいですね」(おさむ)

 決して守りに入ることなく、挑戦し続ける者こそが真のレジェンド─。ふたりの生き方が、それを教えてくれる。

取材・文/植木淳子

うえき・じゅんこ ライター、編集者。大学卒業後、出版社にて女性週刊誌、男性週刊誌、総合誌などの編集者を経てフリーランスに。人物インタビュー、ライフスタイルやエンタメ、子育て・教育情報などの取材・執筆を手がける。

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