【高校野球】涙を流したエース、勝てなかった名門、監督の後悔......創部100年・関大北陽が復活への扉を開くまで

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2026年07月11日 07:00  webスポルティーバ

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関大北陽100年物語(後編)

前編:「家庭教師の日は練習を早く終わってた」 岡田彰布だけが受けた"特別待遇"はこちら>>

中編:北陽野球部の礎を築いた名将・松岡英孝が最後まで貫いた教育者としての哲学はこちら>>

 北陽野球部の夏の甲子園出場は1999年が最後だ。そのチームは、新納弘治にとってもひときわ感慨深い存在だった。

【甲子園出場は2007年春が最後】

「秋は優勝した産大付に2回戦(初戦)でコールド負け。春も岸田護投手(現・オリックス監督)を擁する履正社に初戦で敗れました。そんな公式戦では一度も勝てなかったチームが、最後の夏に勝ち上がって甲子園へ行ったんです」

 夏の大阪大会準決勝では、田中一徳、覚前昌也ら、のちにプロへ進む選手が揃い優勝候補筆頭だったPL学園にサヨナラ勝ち。決勝では亀井善行ら2年生軍団で勢いに乗っていた上宮太子を破って、甲子園へたどり着いた。

「あのチームには山本隆司という投手がいたんですが、5月頃から僕がブルペンへ行くと涙を流すようになった。勝てないし、また何か言われるというプレッシャーだったのでしょう。野手でも3、4番が5月末に相次いで胃腸炎になった。勝てない責任感や焦りがあったのだと思います。でも最後は、そんな選手たちが壁を乗り越えて甲子園をつかんだ。高校生の力をあらためて感じさせてくれたチームでした」

 春の甲子園出場は2007年が最後。全身を使って投げ込むエース右腕・秋本達也がチームをけん引した。翌2008年には関西大学の併設校となり、校名も「関大北陽」へ変更。男女共学化や中高一貫化が進むなど、学校も野球部を取り巻く環境も大きく変わった。しかし、関大北陽として全国の舞台には立てていない。

 かつては1学年100人前後が当たり前だった部員数も、現在は3学年で約60人。選手一人ひとりと深く向き合えるようになった一方、入学してくる選手たちの気質の変化も感じるという。そんな時代の移り変わりのなかでも、松岡英孝、新納から受け継いだ野球の根幹は守りながら、試行錯誤を重ねてきたのが辻本忠だ。

「そこやぞ、そこ〜! 今のプレーひとつで夏は決まるんや〜!」

 ライト後方からセンター方向へ高く張られた防球ネット。その向こうを並行して走る高架には、新幹線が駆け抜ける。夏の訪れを感じさせる声がグラウンドに響く。チームを預かって12年。辻本には、ようやく見えてきたものがあった。

「監督1年目からしつこく練習をして、2年目の夏には大阪桐蔭にも勝てました。でも、それが続かなかった。前監督からは『もっと選手を見たれ』と言われていたんですが、その頃は『見てるのに』と思っていたんです。でもあとになって振り返ると、自分が選手の頃は『なんで監督はこんなに俺らのことがわかるんや』と思うことが何度もあった。それだけ見てくれていたんですよね。結局、僕は自分のやりたい野球ができるかどうかしか見ていなかった。だから選手も、僕の顔色を見て『言われたとおりにやらないと』となってしまっていた。そのことに気づいたんです」

【指導者としてのターニングポイントはコロナ禍】

 どうすればいいのか......。模索を続けるなか、転機となったのが2020年のコロナ禍だった。

「甲子園という目標がなくなり、最初は練習もできない。子どもたちは高校野球をやってきた証さえ残せない状況でした。そんな中、独自大会を開いていただけることになり、3年生中心で臨んだんです。すると発見がありました。『えっ、満足に練習もできていないのに、なんでこんなに野球がうまいんや』『なんでこんなにイキイキした顔でプレーしてるんや』って」

 指導者としてのターニングポイントは、チームにとっても大きな転機となった。すべてが一気に変わったわけではない。それでもコロナ禍明けの2021年夏には、勝田成(現・広島)が攻守の中心となったチームが、準決勝で大阪桐蔭とタイブレークにもつれる大熱戦を演じた(10対12で敗戦)。

「あの年は僕が学年主任で、練習も選手たちに任せざるを得ない部分がありました。でも、『やれ、やれ』と指示するのではなく、主体的に考えさせ、任せるところは任せた。すると、彼らのプレーや取り組みを見て、『方向性は間違っていないな』と思えたんです」

 指揮官の考えが整理され、チームづくりの軸が定まると、今の北陽野球に魅力を感じて進学を決める選手も少しずつ増えてきた。その象徴が、現主将の丸山聖だ。中学時代は大阪桐蔭のエース・吉岡貫介と同じ大東畷ボーイズでプレー。高校進学にあたっては、明確な基準を持っていたという。

「とにかく、自分たちで考えて野球をやっているチームに行きたかったんです。そんな時に北陽のことを聞いて興味が湧きました。何をするにも、まず目標をしっかり立てる。そして、その目標を達成するために何を考え、どう行動するか。僕自身も、結果を出すためには中身を大事にしてきたので......」

 168センチ、60キロ。華奢な体格ながら、柔らかな表情で迷いのない言葉を口にする主将を見ていると、今の北陽野球のスタイルが伝わってくるようだった。

【日本一の基準でやろう】

 とはいえ、その変化がすぐ結果につながったわけではない。昨夏は3回戦で敗退。再スタートを切った秋も生野に敗れ、4回戦で姿を消した。

「こんなはずじゃないと、気持ちだけが空回りして、ミスも出て自分たちの野球ができませんでした」

 そこからは、自分たちにできること、できないことを明確に分け、うまくいかなかった原因を徹底的に突き詰めた。その課題を練習で解消するため、選手たちの希望もあって、練習メニューは自分たちで考えるようになった。

「用意された練習をただこなすんじゃなくて、『なぜこの練習をするのか?』という意図を理解して取り組むほうが、自分の身になる。僕らは練習時間も量も決して多くない。だからこそ、一つひとつの練習の質にこだわり、『日本一の基準でやろう』と取り組んできたんです」

 選手主体の流れは以前から生まれつつあったが、昨秋以降、より鮮明になった。そうした積み重ねの先に、今春の準優勝があったのだろう。丸山が言う。

「やることをやっていけば、春みたいな結果を出せる力はあると思っていました」

 とくに投手陣は、それぞれが役割を果たし、準決勝の大阪桐蔭戦も1失点に抑えるなど、抜群の安定感を見せた。しかし、決勝の履正社戦では7失点。7回終了時には2点をリードしていたものの、守備のミスも重なって逆転負けを喫した。あと一歩、自分たちの野球をやり切れなかったと、辻本は言う。

「最後は、勝てる試合を勝ち切れませんでした。あれ以来、もう一度、基礎、基本と一球の重みを見つめ直し、練習の質をもっと高めようと取り組んできました。ああいう負けを経験したからこそ、『まだまだや』と気づくことができた。この夏に生かしたいと思っています。

 北陽の野球と言えばどの時代でもやっぱり根性、気持ちは外せないところですが、どんな状況にあっても自分に負けない。ここが大事で、そのためにも今は普段の練習からどれだけ自分で自分を追い込んでいけるか」

 そして辻本はこう締めくくった。

「最後に自分を信じられるやつが揃えば、楽しみだと思います」

 創部100年目の夏、関大北陽はどんな闘いを見せてくれるのだろう。

(文中敬称略)

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