吉井和哉「この作品を作ることは自分の使命だった」 『みらいのうた』へと導かれたドキュメンタリー映画に手応え

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2025年12月04日 09:10  クランクイン!

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吉井和哉  写真:横山マサト
 THE YELLOW MONKEY・吉井和哉のドキュメンタリー映画『みらいのうた』が12月5日に公開。今年度の第38回東京国際映画祭にも公式出品された本作では、エリザベス宮地監督が約3年間密着。吉井のルーツとともに、彼が10代の時に加入したバンド「URGH POLICE」のボーカルEROと約束したセッションまでの道のり、そして自身の喉頭がん発覚から東京ドームでのTHE YELLOW MONKEYの復活ライブまでの軌跡が映し出されている。予想だにしない人生の一片でありながらも「こんなにもつじつまが合うのかと思うぐらい、自分の人生が映画化されていた」という吉井。まるで導かれるように形となった本作の撮影を振り返り、そして今の想いを語ってくれた。

【写真】シックなスーツ姿の吉井和哉 フォトギャラリー

■この映画を作るためにミュージシャンとして成功したんじゃないかなというぐらい、自分にとって人生の代表作

 吉井が「師匠でもあり反面教師」と語るEROは、2021年に脳梗塞で倒れ、療養中だった。吉井は彼のためにできることはないかと思い、40年ぶりにセッションをすることを約束。その様子を追ったドキュメンタリーの撮影が始まった。そのなかで、幼い頃に亡くした父、母や今でも続く旧友らとの交流を通して“吉井和哉”という人間と音楽のルーツが紐解かれていく。

 一方、撮影開始後に吉井の喉頭がんが発覚。そこから2024年4月に復活を遂げた東京ドーム公演までの裏側とパフォーマンスも収められている。また、その間に吉井とTHE YELLOW MONKEYが携わったBiSHのラストシングル「Bye-Bye Show」の制作過程や、共に在籍したロックレーベル「TRIAD」の盟友、THEE MICHELLE GUN ELEPHANT/The Birthdayの故・チバユウスケさんについても語られている。さまざまな要素が詰め込まれた本作はやがて自然な流れで、父が亡くなって50年が経ち心機一転作った楽曲「みらいのうた」(2021年)につながっていったという。



――完成をご覧になって率直にどう感じましたか?

吉井:僕のキャリアはミュージシャンですけど、何だかこの映画を作るためにミュージシャンとして成功したんじゃないかなというぐらい、自分にとって人生の代表作だと思いました。

ドキュメンタリーってハプニングがないと面白くないじゃないですか(笑)。だから、撮影中は何かハプニングが起きるたびに「よしっ!」みたいな気持ちにもなったし、がんもお医者さんに治ると言われていて、安心してちゃんと治療を進めていたので、そんなにシリアスになることもなかった。ちょうど撮っている時期が、占いで僕の50年に1度のラッキーイヤーだったんですよ。でも、がんになってるし、どこがやねんって思いましたけど(苦笑)。今思い返せばラッキーですよね。こんなにすごい映画が撮れてるんだから。

ただ、撮影の途中から自分が吉井和哉役を演じていたような錯覚に陥ることもありました。「あなたはロックスターになります。50代も後半になります。喉頭がんになります。東京ドームを目指します。そしてあなたは音楽の世界に導いたEROさんと40年越しのライブを目指します」っていう3年間だったので。

――まさに劇的な流れですね。

吉井:初めてつながった映画を観た時は、こんなにもこれまでの出来事のつじつまが合うのかと思うぐらい、自分の人生が映画化されていました。まあ、「靴下がダサかった」とか多少ダメ出しもありますけど(笑)。当初はタイトルも決まっていなかったんですが、最後の最後にタイトルもエンドロールの曲も『みらいのうた』に決まったんです。この曲はEROの歌でもあるし、観ている方のそれぞれの歌でもあるし、“過去はメロディになるから”と歌っていて…この曲、このタイトル以外ないんですよね。



■過去がまるで未来のように進んでいって、波紋みたいに映画がどんどん完成していった


――「みらいのうた」は、吉井さんのお父様が亡くなって50年という機に作られた楽曲で、映画もご両親が出会った吉井さんの故郷・静岡から始まりますね。

吉井:静岡は最初の撮影でした。1泊2日で宮地くんに来てもらったんです。母親も、映画に出てくれた同級生の2人やERO、THE YELLOW MONKEYのメンバーも、今の吉井和哉をつないでくれている人たちで、そんな嘘のない関係性の場所を、宮地くんに撮ってほしかった。だからこそ、出来上がったものも嘘をついていないし、自然につながっているんだと思います。

――静岡のシーンでは、美しい海がとても印象的でした。

吉井:僕にとっては、あの場所は生まれた時から自分の中であるもので、照れくさい場所だったんです。昭和のヘルスセンターで旅芸人の父親が母親と出会って、その近くで僕は産湯に浸かった。目の前に海があるあの場所は、亡くなった父に会いたくて行ったんです。



――お父様のことは覚えていますか?

吉井:記憶も本当に数シーンしかなくて、ぼんやりと鮮明でもない映像としてしか残ってないんです。ただ、僕の父親は26歳で亡くなってるんです。26歳ってまだ…少年ですよね。実は母親も若かったんです。僕は母が20歳の時の子だから、今思えば子どもに育てられてるような感じなんですよね。母親は僕が物心ついた時にもう厳しい人になっていて、甘える人がもう70代の祖母しかいなかったですし。だから、自立は早かったかもしれない。学校を出てバイトすることも、それでいいよと思っていました。逆にそっちの方が楽しかったですしね。

そう考えると、あの場所で僕が生まれたっていうところから、もうこの映画は始まってるんですよね。EROとだってあの頃に出会っているし。撮影が始まった時は、そんなつもりは一切なかった。でも、過去がまるで未来のように進んでいって、波紋みたいに映画がどんどん完成していったんです。



■昭和、平成を生きてきたロックミュージシャンの今が描かれている


――EROさんの登場シーンを観てどう感じられましたか?

吉井:「やっぱり、この人かっこいいな」と思いました。まぁ、問題児ですけど(笑)。僕の師匠だし、反面教師でもあるEROが病気にならなかったら、この映画はなかったと思うから、運命の皮肉さはありますけどね。

――EROさんといる時の吉井さんのリラックスした雰囲気も印象的で、過ごした時間が重なると家族のようになってくるかなと感じました。

吉井:本当にそう。だから人から僕が「EROさんのお父さんみたい」とか、「弟みたい」とか言われたりもしました。僕は兄弟がいないし、EROと出会った時にすごく彼のことを慕って、ほぼ毎日彼の家に遊びに行ってたんですよ。だから、もう兄貴みたいに思ってたんですよね。兄貴だから、放っておけないし、心配になるし、ずっと気になるんですよね。

でも、すごく頑固だし、自分がやりたくないことは本当にやらないし、キレるし、「やれ」って言うと「やだよ」って言う正直な人だから、何かお願いするにも大変なんですよ(笑)。今回のセッションをお願いする時も、最初どうかなって思ってたんだけど、EROが「俺もね、それが生きがいになる」って言ってくれたから、「そんなこと言うんだ」と思って結構驚いたんです。

そういえば、映画を観たEROが喜んでました。EROって「優しい男なんてクソくらえ」っていうのがスローガンなんです(笑)。そんなEROが、僕にすごく優しい言葉を言ってくれたんですよ。「実は俺はお前を初めて見た時に、王子様だと思ったんだ」とか(笑)。何か気持ち悪いなと思ったけど(笑)、うれしかったですね。



――そんなご自身を導いてくれたEROさんとの再会からセッションまでの過程が、現代の人たちにどんなふうに届けられると思いますか?

吉井:(60代の)EROを通じて俯瞰して物事を観ていると、「このぐらいの年代の人は何でこんなにもロックに夢中になって、どういう日本を生きてきたのか」という、現代につながる背景が見えてくると思うんです。

ロックの行いって、全部コンプライアンスに引っかかるものだから、やっぱり現代だとすごく取り扱いが難しいものだと思う。ロックって本当に危険物なんです。扱い方を間違えると死を招くし、怪我するし、人を傷つけるし…。だから、ロックをやる人って、やっぱり普通の人間じゃない、どこかおかしい人なんですよね。そういう人が「年を取ったらこうなりました」っていう部分もさらけ出されているから、「ロックによっておかしくなった人は、今の時代どうやって生きていけばいいんですか」って問いかけられると思う。

でも今の時代はあまり「ロックっぽい」「ロックはかっこいい」ってことに夢を持たないから、ちょっと寂しくもありますけど…僕自身はいい時代にロックできたなって思います。この映画って、僕ら昭和、平成を生きてきたロックミュージシャンの今がすごく描かれているんですよね。人は誰でもやっぱり一寸先は闇で、僕も「ハンカチ落としのように人が死んでく」って劇中で言ってるんですけど、同世代のミュージシャンがどんどん亡くなった時でもあったから、何か一つの時代が切り替わるところ、逆に永遠に切り替わらないところも映し出されてるんじゃないかなと思います。



■やりたいことを悔いのないようにやってこそ、『みらいのうた』が響くはず


――本作でチバユウスケさんのエピソードに触れられていたのも印象的でした。

吉井:なかなか会う機会がなかったから、もっと仲良くさせてもらえばよかったなって思いますね。音楽とかレコードの話とか、いっぱい共通点があったし、今もし連絡とか取っていたら話したりしてたかもしれないな…とかね。そういうのも悔やまれますね。彼はすごくかっこいい人だったから。

――チバさんと縁のある境遇だったと思いますが、チバさんを追悼した「オハラ☆ブレイク」(2024年9月28日)でのステージも収録されていますね。

吉井:あそこで宮地くんが撮影してTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTやThe Birthdayのメンバーがフレームに収まってるのも、個人的には何かすごくいいシーンだなと思ってます。

――それと、がんの療養中ではありましたが、BiSHのラストシングル「Bye-Bye Show」、「ホテルニュートリノ」(※WOWOWドラマ『東京貧困女子。-貧困なんて他人事だと思ってた-』の主題歌)の制作もあり、吉井さんが忙しかったことも印象的でした。

吉井:そうなんですよね。だから、事務所の社長には言ってましたよ。「何で自分ががんになってから、こんなオファーが来るんだ」と(笑)。逆にそれもツキが回ってきたと思ったんですよね。

――BiSHの東京ドームでの解散ライブをご覧になっていた時は、吉井さんはどんなふうに感じてらっしゃいましたか?

吉井:自分たちの2001年1月8日の東京ドームの実質の解散ライブを思い出して、何度か胸に来るシーンはありましたね。演出的にも最後に「Bye-Bye Show」をやっていただいたり、珍しくメンバー全員であの場所にいて見たのも、自分の中で心に残っています。


――その後、THE YELLOW MONKEYも東京ドーム公演が2024年4月27日に控えていました。復活として位置づけられたこのライブを前に「祈ることしかできない」というファンの皆さんの声も収められていますが、あの日のライブはいかがでしたか?

吉井:ヤバかったですよ。今までで1番最悪なコンディションで挑んで、歌えるかわからないのにステージに立っていたので。でも、あの景色が見れたっていうのも、こういう状況じゃないと僕にはあの景色を見せてもらえないんだって、笑いましたけどね(笑)。何かそれぐらいあの歓声と目に見えない“陽”の気が独特だったなと思います。

――終演後にメンバーの皆さんも、これまでと違う充実感を感じられていたのが印象的でした。

吉井:メンバーもいい味出してましたね。あと、(日本武道館での)パンツのくだりとか、“寅さんとタコ社長”みたいな会話(笑)。これ、傍から見たら面白いだろうなと思ってました。

――面白かったです(笑)。メンバーの皆さんとの温かな関係もステキでした。改めて吉井さんの形作る本当にさまざまなファクターが宮地監督によって丁寧に紡がれていますが、この映画が完成する前と後で心境の変化はありましたか?

吉井:映画がきっかけでそうなったのかは分からないですけど…ひと角取れたかなっていう感じはします。なんか、僕が野菜だとしたら「角が取れた代わりにいい出汁が出た」みたいな(笑)。それがいいのか悪いのか、今はわからない。でも、恥ずかしいものが撮れてしまったなとか、本当はこんなつもりじゃなかったなってことは一切ないので、やっぱりこの作品を作ることは自分の使命だったと思います。

――この映画がようやく皆さんの元に届けられますが、映画のHPには「僕と同世代の方にはもちろん、若い方にこそ是非見ていただきたい」と言葉を寄せていましたね。

吉井:若い人ってやっぱり元気だから、僕もそうだったけど、いくら年寄りが言ったって聞かないと思うんです。ただ、年取ったらこういう道も待ってるから、それだけは覚えておいてほしい。若いうちに、元気なうちに、いろいろなやりたいことを悔いのないようにやってこそ、『みらいのうた』が響くはずだから、とにかくやってください、と思ってます。

(取材・文:齊藤恵 写真:横山マサト)

 映画『みらいのうた』は、12月5日より全国公開。

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