写真バスや電車で、周囲にイライラをぶつけ続ける人に遭遇して、車内の空気が重くなった経験はありませんか?
今回は、たまたまそんなバスに乗り合わせてしまった女性のエピソードを紹介しましょう。
◆車内に響いた突然の怒声
ある日の夕方。田辺綾子さん(仮名・35歳)は、仕事帰りにいつもの路線バスに揺られていました。
夕方の車内は、仕事終わりの会社員や学生でほぼ満席。誰もが疲れた表情でスマホを見たり、ぼんやり窓の外を眺めたりしながら、静かに目的地へ向かっていたそう。
「すると60代後半ぐらいの男性が乗ってきたのですが、いきなり運転手さんに向かって大きな声で文句を言い始めたんですよね」
男性は乗り込むなり「時間より遅れてるじゃないか! 俺を待たせやがって! おいおい、なんでこんなに混んでるんだ!」と車内中に響く声で怒鳴り始めました。
突然の怒声に、車内の空気がピリッと張りつめます。運転手も驚いた様子でしたが「申し訳ありません」と落ち着いた声で対応していたそう。
「けれど男性はそれで収まるどころか、今度は『最近の若い奴は席も譲らない。スマホばっかり見やがって……ったく、バカばっかりか』と周囲の乗客にまで聞こえる声でイライラをぶつけるように不満を言い続けたんです」
◆周囲に敵意をまき散らすような態度に……
しかも、その言い方が異様だったと綾子さんは感じました。誰か特定の相手に怒っているというより、周囲全員に敵意をまき散らしているような雰囲気で、前の座席の高校生をジロジロ睨んだり、ため息をわざと大きくついたり、舌打ちを繰り返したりしていたといいます。
「正直、みんな早く降りてくれないかなと思っていたと思います。私もかなりウンザリしていたので」
小さな子どもを連れた母親は視線をそらし、サラリーマン風の男性も寝たふりをするように目を閉じていたそう。
「するとその時、最前列に座っていた小学校低学年くらいの女の子が、急にランドセルを開け始め、ガサゴソと中を探り始めたんですよね」
綾子さんは最初、「何をしているんだろう?」と思いました。
◆女の子が差し出した“シュワシュワ”
「女の子は停車したタイミングで立ち上がると、男性のところへ歩いてき『はい!』と小さな手に握りしめていたラムネを差し出したんですよ」
あれだけ怒鳴り続けていた男性に、まっすぐ近づいていく女の子。車内の何人かは「危ない」と思ったのか、思わず目で追っていたそう。
男性自身も予想外だったのか、一瞬ぽかんと固まっていたといいます。
「すると女の子は『おじいちゃん、これシュワシュワして楽しいから食べてみて』と満面の笑みで話しかけはじめて、私は思わず吹き出しそうになりました」
あまりにも無邪気で、場違いなほど明るい声。けれど、その一言で車内の空気がふっと緩んだのを、綾子さんは感じたそう。
◆ラムネひとつで変わった車内の空気
「男性は、急に周囲の視線を気にしたように咳払いをすると『あ、ありがとう』と、小さな声で恥ずかしそうにラムネを受け取ったんですよね」
さっきまであれほど大声で怒鳴っていた人とは思えない、別人のような態度だったそう。
そして不思議なことに、そのあと男性はピタッと静かになりました。ぶつぶつ文句を言うこともなく、窓の外を見ながら黙って座っていたといいます。
しかも次の停留所で降りる時には、運転手さんに「どうも」と声をかけて降りていきました。
◆知らない人に話しかけるリスクも忘れないで
「女の子のお母さんは慌てた様子で『だから、知らない人に急に話しかけちゃダメって言っているでしょ?』と注意していましたが……私は、あの女の子の優しい行動を褒めてあげてほしいなと、つい思ってしまいました」
ただし、結果的に穏やかな結末となったとはいえ、見知らぬ大人に子どもが近づくことには危険も伴います。相手がどのような人物か分からない以上、娘さんを注意したお母さんの対応ももっともです。
そして綾子さんは、バスを降りた男性を何となく窓から目で追っていたそう。
「そしたら、さっきまであんなにイライラしていたのに、ラムネを手にしながらほんのり笑っているように見えて……あの女の子の“シュワシュワ”は、車内の空気だけじゃなく、おじいさんの気持ちまで少し軽くしたのかもしれませんね」と微笑む綾子さんなのでした。
<文・イラスト/鈴木詩子>
【鈴木詩子】
漫画家。『アックス』や奥様向け実話漫画誌を中心に活動中。好きなプロレスラーは棚橋弘至。著書『女ヒエラルキー底辺少女』(青林工藝舎)が映画化。Twitter:@skippop