「果てしなきスカーレット」ストレートなメッセージが“現代”に届くまでの距離【藤津亮太のアニメの門V125回】

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2025年12月12日 17:10  アニメ!アニメ!

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『果てしなきスカーレット』は、生まれ直しの物語だ。その一点に向け、映画は実に無骨といってもいいほど骨太な語りで進行していく。  

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※この原稿は『果てしなきスカーレット』の重要な部分に触れています。

本作で一番魅力的なのは、その骨太な語りだ。本作では登場人物がフルサイズで映るカットが多く、周囲には荒野がただ広がっているだけ。余白の多い間延びした空間になってしまいそうな要素ばかりなのだが、その画面に確かな力が宿っている。被写体はほとんどセンターにいることが多く、正面顔のアップも多い印象だが、それによって映像が単調になることもない。見せたいものは「これだ」というはっきりした主張が画面から伝わってきて緊張感が途切れない。  

さまざまな方法で線分を用い画面の中に複数の領域を作り出し、そこに遠近感や色(光)が加えることで、ひとつの画面を作り上げる。本作では、そういう映像演出のための操作がミニマムに抑えられており、その点でこれまでの細田守作品とは“文体”が異なる、という印象を強く受ける。本作ならではの“文体”が、骨太な語りの作品という印象に直結している。  

この“文体”から連想されたのは、宗教画や歴史画といった絵画だ。ロングショットでフルサイズの登場人物がフレームから出入りする見せ方もあるので、演劇的という印象もないではないが、映像の持っている肌触りはやはり絵画に使い。おそらく背景美術の密度や描かれているもののスケールの大きさが、そういう印象を生み出しているのだろう。本作はそういったビジョンの連なりとして、とても刺激的だ。  

本作の入口は、宣伝などで伝えられているとおりシェイクスピアの悲劇『ハムレット』を借りている。しかし、そこまで『ハムレット』に準拠しているわけでもない。アンチテーゼというほど単純でもなく、もっと多様な要素が取り込まれて構築されている。  

16世紀のデンマーク、アムレット王を裏切り者に仕立てて処刑した、弟クローディアスは王となり、その妻ガートルードを自らの妻とした。アムレットの娘スカーレットは、王位を簒奪したクローディアスへ復讐を試みるが返り討ちに合い、「死者の国」で目を覚ます。  

「死者の国」は荒涼とした大地が広がり、人々は、生きてきた時の記憶の残滓(ざんさい)を引きずりながら、盗賊が跋扈(ばっこ)する弱肉強食の世界を“生きて”いた。ここでは力なきものや、傷ついたものは「虚無」となって消えてしまうのだ。人々の願いは、虚無になることなく、はるかな山の頂のその先にある、「見果てぬ場所」へと至ることだった。  

死者の国は、ダンテの『神曲』からインスパイアされている部分も多そうだ。作中に「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」という一文が出てきたり、ダンテが描写した階層状の地獄を思わせるビジュアルも、スカーレットの夢の中に登場している。また「見果てぬ場所」に至るため、山の頂を目指す必要があるのは、『神曲』煉獄篇に出てくる煉獄山を踏まえていると考えられる。『神曲』では、煉獄山を登る過程で死者たちは浄化され、天国を目指すのである。しかし『ハムレット』同様、『神曲』についてもまた、“入口”のひとつにとどまっている。  

物語の導入は、スカーレットが死ぬまでの過程、死者の国でどのように過ごしてきたかが描かれる。そんな彼女が青年・聖と出会うことで、物語は中盤へと足を踏み入れる。  

中盤はまずスカーレットと聖の価値観の違いが描かれる。死者の国にまだ存在するというクローディアスへの復讐を誓い、人をなかなか信用しないスカーレット。一方、観客と同じく現代の日本からやってきた看護師の聖は、傷ついた人間がいれば見逃せないタイプの人間である。ここでは「善悪を裁断する姿勢」(いわゆる父性原理)のスカーレットと、「包摂する姿勢」(いわゆる母性原理)の聖が、対比として描かれる。ここで注意しておきたいのは、父性・母性といわれているものの、実際の性別とは関係がないということだ。  

「包摂の原理」で動く聖の個性が前面に出るのが、荒野で知り合ったキャラバンの人々と仲良くなる過程だろう。聖はキャラバンの老人たちを癒やし、親しい人間関係を築く。またクローディアスから刺客として差し向けられたコーネリウスとヴォルティマンドの心を解きほぐしていくきっかけもまた聖であった。  

こうして2人を対比で見せたあと、物語は折り返し点を迎える。スカーレットの父アムレットが、処刑されるときに彼女に残した最期の言葉が明らかになるのだ。幼いスカーレットはその言葉を聞くことができなかったが、処刑の現場にいたヴォルティマンドはがその言葉は「許せ」だったと告げる。この「許せ」の意味と真意を大きな問いとしつつ、映画後半はスカーレットの生まれ直しが徐々に描かれていく。  

まずひとつが、夢の中で墓堀人と出会うシーン。スカーレットは夢の中で、水中へと深く潜っていき、その先の地の底で、墓堀人と遭遇する。墓堀人たちた掘り起こした棺には誰も入っておらず、そこにスカーレットの影が落ちる。さらにスカーレットは棺の中に閉じ込められてしまう。この棺は「人を呪わば穴二つ」という寓意であろうし、同時にそれまでの裁断の原理で生きてきたスカーレットが“死に始めた”予兆でもある。  

次にスカーレットが幻視するのは、未来の東京・渋谷だ。焚き火の前に座っていたスカーレットの意識が突如跳躍し、光のトンネルを抜けた向こうに未来の渋谷を見る。人々は街中でサンバを踊り、その中心に聖と、髪の短いスカーレットがいる。ふたりははつらつと踊っている。  
この渋谷のダンスの意味は、ふたつある。  

ひとつは、キャラバンで登場したフラと対になって、人間というものの本質を示すこと。フラは「神との交歓」の踊りなので、人間と外部世界のインタラクションを象徴する。それに対しサンバは、人間の内面から湧き出す生命力の爆発を体現したものだ。このふたつが人間を支えている根本の原理といえる。  

もうひとつは、いうまでもなく「現在とは異なるスカーレット/聖の姿」を示すことで、「今の自分だけが自分ではない」という可能性を示す役割である。このときサンバが(さらにいうとフラも)『ハムレット』や『神曲』が属するヨーロッパのキリスト教文化圏とはまた異なる文化の産物であることで、これまでスカーレットが属してきた世界の“外”が指し示されている。  

こうして渋谷のサンバを見たスカーレットは、自らの髪の毛を短く切る。これもまた「生まれ直し」に至る道標のひとつである。この髪を切ったポイントを越えて、映画は終幕に入る。  

終幕に入ると、見果てぬ場所を求めている人々の群れがクローディアスの居城目掛けてなだれ込んでいくシーンや、火山の爆発と流れてくる溶岩など、スペクタクルなシーンが続く。このあたりからスカーレットの行動と、周囲のビジュアルの連続性が薄くなり、どんどんと舞台が変わって、印象が散漫になる部分はある。  

そうした展開の中で聖は、スカーレットを守るために刺客のギルデンスターンとローゼンクランツを殺す。このきっかけとなったのが、死者の国に訪れたばかりのスカーレットに声をかけた、妖しげな老婆だ。老婆はこのとき、聖に「おまえは何のためにここに来た?」「お前がここにいる理由は何だ?」と問いかけるのである。  

これは二重の意味が持つセリフで、「なにが原因で死者の国に来たのか」という問い掛けと同時に、「何を行うために死者の国に来たのか」の両方に解釈できる。聖は、このふたつに同時に答えを出す。まず第一に自分は、現実の世界で通り魔から子供を守ろうとして刺殺されている、という記憶を蘇らせる。そして、そのとき子供を守ろうと思ったのと同じ気持ちで、スカーレットを守ろうと行動し、ローゼンクランツとギルデンスターンを倒すのである。ここまで包摂の原理で動いてきた聖だが、裁断の原理で動くのは驚かされる(また、その対象となるのが、前半に聖が相対した2人のようなよき武人ではなく、好感が持ちにくい人間であるという設えなのもこのシーンに驚かされるポイントではある)。  

画面だけでは手がかりが少ないが想像するに、聖はここで、自分が虚無と化す(死者の国での“死”)ことを意識し、自分に最後に何が“できる”のかを考えたのだろう。そして彼が選んだのは、スカーレットの“生まれ直し”を完成させることだった。  スカーレットは聖と出会い、裁断の原理だけでなく包摂の原理と触れ合うことを経て、映画後半は「生まれ直し」へと向かうイメージを重ねてきた。そして、最終的に見果てぬ場所へと到達する過程でも、また「水(海)」と「トンネル(見晴らしの悪い森林)」のイメージが登場している。  

そして見果てぬ場所に到達したスカーレットは、父の残した「許せ」という言葉が、「自分を許せ」=「自分を自分で縛り付けているその行為から解放されろ」という意味である可能性に思い至る。自分自身の傷ついた気持ち、弱さ、そういったものを包摂することで、新しい自分へと生まれ変わる。  

一方、極めて人間的な卑怯で強欲で小心さを併せ持つクローディアスは、ドラゴンからの雷によって虚無となる。『神曲』『ハムレット』と西欧古典を入口にしてきた本作らしく、最後は機械仕掛けの神(デクスエクス・マキナ)によって結末を迎えるのである。  

最後に、スカーレットは実はまだ死んではいない、ということが明かされる。死者の国と呼ばれているこの場所は「生も死も入り混じる場所」であるのは、冒頭に老婆が語っているとおり。聖は最後に、スカーレットに「生きたい」と叫ばせ、スカーレットをこの世界から現実世界へと生還させる。包摂の原理(母性原理)に則って行動してきた聖は、ここではっきり助産師のよううな存在として振る舞う。映画冒頭に置かれたこの見果てぬ場所のシーンで聖が“運命の人間”のように描かれている。ただしそれは恋愛の相手というよりも、スカーレットの生まれ直しを導くという意味での“運命”であるからだ(だから別れのキスはしないほうが意味合いがクリアであったように思う)。聖がスカーレットに「生きたい」と叫ばせるのは、生まれ変わりのための産声をあげさせるためなのだ。  

現実に返ってきたスカーレットは、なぜか髪が短くなっている。理由はいかのようにもつけられるが、これが彼女の死者の国での体験が“本当”であったことの証であり、彼女が裁断の原理だけでなく、包摂の原理もまた内包した新たな人物に生まれ変わった証でもある。  

本作はこのようにスカーレットの内面で起きた変化の物語、という点で非常にシンプルに出来上がっている。そしてその語り口、文体もシンプルで力強い。そこまでは非常に納得のいく仕上がりなのだが、最後にどうしても、立ち止まり考えてしまう部分があるのも事実だ。  

女王となったスカーレットは、地を埋め尽くす群衆の前で、「皆さんの幸せのために最善を尽くし奉仕します」と誓い、「隣国とは友好と信頼を。子供は絶対死なせない。たとえ苦しみながらでも、もがきながらでも、もう争わないで済む道を諦めずに探すことを約束します」と宣言する。チャップリンの『独裁者』にも通じる、作中のセリフというよりも、観客へ向けたストレートなメッセージだ。ここのやりとりは、建付けは16世紀デンマークだが、実質的には「現代から未来へのメッセージ」として描かれている。そのメッセージがストレートであるからこそ、整理しきれない混沌を感じざるを得ない。  

16世紀デンマークという舞台を立てると、スカーレットの未来への希望をつなぐふるまいがあったとしても、現実問題として2025年の世界は決して幸福ではない、という事実が重くのしかかる。現代の分断や暴力は、スカーレットの言葉や彼女が経験した意識の変化だけでは乗り越えられない種類のものだ。スカーレットのメッセージはもっともだが、“現代の問題”の多くはそのメッセージではどうにもならず、適応限界を越えている。ここが気になるというのは、映画が悪いというより、映画と筆者の間の問題である。  

例えば、16世紀の王政国家であれば、国王の判断がそのまま国の振る舞いを決める。スカーレットは、一足早い啓蒙専制君主ということになるだろう。しかし現代の国政は、投票を基盤とした民主主義によって支えられている。21世紀の民主主義国家は、スカーレット女王の宣言ほどシンプルに国家のあり方を変えることはできないそしてファシズムへと傾くポピュリズムは、実はスカーレットに願いを語った「貧しいものだけがバカを見るのはゴメンだ」といった“普通の人の素朴な願い”の中にも胚胎しうることが既に明らかである。そこに筆者は、筆者のみている世界の問題と、スカーレットの純粋過ぎる言葉の間に割り切れない距離を感じるのである。  

先ほど『独裁者』に触れたが、『果てしなきスカーレット』の最後のメッセージが純粋さゆえに評価される時が来るとすれば、それは今よりも時代が不幸になったときではないだろうか。それがこの映画にとって幸福なことか、不幸なことかはわからない。



【藤津 亮太(ふじつ・りょうた)】
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』がある。最新著書は『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」で生配信を行っている。


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