1993年オーストラリアGP表彰台での原田哲也 1986年から2008年まで22年もの間、HRCの主に海外レース活動に従事した富樫ヨーコ氏。フリーライターとしても活躍し、HondaのGPマシン開発史や世界GPライダーたちの軌跡をテーマに、多数のノンフィクション作品を手掛けてきた。
彼女が見続けた二輪レースの人物たちに迫るコラムをオートスポーツwebにて掲載。第1弾は、1993年にロードレース世界選手権250ccでチャンピオンを獲得した日本を代表するレーサー原田哲也氏に迫ります。彼女が振り返る原田哲也とは?
■ワイルドカードで参戦
1992年6月に全日本ロード選手権第6戦鈴鹿で岡田忠之と同着優勝した時点で、原田哲也はまだロードレース世界選手権に参戦したいとは考えていなかった。
原田が初めて世界グランプリを見たのは1989年の鈴鹿サーキットでの日本GP。チームメイトの永井康友(当時全日本TTF-1クラスに参戦中。1995年9月にオランダのアッセンで転倒し数日後に逝去した)と一緒に観戦に行ったのだ。
「永井さんと一緒にS字コーナーで見ていました。ウエイン・レイニーやケビン・シワンツの全盛期で、すげえなあって見ていたんです。レイニーやシュワンツの走りがすごいという以前の問題で、お客さんもたくさん入っていたし、とにかくグランプリの雰囲気に圧倒されていました」
「永井さんはグランプリでチャンピオンになるというでっかい夢を持っていたので『こんな大きなレースに出たいなあ』って騒いでいましたね。僕は自分が世界GPに出るというところまで考えていなかった」
そんな原田が初めて世界グランプリに参戦したのは1990年3月に鈴鹿で開催された日本GPだった。
前年全日本ロード選手権250ccクラスでランキング4位に入った原田はワイルドカード(主催者推薦)で参戦した。ルカ・カダローラ(ヤマハ)が優勝したこの時のレースで原田は7位に入った。
「世界のレベルは全然違うなって痛感しましたね。トップグループはあっという間に見えなくなっちゃったんで、あとは淡々と走っていました」と原田。
3年後にこのクラスで世界チャンピオンとなる原田にとって、この時点で“世界”はまだまだ遠いところにあったのである。 1991年(6位)と1992年(雨天、転倒)の日本GPにもワイルドカードで参戦した原田。
それまで7位と6位では目立たなかったからだろう。1993年にフルタイムで参戦を始めて開幕戦オーストラリアGPで初優勝した時、プレスルームは大騒ぎになった。
「あのハラダっていうのは何者なんだ?」
私は知り合いの外国人ジャーナリストの質問攻めにあった。まだインターネットでライダーの経歴を簡単に調べることができなかった時代の話である。
最終ラップに90年の250cc世界チャンピオン、ジョン・コシンスキー(スズキ)に並んだ原田は、そのままスリップストリームを使ってゴールラインでコシンスキーを抜き去ったのだ。
「今までで一番嬉しかったレースは93年の開幕戦とチャンピオンを決めた最終戦でしたね」と後年に原田は語っている。
1993年という年は原田哲也にとって本当に色々なことがあった年となった。友人で先輩の若井伸之が亡くなったのもこの年だった。
■若井の死
若井伸之は原田より2年早い1991年からロードレース世界選手権にフル参戦(最初は125ccクラス)していた。そして1993年から250ccにステップアップしたが、開幕戦と第2戦のマレーシアGPでは不本意な成績に終わり、第3戦の日本GPでも転倒。その後、再スタートを切って必死で追い上げたがポイントを取ることはできなかった。
それでも鈴鹿の観客は、250ccクラスに上がった若井が資金的に苦労していることもよく知っていて、トップグループから遅れて若井が通過した時にはトップ争いをする原田たちに送るのと同じくらい大きな声援を送っていた。
第3戦日本GP(優勝したのは原田)のあと、グランプリの舞台はヨーロッパへ移った。第4戦スペインGPは5月2日だった。
日本にいた私は土曜日の朝、友人からの電話で若井が亡くなったことを知った。
「今、テレビのニュースで若井伸之っていうライダーが亡くなったってやっている。急いで見て!」と友人。
若井がへレスで亡くなったと聞いて、私は彼が練習走行中にコース上で転倒したのだと考えた。しかし、実際には違っていた。
プラクティスも終わりに近づいた時、セッティングを確認するためにピットアウトしようとした若井の目の前をひとりの招待客が横切った。その人物はチーム監督やスタッフしか入ることのできない場所に入り、注意されそうになったので慌てて戻ろうとしてピットロードに飛び出したのだ。
その人物と若井が衝突し、若井はピットロードの壁に頭を強打して意識を失った。すぐに救急車でサーキットの外の病院に搬送されたが、数時間後に息を引き取った。
若井が亡くなったことを事故の夜に上田昇(125ccの時から若井と仲が良かった)に聞いたという原田。その時、彼は何を思ったのだろうか……。
「全然信じられなくて、何、冗談言っているのかなって思いました。それまで若井君は重傷だけど回復に向かっているって聞いていたから……。明日あたりは意識が戻っているだろうから、レースのあとでお見舞いに行こうと考えていました」
「訃報を聞いたその晩よりも、翌朝の黙祷の時の方が辛かった。坂田(和人、125cc)君はレースには出ないという話もしていたけど、僕はきっちり走ってあげることが弔いになると思って決勝レースに出ました。走っている間もずっと若井君のことを考えていました」
この時優勝した原田は、チェッカー後泣き崩れると、スタッフに抱えられてモーターホームへ姿を消した。
「走っている間もずっと若井君のことを考えていました。あの時は勝つつもりで行ったし、勝てて良かった。終わったあとは何も話したくなかった。チームの皆がそっとしておいてくれたことが救いでした」
主催者側も若井の死に配慮して表彰式を行わなかった。 その晩、原田は若井の遺体が安置されている病院に面会に行った。原田哲也は、若井伸之に何を語り、何を約束したのだろうか……。
原田 哲也
1988年から全日本ロードレース選手権250ccクラスに参戦。1992年には250ccクラスチャンピオンを獲得し、1993年からヤマハワークスライダーとしてロードレース世界選手権に参戦する。 開幕戦のオーストラリアGPで初優勝を挙げると、日本GP、スペインGP、そして最終戦のFIM GPでも勝利しチャンピオンに輝いた。1997年にはアプリリアに移籍、1998年も最終戦の最終コーナーまでチャンピオンを争うが3位に終わる。 1999年は500ccクラスに参戦し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。2001年から再び250ccクラスに戻り、ホンダの加藤大治郎と熱戦を繰り広げランキング2位を獲得。2002年は500ccクラスから名称を変更したMotoGPクラスにプラマック・ホンダから参戦。このシーズンを持ってロードレースからの引退を発表した。 ロードレース世界選手権での通算17勝、表彰台55回は日本人最多の記録となっている。
著者:富樫ヨーコ
日本の二輪レース文化を伝える著述家のひとり。HRCで主に海外レース活動に従事しながら、二輪モータースポーツを中心に執筆活動を行う。レースの舞台裏にある技術者やライダーたちの情熱を描き続け、主な著書として『ホンダ二輪戦士たちの戦い(旧いつか勝てる)』、『 ホンダNRヒストリー』、『ポップ吉村の伝説』、『選ばれしGPライダー』 、訳書に『バレンチーノ・ロッシ』、『ケニー•ロバーツ』、『ハイスピード・ライディング』などがある。
[オートスポーツweb 2026年05月28日]