Kiroro玉城千春 中3で『未来へ』を書いたきっかけ 感動秘話

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2016年07月04日 20:52  Techinsight Japan

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Kiroroの金城綾乃と玉城千春
Kiroroの名曲『未来へ』はボーカルの玉城千春がまだグループ結成前の中学3年生で書いた作品だ。彼女が人生で初めて作詞作曲したのは母親との運命的な出来事がきっかけだった。それによって歌手への道を歩むこととなる。

Kiroroの2人が、青い空と海が輝かしい沖縄の屋我地ビーチから7月2日の『THE MUSIC DAY 夏のはじまり。』(日本テレビ系)に生中継で出演した。その際に紹介されたのが『未来へ』の誕生秘話である。

中学校から自宅に戻った玉城千春はパジャマ姿で床に臥せ、咳き込む母親を見て驚いた。母はそれまで病気で苦しむ姿など見せたことがなかったからだ。やがて「心配いらないよ」と言いつつ咳を続ける母の掌に赤いものが…。「血?」と分かった時、玉城の脳裏に「お母さんがいなくなるかもしれない」という不安と悲しみが初めてよぎった。

彼女は母親のために自分にできることは歌を作ることだと考えて、今まで素直に言えなかった気持ちを伝えようと書いたのが『未来へ』である。幼少時から玉城がカラオケで歌うと母はいつも笑顔でほめてくれた。その頃から歌手になろうという気持ちが芽生え、大きくなってオーディションを受けるが落ちてばかりだ。「大丈夫、千春の歌は素敵だよ」と言ってくれる母に「だったらなんで受からないの!? 適当なこと言わないで!」と八つ当たりすることもあった。玉城千春は「いっぱい言い合いをして、しゃべらなかったり、怒ったり、お母さんを大好きだけど」と当時を振り返ると「ありがとうも言えてなかったな」と母への思いを込めた歌だという。

完成した歌をカセットテープに録音して母に聴かせると「まだ死なせないでよ」と笑いながら「よくできたわね」とほめてくれた。玉城の母は風邪をひいていただけですっかり元気になっていたのだ。とんだ早とちりではあるが「あの一件がなかったらここに居なかったかも、歌もうたっていないだろう」と玉城千春はいう。その後、金城綾乃とKiroroを結成して1996年に『長い間/青のじゅもん』でインディーズデビュー、1997年4月21日にインディーズで『未来へ/逃がさないで』を発売する。メジャー2枚目となるシングル『未来へ』をリリースしたのは1998年6月24日だ。

日本でも高校の音楽の教科書に取り上げられるなど愛され続ける『未来へ』だが、世界の国々でも多くの人々に歌われている。マレーシアでは最も有名な日本の楽曲と言われており、現地のCDランキングで1位になったこともある。海外でも日本語で歌われるため、歌詞の意味を理解する人は少ないが、メロディーや曲の雰囲気から根強い人気があるのだろう。歌詞の内容や母に気持ちを伝えようとした中学時代のエピソードを海外の人々にも知らせることができるならば、どのように受け止めるのか興味深い。
(TechinsightJapan編集部 真紀和泉)

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