
元ホンダ・浅木泰昭 連載
「F1解説・アサキの視点」第6回 後編
前編を読む>>>F1「エンジンの圧縮比論争」に元ホンダ・浅木泰昭が感じる思惑「どんなストーリーで新規則が採用されたのか知りたい」
2026年シーズンのF1は大変革の年になる。マシンのレギュレーションが全面的に変更され、車体やパワーユニット(PU)、タイヤのすべてが大きく変わる。そのなかでも今季の前半戦はPUが勝負を左右すると言われている。
今季は複雑な「MGU-H(熱エネルギー回生システム)」が廃止され、代わりに「MGU-K(運動エネルギー回生システム)」の電気モーター出力がこれまでの120キロワットから約3倍の350キロワットまで大幅に引き上げられる。また、エンジンには持続可能なカーボンニュートラル燃料の100%使用が義務づけられた。
さらに、アウディやフォードと組むレッドブル・パワートレインズなどの新規メーカーの参入もあり、シーズン序盤は各メーカーのPUには性能差が生じるだろうと予想されている。果たして、今季のPU開発のポイントは? そして今、F1界で大きな注目を集める「エンジンの圧縮比問題」についても、元ホンダ技術者の浅木泰昭氏に語ってもらった。
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【違反確認が不可能なシロに近いグレー】
内燃機関(エンジン)の圧縮比についてルールの抜け穴を突いているとの疑念を向けられているメルセデスやレッドブルがPU開発に関して実際にどんなことをやっているのか、詳細はわかりません。
でも、圧縮比の上限が18:1だと他社に対して差がつけられないけれども、新レギュレーションとなった16:1に下げることでアドバンテージを得られるなんらかのアイデアをメルセデスの技術者が持っていた。だからレギュレーションで圧縮比を下げるように動いたのではないかと私は疑っています。
そのアイデアはメルセデスの人間がレッドブルのPU製造会社であるレッドブル・パワートレインズに移籍したことで広まっていった。レッドブルは今年からフォードと提携し、自社で開発・製造したPUで戦うことになっていますが、内燃機関の部分は元メルセデスのスタッフが開発に携わっています。人づてにアイデアが漏れていったのは容易に想像できます。
これまでもF1ではレギュレーションの抜け穴をついた開発が大きな議論を巻き起こしたことは何度もありました。2019年にはフェラーリがPUの燃料流量規制を不正に回避し、出力を向上させているのではないかという疑惑があった。あれは明らかにクロでしたが、今回の圧縮比の問題は状況が異なります。
私は今回についてシロに近いグレーだと思っています。現実問題、圧縮比はエンジンの温度が低い状態(常温)でないと測定できませんし、エンジン内部のパーツが熱で変形するのをレギュレーションで禁止されているわけではありません。メルセデスやレッドブルが明らかな違反をしていることを確認することはできないんです。
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【敵のたくらみを読まないといけない】
ずっと"F1村"で生きているヨーロッパのエンジニアたちは少しでもパフォーマンスを向上させるために、ルールのグレーの部分をついてきます。彼らにとってグレーはシロなのです。そして時にはライバルチームだけでなく、主催者の裏をかいてくる。そういう精神がないと勝てないという側面がありますので、ホンダとしては敵方の動きやたくらみを読まないといけないんです。
でも量産車を経験しているホンダの人間は、なかなか相手の裏をかくことができないところがありました。なぜならグレーはクロという考え方が染みついているからです。ホンダは訴訟大国のアメリカが主戦場ですので、企業存続のためにはグレーはクロという考え方で開発をしないと、痛い目に遭います。
2015年に発覚して大きな社会問題になったドイツのフォルクスワーゲン(VW)のディーゼル車の排ガス不正問題「ディーゼルゲート事件」がいい例です。VWは排ガス試験中だけエンジンから有害物質の排出を不正に抑えるソフトウェアを搭載したディーゼル車を全世界で販売し、アメリカをはじめ各国でリコールの費用や巨額の賠償金を支払うことになりました。
だから私がホンダのPU開発のトップを務めていた時に何をやったかと言えば、相手が裏をかいてきそうなところをつぶすという作戦。レギュレーションで何か気になる点があれば、国際自動車連盟(FIA)に「こういうことをやっていいのですか?」と文章で聞いてしまう。
それで「ダメ」となったら、FIAが全チームに対して文章で通達を出します。そうやって質問をすることでレギュレーションの穴を塞げば、自分だけが出し抜くことはできませんが、相手に出し抜かれることもありません。
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ヨーロッパのメーカーは、自分が知っていることが相手にも知られるので、そういうことを普通はしません。ホンダは量産をやっている人間がF1もやるという変わった組織なので致し方ない部分はありますが、相手が何かたくらんでいるという勘が働かなければ何も対応できないですよね。それに気づけるかどうかも技術者のセンスだと思います。
F1は相手があるスポーツです。私から言わせれば、相手がどんなことをしようとしているのかに興味がなければ、勝つことにも興味がないということになります。そういう意味では、今回の圧縮比問題に関して新規参入のアウディが事前に気づかなかったのは仕方ないですが、フェラーリにはしっかりと対処してほしかったと思います。
F1村のなかでは人が入れ替わるとともにノウハウが流出することはよくありますが、今回の件も典型的なケースだと思います。F1チームのエンジニアはF1村で育って実績を残したら、別のチームに転職して、給料を上げていきます。その際、チームはエンジニアが持っている情報やノウハウも含めて高いお金を払っています。
逆に技術者たちは「私はこんな情報やノウハウを持っています」といってチームに売り込みにいきます。結局のところ、チームにとっては人の移動が情報収集の手段にもなっているんです。
とくにPUは車体の空力パーツなどと違い、内部は見えませんので、何をやっているのかが簡単にはわかりません。もし今、メルセデスが実際にやっていることをフェラーリやアウディが知るためには、メルセデスかレッドブル・パワートレインズから技術者を引き抜いて情報を入手するしか方法はないのです。
だからPUの場合は対策がどうしても遅れてしまう。知りたい情報を持っているやつがいないかなと探して、引き抜いて、情報を得て改良する......。そこまで来るには相当な時間がかかります。
ホンダの場合は、そういう情報を入手するためのつてもなかった。ある意味、蚊帳の外です。F1村で何が起こっているのかがわからないので、かつてホンダもF1村の技術者を雇おうとしましたが、なかなか極東の地まで来てくれる人はいませんでした。
ホンダは人づてで情報を入手するようなことができないですが、それでもメルセデスやフェラーリに勝ってチャンピオンになったというのは私の自慢ですよね(笑)。ホンダは、自分たちはF1のなかで異端児だとわかったうえでどう戦うのか。そういうことをつねに意識してレースに臨まないと、これからもレギュレーションが変わるたびにまたやられて、それを繰り返すことになってしまうと思います。
【やっぱりメルセデスはうまいな、と】
メルセデスに対しては、同じ技術者として感心しています。今回の圧縮比に関するニュースを聞いた時に、やっぱりドイツ人というかメルセデスはうまいなと思いました。
レギュレーションのあいまいなところをつく、グレーな部分をつくというのがF1です。私も現役時代は何か新しいアイデアがないかと、いつも考えていました。技術者同士のだまし合いというか、レギュレーションに書いてないことはやるという意識もつねに持っていました。
法律じゃないんですから、ダメと書いてないことはやってもいいんです。私はホンダでPUの開発責任者を務めていた時は部下たちによくこんなふうに言っていました。
「国が定めた法律だったらグレーはクロで正解だけど、F1のレギュレーションは興行主が決めたもの。あくまで興行を面白くする、あるいはひとり勝ちを防いで公平に戦えるようにするルールに過ぎない。レギュレーションに違反したからといって刑務所に入る話ではないんだ。F1村の技術者たちは、グレーはシロという考えのもとで開発をしている。そのなかで我々がどう戦うか考えなきゃダメだろう」
だからメルセデスがやったことは、当たり前ですよね。クロに近いグレーであればいろいろ言いたいことがありますが、エンジンが高温になる走行時だけ圧縮比が上がり、常温で検査する段階で圧縮比がレギュレーションの範囲内に戻るという技術を開発したのであれば、文句を言う筋合いはない。F1とはそういう競技ですから。
メルセデスはこのアイデアでライバルに対して内燃機関で約15馬力ほどの優位性を得たと言われています。そうすると1周あたりコンマ2秒くらいのアドバンテージになります。それに対して各チームはどう対抗していくのか。
アストンマーティンと組むホンダは、システムエンジニアは優秀ですし、自社で開発するバッテリーにも強みがあります。電気の部分でタイムを稼げるはずですし、マシン開発を手がけるエイドリアン・ニューウェイさんが空力性能でコンマ1秒でも取りもどしてくれれば、ホンダの内燃機関の出来次第ですが、勝負はできると思っています。
果たしてふたを開けてみて、どうなるのか。そこはシーズン序盤戦の大きな見どころだと思っています。
第7回につづく
<プロフィール>
浅木泰昭 あさき・やすあき/1958年、広島県生まれ。1981年に本田技術研究所に入社し、第2期ホンダF1、初代オデッセイ、アコード、N-BOXなどの開発に携わる。2017年から第4期ホンダF1に復帰し、2021年までパワーユニット開発の陣頭指揮を執る。第4期活動の最終年となった2021年シーズン、ホンダは30年ぶりのタイトルを獲得。2023年春、ホンダを定年退職。現在はF1コメンテーターとして活躍。初の著書『危機を乗り越える力 ホンダF1を世界一に導いた技術者のどん底からの挑戦』(集英社インターナショナル)が好評発売中。

