荻野目洋子『ダンシング・ヒーロー』大ヒットの裏で「脱走事件」…“くそまじめ”なアイドルが「再会3日で結婚」したワケ

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2026年08月29日 16:00  週刊女性PRIME

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荻野目洋子

 夏のある日の昼下がり。彼女は待ち合わせ場所に、Tシャツにパンツという軽装でさらりと現れた。

「暑いですね」と微笑み、水をひと口。自転車か徒歩での移動が多いと聞いて驚いたが、この日は「気が乗って歩いてきました」とニッコリ。いたずらっ子のような瞳でこちらを真っすぐに見た。

 本格的にソロ歌手としてデビューしてから40年を超えた荻野目洋子。デビュー7枚目のシングル『ダンシング・ヒーロー』が大ヒットし一躍、人気者になった。この曲は30年たって、再ブレイク。荻野目自身も驚いたそうだ。

「自然児」に育った幼少期

「こんなに長く愛される曲に巡り合えて幸せです。でも曲がヒットした後、やっぱりプレッシャーがつらかった時期もありましたね」

 結婚後は、子育て雑誌などのインタビュー以外、活動をきっぱり休止し、子育てに専念。徐々に仕事を再開し、現在はライブ活動をメインに、ラジオでパーソナリティーを務めるなど、家庭とのバランスを考えながら、ようやく納得したペースで仕事をこなしている。

 昨年まではILO(国際労働機関)のアンバサダーも務め、児童労働のない世界を目指して楽曲制作・提供や「出張授業」を通じた啓発活動にも取り組んだ。

「私、目標が決まると猪突猛進するタイプなんです。でも、仕事を再開した後は、努力は大切だけど、肩肘を張らなくなりました。楽しく生きていたい」

 荻野目は2歳違いの4人きょうだいの末っ子だ。姉2人と兄1人。次姉は女優の荻野目慶子である。

 彼女が生まれたのは千葉県だが、そこから埼玉、再び千葉、そして東京へと移り住んでいる。

「東京に家があったのに、子どもは自然の中で育てたいという父の方針で、私は千葉県で生まれたんです。母がユニークな人で、飽きっぽいのか、片づけが嫌になるのか、ある日突然、『引っ越そう』と言い出す(苦笑)。すると、家族がわりと従順にそれに従うというパターンでした」

 そんな環境に影響を受け、自由に野山を走り回る「自然児」に育つ。

「今も忘れられないのは埼玉時代に、家のすぐ前の児童公園に木登り用の木が設置されていたこと。10m、7m、5mくらいの3本があって、子どもが登れるよう枝も間引きしてあるんです。2歳違いの兄はいちばん高いのに登っていましたが、私は無理。でも5mの木にはよく登っていました。楽しかったなぁ。子どもの探究心や冒険心をくすぐるような環境でしたね」

 兄や姉たちが学校の友達と遊ぶようになると、荻野目は1人で虫の観察に励んだ。足元を歩くアリや蜘蛛、生きものがたくさんいるのを見てワクワクしたという。この原体験は強烈で、彼女は2020年に自ら作詞作曲した『虫のつぶやき』をウクレレの弾き語りで発表。NHK『みんなのうた』でも2か月にわたり、放送された。《生きるってことは痛みを知ること》《それでも明日はやってくるのさ》という歌詞に荻野目の人生観が垣間見える。

音楽は常に隣にあった

 子ども時代は犬も猫も飼っており、庭の犬小屋で犬と一緒に昼寝をしたり、母のまねをして縁側で猫のノミを取ってやったりした。

「子どもながらに、いろいろな命が地球上で一緒に暮らしていることを、誰かに教わる前に、体感として覚えた気がします。これも、父の教育方針なんです」

 国連に勤めていた父は「どの国に生まれても同じ人間、平等に接するんだよ」とよく言っていたという。8歳のころ、父がアジアからの来客を自宅に招いたことがある。

「外国の人と初めて接して、すごく身近に感じた。言葉はわからなくても、気持ちは通じるんだと思いましたね」

「好きなことを見つけなさい」が口癖だった父のもとで、彼女が夢中になったのは、歌うこと。

 父が趣味で民謡を習っていたころ、子どもの部に入って公民館に通ったこともある。6歳年上の長姉の影響で、家の中ではビートルズが流れていた。ジャンルを問わず、音楽は常に隣にあった。

 姉の慶子が小学生のころに「劇団ひまわり」に入った一方、荻野目は歌好きが高じて小学4年生で『ちびっこ歌まねベストテン』に出演。そこでスカウトされ、翌年、小学生の女子3人グループ「ミルク」として歌手デビューする。同時期に一家は、埼玉から千葉に越していた。

 小学5、6年のときの担任教師が当時を振り返る。

「国語の音読では、適度な声量で響きのある声が教室中に心地よく広がっていたのが印象的でした。縄跳びも得意で、二重跳びでは100回近くまでリズミカルに跳び続け、天性のリズム感と、身のこなしの軽やかさがありました。さまざまなことに秀でた子でしたね」

 荻野目自身は「引っ込み思案だった」と語るが、担任教師の目には、目立とうとするタイプではないものの自然とクラスの中心にいるように映ったという。

「周りに自然と人が集まってくる、不思議な存在感がありました。ご家族の温かな雰囲気もよく覚えています」

 荻野目は6年生の夏休みが終わると、「学校生活を楽しみたい」と思うようになっていく。そのころ、後に彼女と二人三脚で夢を実現させていくことになる事務所の社長とも出会っている。

「ミルク」は解散したが、社長は「絶対に歌いたくなるときがくるから、そのときは連絡しなさい」と告げていた。

 だが、中学時代は部活に明け暮れたという。

「父が日曜大工で卓球台を作ってくれて、きょうだいでやっていたので、部活でレギュラーをとりやすいのは卓球だなと(笑)。そのあたりは末っ子の要領のよさかもしれません」

親や環境に甘えないハングリー精神

 1年生から試合に出て部活動を堪能したが、2年生の終わりに進路を考える時期がくると、社長の予言どおり、「やっぱり歌を仕事にしたい」と思うようになる。

 歌から離れたからこそ、歌への思いの強さに気づいたのだ。

 だが、社長にすぐ連絡をとろうとはしなかったのが彼女らしい。

「自分の力で道を切り開いてみたかった。そこで公募していた映画『ションベン・ライダー』のオーディションを受けたんです」

 結果は不合格。だが、オーディションで歌う姿が目に留まり、あだち充さん原作のアニメ『みゆき』のヒロイン・若松みゆきの声優の仕事が舞い込む。

「みゆきは、『ちょっとすっとんきょうなキャラなので、意識せずに、そのままで』と言われました。でも、声優は初心者なので、プロに囲まれた仕事は緊張しました」

 自らの力で仕事をつかみ取った喜びは大きく、覚悟が決まった。

 かつて声をかけてくれた社長に連絡し、週3回の厳しいレッスンが始まる。

「当初は声優の仕事と同時並行でした。友達は残り1年の中学生活を楽しんでいましたが、私はダンスと歌と腹式呼吸などのレッスンざんまい。授業を終えて東京に来ると、お腹がペコペコなので、まずは制服のまま中華屋さんに入ってお腹を満たすんです」

 歌でやっていくと覚悟を決めたからには、1人で行動するのに臆するところはなかった。

「社長には『親と離れて地方から出てきている子も多い。君は環境的に恵まれていてハングリー精神がないから、人一倍努力しなければいけない』と言われました。だからトレーニング量では誰にも負けないぞと思って。舞台役者さんやオペラ歌手に交じって腹式呼吸を必死で会得しましたね」

 引っ込み思案なのに、負けず嫌い。目標を決めたら猪突猛進、何の迷いもなかった。とはいえ、まだ中学生である。急に大人の世界に入ったことへの不安はなかったのだろうか。

「姉(慶子)は俳優の道を歩み始めていて、生活リズムも違ったので相談したことはありません。とにかく家族に弱音を吐いたことはないんです。自宅では、仕事の話もしなかったですね。自分で決めたことだから当然だし、それ以上に自分の道に没頭できる喜びが強かったのかもしれません」

 干渉をせずに見守る両親のもとで、10代だった姉妹は自立心を育んでいった。

 デビュー前は、キャンペーン活動で全国各地のイベントに出演。デパートの屋上やショッピングモールの駐車場でも歌ったと振り返る。なんと、全国47都道府県すべてを回ったという。

「デビュー曲が決まる前はカバー曲を歌っていましたが、毎日、人前で歌えるのが楽しくて仕方なかった。

 姉が映画『南極物語』で名前を知られるようになったのと、アニメ『みゆき』の影響で、人が結構集まってくれたんです。目の前の人に歌を届け、みんなが笑顔で聴いて拍手をしてくれる。そんなダイレクトなやりとりがうれしかった」

 だが、プロになれば、楽しいことばかりではない。デビュー後は、厳しい業界の現実も目の当たりにする。

「歌の仕事に関しては、嫌なことはまったくなかった。当時はアイドル全盛期で、雑誌やテレビで同世代の子と共演も多かったから、和気あいあいとやっていました。ただ、年末の賞レースが話題になると周囲の雰囲気が一変する。テレビ局に事務所やレコード会社の黒いスーツを着た大人の男性たちが来てバチバチした雰囲気になる。それが怖かったですね。賞レースはシビアな世界で、まだ子どもだった私はなじめなかった」

 '84年、高校1年生のとき、『未来航海―Sailing―』でソロデビュー。年に3枚のシングルと1枚のアルバムという周期でレコードをリリース。

「私自身は充実していたんですが、ベストテンには届かない。そうなると、社長が焦り始めて……。今思えば、借金を抱えて投資してくれていたわけですし、こうすれば売れるという法則もない。ヒットは奇跡みたいなもので、タイミングとか世相とか、いろいろなことの巡り合わせなんだと思います。でもそういうチャンスをつかむには、スタッフも私もずっと努力をし続けなければいけない」

「アイドル像」に抗う“くそまじめ”な少女

 そして7枚目のシングルでチャンスが訪れた。『ダンシング・ヒーロー』である。

 年齢に合わせた少女っぽい曲から路線変更、ユーロビートに乗せた大人の曲に荻野目自身も惹かれた。

「一番上の姉の影響で、私は洋楽が大好きだった。だから『ダンシング・ヒーロー』は、いつも自分が聴いている曲に近づいたと感じました。歌い手としての意識を自分で高めていく作業は必要でしたけど、苦ではなかった。今聴くと、当時の声は幼いですけど」

 実は、歌は好きだが活動そのものには違和感を抱いていた。当時はアイドル全盛期。若い子がデビューすると、すべて「アイドル」でくくられてしまう。

「違和感を言葉で表現できなかったし、自己演出ができる年齢でもなかった。『衣装のフリルを少なくしてほしい、ヘアメイクもあまり可愛らしくしないでほしい』と言うのが、私のせめてもの抵抗でした」

 当時の歌番組を思い返すと、荻野目は控えめなのに、歌い始めると圧倒的な輝きを放っていた。自分の世界を持っているという意味で、「普通のアイドル」ではなかった。

「10歳のころ、山口百恵さんの『プレイバックPart2』に衝撃を受けました。歌にドラマがあり、自分の世界観を持っているところがすごいと思っていた」

 そんな気持ちが『ダンシング・ヒーロー』という楽曲とピタリと合ったのだろう。

 大ヒットだったと思いきや、実はミリオンセラーには達していなかったそうだ。

「時代を代表する歌のように言われていますが、それがあの歌の『魔力』なんだと思います。長い年月、飽きずに聴いていただける。いろいろな巡り合わせで、私があの歌を歌うことになったのも不思議ですね」

 荻野目は「巡り合わせ」と表現するが、絶えず努力を重ねて、一つひとつの出会いやチャンスを成功へとつなげていったのだ。

『ダンシング・ヒーロー』を歌う際、好きなマドンナのミュージックビデオを何度も見て、あるステップに魅せられる。それがチャールストンステップ(脚をツイストさせながら軽快に踊るステップ)だ。どうしても入れたいと振り付けを担当した三浦亨さんに相談した。

 三浦さんは「そういうこともありましたね」と笑う。

「彼女は、自分のことをダンスが下手でノリも悪いと、感じていたようです。そんなことないのにね。とにかく“くそまじめ”なんです。振り付けに忠実に踊らなければと、よくスタジオに残って練習していた。社長が『先生は背中が歌ってるけど、洋子は背中が歌ってない』なんて煽るから、彼女は余計に頑張る。素直でいい子だけど、自分自身に対して厳しくて頑固だなと思った記憶があります」

 自ら決めた歌の道で、彼女は自分の考える「完璧」を目指したのだろう。アイドルの枠から少し逸脱していた少女は「歌では誰にも負けたくない」と自分を鼓舞していた。

限界を迎えて、スタジオから脱走

 やがて『ダンシング・ヒーロー』がチャート入りすると、どんどん多忙になっていく。最初はうれしくて興奮したが、次第に新たなプレッシャーが立ちはだかってきた。

「次もヒットさせなければ一発屋と言われてしまう。社長は私のために新たな会社をつくってデビューから二人三脚でやってきた。その後、スタッフが増え、ファンクラブもできて。ようやく売れたとき、世間知らずな私はもっと人間的に成長したいと、留学を希望したんですが、『行けるわけない』と社長にいなされました(笑)。自分と向き合う時間もなく、突っ走るしかなかった」

 レコーディングにライブツアー、さらにはドラマの仕事。当時、アイドルはドラマの主演を務め、その主題歌を歌うのが常だった。次から次へと仕事が入り、必死でこなす日々に、「自然児」である荻野目はだんだん息がつまっていった。

 限界を超えたのか、ある日、彼女は脱走事件を起こしてしまう。

「あのころはドラマもレコーディングも、仕事がすべてスタジオだったんです。しかも、いつも大人に囲まれている。息が詰まるような気分になって、こっそり抜け出し、わーっと外を走りました。やっと1人になれて気持ちがよかった。結局、そのまま家に帰っちゃった。翌日からちゃんと仕事をしましたけど(笑)」

 河口湖畔のスタジオでレコーディングするはずが、荻野目がリラックスしすぎて進まなかったこともあった。久しぶりに「自然児」の血が騒いだようだ。

 一方で、徐々に彼女の音楽性に注目が集まっていったと証言するのは、作詞家の売野雅勇さんだ。売野さんは彼女の10枚目のシングル『六本木純情派』など多数の楽曲を担当している。

「当時、アイドルはシングルが売れても、アルバムはあまり動かなかった。シングルが20万枚ならアルバムは10万枚以下という感じ。ところが荻野目さんは、シングルが20万なら、アルバムは50万売れる。その音楽性に惹かれるファンが多かったんだと思う」

 彼女が19歳のとき、アメリカのブラック・コンテンポラリー界の重鎮であるナラダ・マイケル・ウォルデンをプロデューサーに迎え、アルバム『VERGE OF LOVE』を制作。売野さんはじめ、スタッフらと2週間ほどサンフランシスコに滞在した。

「あの魅力的な声を際立たせる楽曲が並んでいました。初めての海外録音にして、世界の頂点と対峙し、毎秒が勝負という環境に置かれ、彼女自身も張り切っていました。ナラダとのコミュニケーションもスムーズで楽しい日々でした。日本語版と英語版を同時につくったから忙しかったけど、常に音楽に集中していました。長時間一緒にいるのは初めてでしたが、芯が強くて、とことん品がいい女性だと思った」(売野さん)

 だってさ、と売野さんは声をひそめた。

「洋子ちゃんって、嫌なところがまったくないんだよ。そんな人間、いる?」

 多忙な状態は20代前半まで続き、人心地がついたのは20代半ばになってからだった。友人を通して、彼女は素の自分でいられる時間を取り戻していく。

「もっと人間らしく生きないと、本当にダメになる危機感を覚えたんです。当時、たまたま同い年のヘアメイクさんと仲よくなった。彼女はフェレットを、私は犬を飼っていたので、忙しくてもお互いのペットの面倒を見られるようにルームシェアをすることになったんです」

 彼女を通して、会社員、アパレル勤務、飲食店経営者など、さまざまな職業の友人ができた。

「みんなでごはんを食べに行ったり、山登りや花火大会に行ったり、ああ、これが青春だと痛感しました。あの時代がなかったら、私は普通の若者の生活を送れなかったと思う」

同級生との運命的な再会

 20代後半になっても、結婚には慎重だった。

「芸能人のイメージで見られると困る、人間としての自分を見てもらえなければうまくいかないと感じていたんです」

 あるとき、時々行くレストランで、オーナーから1枚の名刺を渡された。そこには高校の同級生の名前が……。オーナーが共通の知人で、「彼女が来たら渡して」と頼まれていたのだ。

「高校を卒業してからは、ほとんど会っていなかったんですが、再会したら、昔のままに会話ができた」

 それが後に夫となる辻野隆三さんだ。当時はプロのテニス選手で、あの松岡修造さんをして「唯一、勝てない人」と言わしめた実力者である。

 彼とは共通点を感じ、心の深い部分で理解し合った。

「ソロシンガーって、舞台に立つと孤独なんです。もちろん、サポートしてくれるスタッフはいるけど、舞台上では、すべての責任は私にある。彼もプロ選手としてコートに立つと、たった1人で闘わなければいけない」

 テニス選手の生活は過酷だ。試合が終わるとすぐ別の国での試合のため、移動。エアチケットやホテルも自分でブッキングしなければいけない。

「大変な思いをしながら試合に挑み続ける。気持ちを切り替えていくのがプロなんだと尊敬しましたね」

 会話が弾み、笑いが途絶えなかった。“この人しかいない”と確信し、再会して3日で結婚を決めた。

 32歳で結婚するとき、社長からは「結婚イコール引退だと思いなさい」と厳しい言葉があった。それは当然だと彼女も思っていた。

「お呼びがかからなければ、それまでだと腹をくくりました。3人の娘に恵まれて、4年間ほど子育てに専念していた時期も、仕事への焦りはなかった。今できることに集中していましたね」

 その間2年ほど、夫が仕事のパートナーと開校したテニススクールがある山梨県に住んでいたこともある。

「果物はおいしいし、公園は広いし、近くに温泉もある。いい環境で子育てできましたね。父の気持ちがよくわかった(笑)」

 子育てには、父のモットーが反映された。彼女が子どもたちに言ったのは「人によって態度を変えるな」ということ。相手の肩書によって、自分の態度を変えてはいけない。人間はみな平等なのだから、と。

復帰後の変化、ブレない想い

 音楽への情熱が冷めていたわけではない。休んでいる間にウクレレを独学で始めたり、かつて挫折したギターをもう一度学び直したりした。

 もちろん、周りも彼女を放ってはおかなかった。復帰のきっかけとなったのは、デビュー25周年のアルバム制作の企画が立ち上がったことだ。アルバムは無事にできたが、発声や歌へのアプローチが鈍っていると自分で感じた。だからその後、2年ほどかけて「鍛え直した」。自分への厳しさは変わっていなかった。

「夫は『ミュージシャンに年齢は関係ない。人生経験を重ねたからこそ歌える歌もあるはず。やめちゃいけない』と言い続けてくれたんです」

 その声に背中を押され、ついに本格的にワンマンライブを再開したのは2014年。30周年のアルバムをつくったあとだ。

「久々のライブは怖くてたまらなかった。舞台で頭が真っ白になるんじゃないかと不安で。でもいざ始まったら、ステージ上から以前からのファンの方の顔が見えたんです。待っててくれた人がいるのがうれしかった。心から安心しました」

 そしてあの「不思議な魔力を持つ楽曲」『ダンシング・ヒーロー』が再び旋風を巻き起こしたのが2017年。大阪府立登美丘高校ダンス部が全国大会で、タレント・平野ノラのネタをもとにした「バブリーダンス」を披露して8000万回を超える爆発的な動画再生数を記録したことだった。荻野目はまた引っ張りだこになった。

「たまたま彼女たちのダンスをテレビで見てびっくりしました。芸能人としての私に興味のない娘たちに初めて『踊って』と言われたりしましたね」

 急きょ、全曲『ダンシング・ヒーロー』という特別編集版CDも発売された。再びタッグを組んだ三浦亨さんは、荻野目に「先生、今回は遊ぼ!」と言われて驚いたそうだ。

「些細なところでも、彼女は遊びのある振り付けをあまり好まなかったんです。くそまじめだった彼女が、ずいぶん柔らかい大人になったなと感激しましたね」

 肩肘を張らなくなったのは「笑うことが好き」な夫の影響かもしれないと荻野目は言う。結婚して25年たった今も夫とは何でも話す。

「後から、実はそう思っていたのかと知るのは嫌だから。意見の相違はあっても、不快になることはないですね。人生、決して順調なことばかりではないですが、夫がとてもチャーミングに『サボりも大事』と言ってくれる(笑)。だから自然に笑ってる自分がいるんです。あんなに慎重派だったのに、『ま、いっか!』って」

 近年は新たな挑戦に次々取り組んでいる。

 2024年には所ジョージ作詞作曲、木梨憲武プロデュースで『Let's Shake』を発表。異色の組み合わせが話題になった。'25年には全曲、作詞作曲、セルフプロデュースによるデジタルアルバム『Bug in a Dress』をリリース。これまでに歌ってこなかったタイプの楽曲に挑戦したいという彼女の意欲から生まれた作品だ。今年、10月からはライブツアーも始まる。

 歌に向き合う姿勢は、プロになると決めたときから、まったくブレていないという。

「売れたいからというよりも、私は歌が好きだから歌っている。例えば、『もうつらいからやめたい』と、何かを諦めかけている人が、私の底抜けに明るいパフォーマンスを見て、思い直してくれたりするほうがうれしいですね。音楽への思いだけは純粋じゃないといけない。そこが濁ったときは自分がダメになったときですね」

 歌いたい。誰かに思いを届けたい。その純粋さが彼女の軸となり、そのために彼女は今日も挑み続けている。

かめやま・さなえ 1960年、東京都生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動。女の生き方をテーマに、恋愛、結婚、性の問題、貧困や格差社会など、幅広くノンフィクションを執筆。歌舞伎、文楽、落語、オペラなど“ナマ”の舞台を愛する。

取材・文/亀山早苗

週刊女性2026年9月1日号

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