「どんぶりがない」から生まれた カップヌードル誕生の意外な発想

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2026年07月08日 08:20  ITmedia ビジネスオンライン

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カップヌードルの誕生秘話

 世界中で年間1000億食以上が消費されているインスタントラーメン。この「世紀最大の発明」と言われる食品が、大阪府池田市の小さな家の、さらに小さな「裏庭の小屋」で生まれたことをご存じでしょうか。


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 日清食品の創業者、安藤百福氏。安藤氏がインスタントラーメンを生み出したのは48歳のことでした。


 安藤氏は、呉服店を営む祖父母のもとで、商売の現場を間近に見ながら育ちました。独立心の強かった安藤氏は「誰もやっていない新しいことをやりたい」と、繊維事業を22歳で始めます。メリヤス(編み物)を販売する会社を設立すると、大成功。


 戦後の1948年(昭和23年)には食糧難の中で「衣食住というが、食がなければ衣も住もあったものではない」という思いを抱くようになり、食品事業を手掛けることを決意。日清食品の前身「中交総社」を立ち上げました。


 しかし、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に脱税の容疑で収監。その後、理事長を務めていた信用組合が破綻し、背任罪で有罪判決を受け、正真正銘のどん底、無一文になってしまいました。


 そんなときにふと思い出したのが、戦後の焼け野原、寒空の下、屋台に並んでラーメンをすする人々の長い行列。麺好きの日本人のために、「もっと手軽に、家でお湯さえあればすぐ食べられるラーメンをつくろう」と決意したのです。唯一残っていた池田市の小さな家の小屋で、朝から晩までラーメンの開発に取り組むようになりました。


(1)おいしくて飽きがこない。


(2)保存性がある。


(3)調理に手間がかからない。


(4)安価である。


(5)安全で衛生的。


 この条件を満たすようなラーメンをつくるため、麺を揚げ続ける日々。一年が経つ頃、妻の天ぷら料理をヒントに「瞬間油熱乾燥法」を編み出し、1958年(昭和33年)、ついに世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」を完成させます。


 当初は、国鉄の初乗り運賃が10円の時代に35円で販売したことで、なかなか受け入れられませんでしたが、一度食べれば人々はその便利さと味の虜になり、爆発的なヒットとなりました。


 しかし、安藤百福氏の真のすごさは、ここで満足しなかった点にあります。1966年(昭和41年)、「どんぶり」という日本の常識が通用しない米国へ視察に行ったときのこと。現地のバイヤーは、チキンラーメンを小さく割り、紙コップに入れてお湯を注ぎ、フォークで食べ始めました。


 これを見た安藤氏は衝撃を受けました。米国にはどんぶりも箸(はし)もありません。インスタントラーメンを世界的にヒットさせるには、食習慣の違いを乗り越える必要があると気づいたのです。そしてこの経験をヒントに、麺をカップに入れてフォークで食べる新製品の開発に取りかかりました。ここから、安藤氏はどんどん常識を打ち破っていきます。


 麺をカップに入れる際、最初はカップに麺を落とし込もうとしましたが、どうしても麺が傾いて底に収まりません。悩み続けていたある日、布団で横になっていると、急に天井がひっくり返ったような錯覚に陥ったそうです。


 そのときに、「麺を落とすんじゃなく、麺の上にカップを被せて、ひっくり返せばいいんだ」と気づき、確実に麺を充てんできるようになりました。


 ほかにも容器のフタや具材、麺の揚げ方など、さまざまな知恵や工夫が詰め込まれた「カップヌードル」。「ひらめきは執念から生まれる」と安藤氏は語っていたそうですが、まさに執念で自ら新しい手法を発案し、次々に課題を解決していきました。


 こうして誕生した新製品は、世界中で通用するように「カップヌードル」と名付けられ、1971年(昭和46年)に発売されました。


 そして、いまでは宇宙食として採用されるなど、世界のスタンダードになりました。日清食品の歴史は、執念の大逆転と、発想の転換の連続でした。


 いま、私たちが深夜にお湯を注いで待つ3分には、安藤百福の執念から生まれたアイデアがぎゅっと詰まっているのです。


(大野 雄斗、在阪テレビ局の報道記者)


※この記事は、書籍『大阪ビジネス』(大野雄斗/クロスメディア・パブリッシング)に、編集を加えて転載したものです。なお、文中の内容・肩書などは全て出版当時のものです。



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