【今週はこれを読め! ミステリー編】高森泉のデビュー作『ぼくたちの告白』に驚く!

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2026年08月10日 20:01  BOOK STAND

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『ぼくたちの告白 (宝島社文庫 『このミス』大賞シリーズ)』高森 泉 宝島社
 解説を読んでいて、嘘だろう、と言ってしまったのはひさしぶりだった。

 いや、高森泉『ぼくたちの告白』(宝島社文庫)の解説を担当している、千街晶之氏の記述が信じられなかった、ということではない。その終わりのほうに著者について「過去に新人賞への公募歴はないという」と書かれていたことに驚いたのだ。いや、公募歴がないというのと、それまで小説を書いたことがないというのは同義ではなく、どこにも出さずに執筆を続けていたのかもしれないのだが。それにしてもしかしこれはなあ。

 そんな風に記述を疑ってしまうほど、つまり手慣れた作品であった。十年選手のベテランが書きました、と言って読まされても、おおそうか、と言って信じてしまったと思う。このこなれ方は尋常ではない。しかし第24回「このミステリーがすごい!」大賞の隠し玉として刊行された、作者のデビュー作である。

 裏表紙のあらすじは、現在進行形で読んでいる人の立場ではなくて、俯瞰で書かれている。つまり最後まで読んだ上で、起承転結の結を省き、全体を再構成して見せているようなあらすじなのだ。そういう手を使いたく気持ちはよくわかる。ネタばらしをせずにあらすじ書くのが難しい話なのだ。

 四部構成になっていて、第四部の「真相」はかなり短い。また第二部の「疑念」は第一部「胚胎」で起きた出来事の後追いになっている。第一部で書かれた出来事が別の側面から描き直されるのに近い。したがってその「胚胎」と、第三部の「邂逅」が物語の主部ということになる。

「胚胎」の記述は一九九九年二月二十二日から始まる。ああ、ノストラダムスの大預言の年か、と日付を見て思うのは五十代以上の読者だろう。舞台になっているのは宮城県内にある、袋丸小学校という架空の学校だ。その六年三組の教室に、語り手の〈ぼく〉が入ってくる。生徒は全校集会で体育館にいて留守である。〈ぼく〉は意図的に遅れてやってきたのだ。誰もいないのを幸いに、〈ぼく〉はそれぞれの机に置かれたランドセルの中を探り始める。〈八木道雄 給食費2870円〉と書かれた集金袋を発見し、〈ぼく〉はガッツポーズをする。

 この前にプロローグが置かれていて、そこでも犯罪を暗示するような描写があって不穏極まりないのだが、この第一部の始まり方にもなかなか怪しいものがある。八木道雄の集金袋を手に教室を出た〈ぼく〉は六年一組の教室から物音がすることに気づく。中を覗くと、そこにいたのは六年一組のマドンナ・赤幡由美絵だった。なんと赤幡は、さっきまでの〈ぼく〉と同じく、他人のランドセルをごそごそと漁っていた。ご同様の集金泥棒だったのだ。

 放課後、赤幡の後をつけた〈ぼく〉は、彼女が集金袋の中から取り出した小銭だけをポケットに入れ、二枚の千円札を躊躇いなく神社の賽銭箱に放り込む場面を目撃する。不可解な行動である。このことから赤幡に強い興味を抱いた〈ぼく〉は、彼女に急接近していく。

 犯罪小説の始まり方として、完璧ではないだろうか。他人の金を盗むという行為で結ばれた男女、しかも女性の方は心中を読み取ることが難しい。もちろん、小学六年生が窃盗に走ったのにはそれなりの理由があった。赤幡の動機を知った〈ぼく〉は彼女に全面的な手助けを申し出る。

 いくら小学校の中で起きたこととはいえ、窃盗は立派な犯罪である。この行為はさらに重大な事態を招き寄せることになる。これは書いてしまうが、小学校内で死者が出るのだ。第二部「疑念」で綴られるのは、その事件が起きてしまい、警察が校内に踏み込んできた後の出来事だ。必死の捜査にも拘わらず犯人は見つからず、迷宮入りになってしまう。

 もうひとつの主部である第三部「邂逅」では、袋丸小学校で死者が出てから十五年後まで時計の針が進められている。ここで視点人物になるのは〈ぼく〉ではなく、別の事件関係者だ。その人物が、インターネットに「赤い意図」と題された小説が投稿されていることに気づく。十五年前の事件をそのままなぞったような筋立てで、当事者である小学生の視点からそれを語ったような記述になっているのである。ということは当時袋丸小学校にいた誰かなのではないか。筆名が袋丸太平であるのも、正体を物語っているように見える。関係者がその袋丸太平に連絡を取ったことから、十五年間の時を超えて事件は再び動き出す。

 複数の謎が設定されている。最大のものは一九九九年時点で起きた事件の犯人は誰かというものだろう。もう一つは語り手に関するものだ。ここまでの記述で、ミステリー・ファンの方ならお気づきだろうが、第一部に登場する〈ぼく〉は終始氏名が明かされない。愛称で呼ばれる場面はあるのだが、それは複数の登場人物にあてはまるのである。

 作者は後者の謎を呈示するにあたり、フェアプレイを強く意識している。第一部で〈ぼく〉が壁の貼り紙を見る場面がある。そこには五つの名前が書かれており、〈ぼく〉は「そのなかに自分の名前もあ」るのを発見して「げんなりする」のである。一人称だから〈ぼく〉が考えたことはそのまま読者に伝わるように書かれる。この叙述で語り手が嘘を吐いてはいけない、というのがミステリーのフェアプレイにおける絶対的な規則だ。それをきちんと守った上で〈ぼく〉の正体を秘匿することに作者は成功している。いや、やはり新米公募者だとは信じられないではないか。

 解説でも触れられているが、全体の構成から私が連想したのはアイラ・レヴィンの傑作スリラー『死の接吻』(ハヤカワ・ミステリ文庫)だった。犯人の一人称に極めて近い視点で前半が進んでいき、後半で他の視点人物が登場するというやり方がそっくりだ。いわゆる倒叙もの、犯人の視点から事件の顛末が描かれるミステリーに含めていい作品である。倒叙ものの中には、単純に犯人の視点だけを追うのではなく、途中で『死の接吻』のように視点を切り替えるような作品がある。視点人物が交替することで、最初の叙述では見えなかった部分が暴かれることになるのである。そうした形で提示された謎は、一部は読者にとって極めて近いのに、語られなかった不可視の部分があることで却って全体像が見えなくなる。そのもどかしさゆえに読者は真相が知りたくなるのである。

 やはり新人の作品だな、と思わされる箇所もある。たとえば真相指摘のための道筋が細い。一九九九年の死者はダイイングメッセージを遺しているのだが、それだけで犯人を特定するのはかなり難しい。ならばもう数本の柱を立てて論理を組み立てるべきなのだが、残念ながらその点ではかなり脆弱である。探偵による謎解きではなく、事態を進行させることで自動的に真相が暴かれてしまうタイプの構成なのだ。しかし、これだけ先を読みたくなるような展開を書けるのであれば、ミステリーとしては十分に成立する。

 十五年の時間経過が登場人物に及ぼした変化をもっと書いたほうがよかったのでは、などと思いつくことはさまざまあるのだが、それはないものねだりだろう。ここまで書ければデビュー作としては一級品である。結構な手練れの読者でも驚かされることになるのではないか。私は驚いた。くやしい。

(杉江松恋)


『ぼくたちの告白 (宝島社文庫 『このミス』大賞シリーズ)』
著者:高森 泉
出版社:宝島社
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