「息子と一緒にもっと家族写真を撮っておけばよかった」ある母親の心残りが“絆画”作家・大村さんの誕生のきっかけに

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2025年11月16日 11:10  web女性自身

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「この『絆画(きずなえ)』を描くようになって、僕自身もずいぶんと変わったように思います」



画用紙に向かい黙々と彩色をしていた男性は、ふと手を止め絵筆を置くと、こちらに向き直るようにしてこう話した。



愛知県名古屋市。パソコンや画材が置かれた、こぢんまりとしたアトリエ。その壁には家族の肖像だろうか、色鮮やかな優しい雰囲気の絵が飾られている。



大村順さん(40)は、自らを「絆画作家」と名乗っている。だが、そもそも「絆画」とはどのようなものか。彼のホームページには、こんな説明文が掲載されている。



〈絆画とは自死・病気・事故・死産などで大切な方を亡くされたご遺族のもとにお伺いして「もう一度あの人に会えるなら」という願いを1枚の絵で叶える活動です〉



加えて、大村さんは「亡くなった人が『いま生きていたらこうなっていたかもしれない』という姿を、ご遺族から聞いたお話をもとに描いています」とも話す。



そう、大村さんはもっぱら、亡き人の“いま”を描く画家だ。



もともとは、売れっ子の似顔絵師だった。延べ15万人もの似顔絵を描いてきた。その彼が、なにゆえ遺族のために、故人の絵ばかりを描くようになったのか。そして絆画は、大切な人を亡くした人たちにとって、どんな意味を持つものなのか。



プライベートでは2017年に結婚。現在はアトリエの階上の自宅で妻・仁望さん(33)、長女(5)、次女(3)とともに4人で暮らしている大村さん。絆画についてさらに質問すると、壁に掛けられた絵を眺めながら、こんなふうに話し始めた。



「僕もこうやって、自分で描いたこの絵を毎日、目にすることで、『これが、自分の家族なんだな』と改めて思えるんですよね」



視線のその先にあった絵には、大村さんによく似たメガネの男性と仁望さんらしき女性、そして2人の女の子、さらに、なぜかもう1人、男の子の姿が描かれていた。



じつは、絆画を描く彼自身も、いまは亡き大切な人と、絵を通じて繋がりを持ち続ける一人だ。



「決して現実ではないんですけど、絵を見るたび『みんな一緒にここにいるんだ』って、自分のなかの欠落感が埋まるような、満たされた気持ちになれるんです」



まるで、絵のなかの誰かに語りかけているような柔らかな笑みを浮かべながら、大村さんは家族5人の「絆画」を眺めていた。





■1日に100人近くの似顔絵を描いていた。お金のことばかり考えるサイテーな人間に



大村さんは1985年、愛知県知多郡に生まれた。病弱で休みがちだったせいか、保育園に友達は少なかった。小学校では「軽いいじめにもあった」と話す。



「だから、級友と遊ぶよりも『一人で遊んでたほうが楽しいや』と。それで“絵だけが友達”って子になりました。算数や国語など、どの教科も集中力がまるで続かないのに、絵だけは没頭できた。これはもう絵描きになるしかないと、早々に勉強には見切りをつけました(笑)。小学校の卒業文集にも『絵描きになりたい』と書いてました」



中学、高校ではバスケ部に所属。見違えるほど健康になったが、それでも絵はやめなかった。「早く絵の仕事に就きたい」と、大村さんは、高校を卒業した2003年、イベント会社に似顔絵師として就職した。



「似顔絵なんて描いたことなかったので。本来なら、まずは修業なんですが。当時は需要に供給が追いつかないほど似顔絵人気が高く、入社早々現場に放り込まれました。どこかのショッピングセンターだったと思いますが、もう最初から“入れ食い”状態。



どんなに絵が下手でも、僕みたいな新人でも『似顔絵いかがですか〜?』と声をかけると、すぐにお客がつくんです、それも次から次へと」



多いときには、1日に100人近くの似顔絵を描くこともあった。



「当時は結婚式場でも似顔絵の仕事があって。『新郎新婦様からの引き出物として、皆さんの似顔絵を描きます』って感じで。披露宴会場で参列客を片っ端から、1人2〜3分というごく短時間で描くんです。いま振り返ると、かなりむちゃくちゃですけど。それを1日3回転とかやってましたね」



似顔絵師としてデビューした当初は、好きな絵の仕事に就けたこと、夢が叶ったことが、このうえなくうれしかった。しかし、そんなときめく思いは長続きしなかった。



「苦労もせず、1日10万円とか、簡単に売り上げることができて、それが毎日のように続くんです。とくに愛知万博(愛・地球博)のころがピークでした。



僕、万博の瀬戸会場で、ずっと似顔絵を描いていたんですが、最低でも1日10万円、調子がいいと15万円にもなった。全部が自分の収入になるわけではありませんが、ボーナスには反映される。気づけば絵が描けて楽しいという気持ちより、今日はいくら稼いだとか、お金のことばかり考えるようになって」



バブルがはじけ、長く不況が続く日本で、20歳の大村さんは“似顔絵バブル”を目いっぱい、享受した。



「大金を稼ぎ、使うっていうことが楽しくてしかたなかった。貯蓄もせず、ブランドものを買いあさりました。それも、その品物が欲しいからというよりは、優越感を得るために。



ゴミクズみたいなサイテーな人間でした(苦笑)。当時も友達は少なかったですが、その数少ない友達のことも、どこかバカにしてる自分がいて。お金だけで人を判断していたんです」





■「家族と一緒の絵なら、いまからでも僕が描いてあげられると思った」



しかし、どんなバブルも、いずれははじけ飛ぶ。



「万博が終わったあたりからですかね、以前のように簡単に稼ぐことができなくなっていきました」



似顔絵師の数が急増、インターネットも普及し、似顔絵の通販も始まった。価格競争が激化した。



「浮かれて仕事をしていた僕は、画力を磨いたり、自分の絵のファンを獲得するということもしてこなかった。似顔絵が売れなくなって、給料は激減。でも、爆上げした生活水準を落とすことができなくて。25歳のころには、借金まみれ、首が回らなくなってました」



大村さんは当初、この苦境は自分が招いたこととは思わなかった。



「うまいこと商売ができてない会社が悪いとか、安値で似顔絵を売る業者が悪いとか、全部を他人のせいにしていました」



原因を他者に求めたところで、当然だが困窮ぶりは改善しない。やがて大村さんは似顔絵師をやめて、少しでも給料のいい仕事に転職することを真剣に考え始める。



「でも、どんなに給料が安かったとしても、絵をやめることのほうが、自分にはつらいって気づいたんです。絵を手放したくなかった。絵をやめた自分を想像したら、無性につらくなってしまったんです」



やっと大村さんは「自分が悪かったんだ」と気づく。そして、自問を繰り返した。「僕が絵を続ける意味はなんだ?」。たどり着いた答えは「誰かの役に立つ、誰かが喜んでくれる絵を描きたい」だった。



「その気持ちを大事にしながら、似顔絵師を続けました。普通、1人の似顔絵を描くには15分、カップルなら30分はかかる。そこで、ただ黙々と描くのではなく『なぜ似顔絵を?』『似顔絵は何回目?』などなど、会話することを心がけました。



ときには職場や家庭の愚痴を聞いたりも。お客さんが絵を見返したとき『似顔絵師の人とこんなこと話したな』と振り返れるような、共有した時間も持って帰ってもらおうと考えたんです」



気持ちを入れ替え、借金完済に向けて励んでいた27歳のとき。仕事中に、ある人の訃報が届く。



「彦根(滋賀県)のショッピングセンターで似顔絵を描いているときでした。実家の母から電話がきて。友人が急逝したことを知らされたんです」



友達がほとんどいなかった大村さん。亡くなったのは、唯一「親友」と呼べるような、中学時代から交流が続いていた人だった。



「馬が合い、中学、高校と、よく一緒に遊びました。似顔絵師としてデビューした直後には、わざわざ仕事場まで来てくれて『似顔絵描いてくれ』って。『無料でいいよ』と言う僕に、『今日は客として来たから、お金もちゃんと払うよ』と言ってくれた。



でも、僕がどんどんお金もうけ優先の生活を続けていくなか、だんだん疎遠になって、連絡も取らなくなっていたんです」



知らせを受けた大村さんは、その足で友人の実家に向かった。



「病で突然、亡くなってしまったということでした。お線香をあげさせてもらったお仏壇に、あの日、描いた似顔絵があって。



彼のお母さんに『この絵、まだ持っててくれたんですね?』と言うと『ずっと順くんと会いたがってたのよ』と。『順くん忙しいかな、遊びに誘っても平気かなって、いつもあなたを気にかけてた』って。



そんな話を聞くまでは正直、彼が亡くなったという実感もあまりなく、涙も出てこなかったんですが……」



彼の母の言葉を耳にした途端、大村さんは自責の念に苛まれた。そして「僕のことをそんなふうに思ってくれていた彼に、僕はもう会うことができないんだ」という思いに駆られた。気がつけば、とめどなく涙があふれていた。



「以後、毎年の命日や誕生日には彼を思い、彼の実家の方角に向かって手を合わせました。



5年が過ぎた?2017年、彼のお母さんの『息子と一緒にもっと家族写真を撮っておけばよかった』という気持ちを知ることになって。それで思ったんです。写真は無理でも、家族一緒の絵なら、いまからでも僕が描いてあげられると」



このとき、すでに大村さんはイベント会社を辞め、フレキシブルに働けるデザイン会社に転職していた。仕事の合間を縫い、15万人の似顔絵を描いてきた経験と技術をフルに使って、亡くなってから5年が経過し、少し大人になった“いま”の親友を描こうと思った。



「彼を囲むように、現在の彼のご家族も描きたいと思いました。そうすれば、お母さんやご遺族の、5年間の空白を埋めてあげられるんじゃないかって。彼はもういないけど、ご家族がともに生きた時間を表現してみたかったんです」



完成した絵を届けた日。「しんみりしたくなかった」という大村さん。いつもの似顔絵のときと同じように「はい、できましたー」と努めて明るく披露すると……。



「絵を見た瞬間、お母さんも、それにお父さんも『ありがとう』と口は動いてるんですけど、もう声になってなくて。顔をぐちゃぐちゃにして号泣。僕も一緒になって泣いて。泣きながらご両親は『まるで、あの子が生きてるみたいだ』と言ってくれたんです。



その瞬間、僕、思ったんです。『これを、一生かけてでもやりたい、これこそが、僕が絵を続ける理由だ』って」



2017年。この亡き親友の絵が「絆画」の第一号に。そして、大村さんは「絆画作家」になった。



(取材・文:仲本剛)



【後編】故人の性格や癖までも描く大村さん。絆画を通じて、子どもたちの自死を少しでも減らしたいへ続く

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