
元広島・田中広輔さんインタビュー 前編
広島東洋カープのリードオフマンを長く担い、2016年からのセ・リーグ3連覇に貢献した田中広輔氏。2026年1月に現役生活に幕を下ろし、現在は解説者として活躍している。
5月には自身の野球人生を記した初の自著『赤き戦士からの感謝状 田中広輔』(ザメディアジョン)を発表するなど、新たなフィールドで活動する田中氏の人生を振り返る。そのインタビューの前編では、野球を始めた幼少期の思い出や、ドラフトで指名されるまでの日々を振り返ってもらった。
【プロを2名輩出した田中家の教育方針】
――初めに、野球を始めるきっかけを聞かせてください。
「僕が小学1年の時、当時住んでいた地域の子ども会でソフトボールをやることになったのが最初でした。子どもの頃は球技全般や水泳など運動が得意で、ソフトボールでも投手を任され、4番を打ったりもしていました」
|
|
|
|
――そして小学6年の時に、硬式野球に転向したそうですね。
「そうですね。父がボーイズリーグのコーチとして携わっていた縁や、自宅で日頃から硬式球を使ってキャッチボールをしていたこともあり、本格的に硬式野球に取り組むことになりました」
――早い年齢から硬式球に触れていたほうが上達は早いのでしょうか?
「僕個人の意見ですけど、子どものうちしか遊べる時間はありませんから、野球以外のさまざまなスポーツを経験して、身体の動かし方を学んだほうがいいんじゃないかと思います。
最近は公園で遊ぶことも難しくなりつつあるようですが、あらためて振り返ってみると、放課後にやった木登りとかも、いいトレーニングになっていたような気がしますから」
|
|
|
|
――田中さんは、三男の俊太氏(元巨人など。現オイシックス新潟アルビレックスBC)をはじめ、5人きょうだい(姉、妹、弟ふたり)ですが、プロ野球選手を2人も輩出した田中家では、どのような教育が行なわれていたのでしょうか?
「両親からは『自分のことは自分でやること』や、忍耐力の大切さについて日頃から言われていましたね。あと、僕は一番上の姉に次ぐ2番目で長男だったこともあって、弟や妹の面倒を見たり、さまざまな気配りをしたりという振る舞いは、生活のなかで自然と身についていたかもしれません」
――自身の著書のなかでは、プロ野球選手になった際のキャリアや収入の上げ方などにも話が及んでいて、とても堅実な印象を受けました。
「うちは7人家族で、そこまで生活は苦しくありませんでしたけど、両親が金銭に関する話題を日頃から話していたので、いつの間にかその感覚が身についていたんじゃないかなと思います」
【同期・菅野智之のドラフト"強行指名"の裏側】
――中学卒業後、長年憧れていた東海大相模高校に入学し、高校2年生の春には甲子園に出場。その後は東海大学に進学します。
|
|
|
|
「母親には日頃から『大学くらいは出てほしい』と言われていたので、プロ志望届を出さないことに決めました。ただ、当時の僕は高校卒業後にプロ野球の道に進むつもりで野球に打ち込んでいたので、いざ同学年の高校生が指名されるドラフト会議(2007年)が終わった時には、正直かなり落ち込みましたね。
まだ18歳だったこともあって、『大学での4年間、どのような目標を持って野球に打ち込めばいいんだろう』という不安もありましたし、野球に向き合うモチベーションが落ちてしまったところは少なからずあったような気がします」
――東海大学では、4年秋のリーグ戦で首位打者を獲得する活躍を見せましたが、卒業を控えた2011年のドラフト会議でもプロ志望届を出さず、JR東日本に進まれる決断を下しましたね。
「今となっては、『社会人野球を経験できてよかった』と思っていますが、進路を決めるタイミングで目立つ活躍ができなかったこともあり、悔しさを感じながらも渋々受け入れたような感じでした」
――2011年のドラフト会議では、巨人入りを希望していた東海大相模、東海大の同期だった菅野智之投手(現コロラド・ロッキーズ)が北海道日本ハムから"強行指名"を受け、入団拒否となったことも話題となりました。
「多くの報道陣が詰めかけるなかで、僕ら部員は中継を見守りながら、別室で待つ菅野投手を祝福する準備を進めていました。『もしかしたら日本ハムあたりが指名してくるかもしれない』と、部員たちの間で何気なく話していたら、本当にその流れになって。その瞬間に、会場が一気に騒がしくなったことを覚えています」
――ドラフト会議後、菅野投手と話をする機会はありましたか?
「とても話しかけられるような雰囲気ではなくて、『どうするんだろ......』と遠目に見守ることくらいしかできませんでしたけど、僕個人としてはドラフトの怖さを思い知った半面、指名してもらえることへの羨ましさもありました。『自分もそちら側の選手にならないといけない』と決意を抱くきっかけにもなりましたね」
【意外だった広島からの指名】
――田中さんは東海大学を卒業後、社会人野球の強豪、JR東日本に入団しました。都市対抗野球で活躍しましたが、大会の魅力を聞かせてください。
「社会人が真剣にトーナメントを戦い、試合の勝敗で本気で涙を流すすばらしさは、プロ野球とはひと味違う醍醐味があります。勝利を目指すまでのプロセスの大切さは、社会人野球を通して学ばせてもらったと思います」
――入社1年目からレギュラーの座を掴み、新人王にあたる「若獅子賞」を受賞。"社会人ナンバーワン野手"として注目を集めましたね。
「JR東日本での充実した日々を過ごしつつも、やっぱりプロの世界に行きたい気持ちがあったので、『なんとしても目立たなければ......』という思いで臨みました。前年の優勝チームに入団させていただき、チーム自体の注目度も高いなかで好成績を残し、目標としていた賞を手にできたのは、本当にうれしかったです。『これで、少しは夢に近づけたのかもしれない』と自信を深められました」
――ちなみにJR東日本時代には、練習以外の時間に業務を行なうこともあったんでしょうか?
「シーズンオフになるとスーツで会社に出向き、運転席や駅に出向いて業務に励んだり、実習に取り組むこともありました。時には東京駅の中央線ホームに立ち、満員電車のお客様対応なども経験させてもらいましたね。今、振り返ってみると、社会人野球で培ったさまざまな経験が、その後の野球人生で大いに役立っている感覚があるので、それを味わえてよかったです」
――そして、2013年のドラフト会議で広島から3位指名を受けました。
「大変ありがたいことに、ドラフト前から高評価をいただいていたので、『おそらくプロ野球選手にはなれる。あとは何位で、どの球団に指名されるか』という状態で、ドラフト当日を迎えました。
ドラフトにかかった点はうれしかったですが、西日本はほとんど馴染みがなかったエリアで、広島には一度も足を踏み入れたことがなかったので、指名は意外でしたね。期待とも不安とも取れる不思議な感情になりましたし、その後の野球人生をイメージするまでに少し時間がかかったような気がします」
【菊池涼介の身体能力に驚き】
――ドラフト会議の最中に、野村謙二郎監督(当時)が発した言葉をきっかけに、田中さんの指名が決まったそうですね。野村監督と初めて会った際の印象はいかがでしたか?
「指名の挨拶に来てくださった際に、『即戦力として期待しているから』と声をかけてもらいましたが、それくらいだったような気がします。とはいえ、球団の名選手であり、僕と同じショートを守った大先輩ですからね。入団してからは、野村さんに『常に動きを見られているんじゃないか』と、監督の視線をいつも意識しながら練習に臨んでいたことを覚えています」
――同学年であり、後に二遊間を組むことになる菊池涼介選手の印象も聞かせていただけますか?
「僕が広島に入団した2014年の春季キャンプで初めてプレーを見たんですけど、身体はそこまで大きくないのに(身長171cm)、全身のバネや、自分の身体を的確にコントロールできる能力の高さに圧倒されました。
二遊間を組んでいるのでプレーに関するやり取りは多くありましたし、互いに同学年ということもあり、特に遠慮はなく本音をぶつけ合える関係性だったような気がします。とはいえ、菊池選手は僕の2年先にプロ入りし、既にレギュラーとして活躍していましたから、『少しでも早く追いついて、ハイレベルなプレーを見せられたらな』という思いで、試合に臨んでいました」
(中編:田中広輔が語る"タナ・キク・マル"トリオと、3連覇のなかで「本当にしんどかった」シーズン>>)
【プロフィール】
■田中広輔(たなか・こうすけ)
1989年7月3日生まれ、神奈川県出身。東海大相模高から東海大、JR東日本を経て、2013年ドラフト3位で広島に入団。15年から遊撃手のレギュラーに定着し、翌年は1番打者に抜擢されてフルイニング出場を果たしてリーグ優勝に貢献した。17年は広島の遊撃手として史上初となる2年連続フルイニング出場を達成。最多盗塁と最高出塁率の2冠に輝いて連覇の原動力となった。2025年に戦力外通告を受けて退団。2026年1月17日に現役引退を発表した。
