──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
『光る君へ』、第47回「哀しくとも」は、残念というしかない内容でした。
都を旅立ったまひろ(吉高由里子さん)は大宰府に到着し、因縁の医師・周明(松下洸平さん)と再会できたものの、女真族による九州地域の侵攻事件である「刀伊の入寇」に巻き込まれてしまいます。そして周明の胸には「恋の矢」ではなく流れ矢がブスリ。絶叫するまひろですが、従者・乙丸(矢部太郎さん)の手でその場から連れ出され、周明は一人っきりで絶命してしまったようです。
まひろいわく、亡夫の「(藤原)宣孝さまが働いていた場所に行ってみたい」との理由で旅の目的地に選ばれた大宰府でしたが、当地で特に宣孝(佐々木蔵之介さん)のことを思い出している様子もなく、再会できた周明とも中途半端なままでした。あげくの果てに「お方さまとー! 都に帰りたいー!」と泣きわめく乙丸に押し切られ、さっさと帰京。わざわざ、まひろを大宰府に行かせた意味とは……。
そして京都の土御門第まで帰京の報告に参上したまひろが再会したのは、「これで終わりでございます!」と振り切ったはずの道長(柄本佑さん)で、さすがに出家した道長の姿に驚きを隠せないまひろでしたが、二人の間に「やはり、あなた(お前)でなくては!」式の熱い展開はなく、お互いに目を泳がせ、唇を動かしただけ。恋愛的な反射神経に欠けてしまっている二人がオタオタしている間に「倫子さまがお呼びです」とお邪魔虫の侍女がやってきて、今回もタイムオーバーでした。
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源倫子(黒木華さん)とまひろも、知り合って長いわりに「旧友」といえるほどではないままでしたけれど、実はまひろと殿(道長)の関係を、私が知らないとでも思った? 的なセリフと共に「殿とはいつからなの?」などと聞かれ、露骨に動揺するまひろのアップで次回に続くという、なんだこれは……という展開の連続でした。
次回は最終回ですよ。それなのに、このまとまりに欠くありさま。『光る君へ』で本当に光っていたのは出家後の道長の頭だけだった、という印象で終わってしまいそうで、「もののあはれ」を催した筆者です。
さて、気を取り直して史実的な補足に移りましょう。
今回は、女真族の海賊から侵攻を受けている大宰府から急ぎの使者を飛ばしたはずなのに、都に情報が到着したのは10日後だったという部分などについてお話してみようと思います。
大宰府(現在の福岡県太宰府市)から都(京都市)まで、「早馬でもこんなに時間がかかったものなのか」と多くの方はお感じになったかもしれません。
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しかし、これは「平安時代はそういうもの」ということでもなさそうです。京都の朝廷とその法律である「律令」によって、日本全国を支配できていた律令制が崩壊しつつあることを示した一例ではないかと思われるからです。
紫式部や藤原道長は西暦にして10世紀後半から11世紀前半を生きた人物なのですが、この時代には京都の朝廷の影響力は地方で低下しつつありました。その一例が、律令制によって定められた「飛駅制」の機能低下なんですね。
大宝元年(701年)、文武天皇の命によって「大宝律令」が完成し、本格的な律令制度がスタートしました。日本中に「七道」――東海道や山陰道といった現在にもその名を残す街道が張り巡らされ、「大宝律令」の「厩牧令(くもくりょう)」によって「大路30里(約16キロメートル)」ごとに「駅」が置かれることになりました。駅には複数の馬がスタンバイされ、都に急いで伝えるべき情報を「飛駅使(ひえきし)」と呼ばれた使者が、街道上の駅で馬を乗り換えながら、駆けていくことができる制度が「駅伝制」だったのです。
最近の研究では、こうした古代の駅は朱塗りの柱に白壁の豪華な建物になっている場合もあり、地元の有力者が宴を開く場所だったともいいますね。興味深いことに「駅伝制」は国家が定めた公の制度なのに、駅の運営は国ではなく、駅施設の自助努力によって成り立っていたとする説もあります。常時、複数の馬をスタンバイさせておくにはたいへんな経費がかかったでしょう。しかし、こういう国の経済的負担を軽くするためのアイデアも、律令制度が崩壊しはじめると裏目に出るようになりました。
律令制がまだ機能していた天平12年(740年)、ときの帝・聖武天皇の従兄弟にあたる藤原広嗣が、大宰府で反乱を起こした際(藤原広嗣の乱)、大宰府から当時の都・平城京(現在の奈良県)まで使者は4〜5日で到着できているのです。つまり、寛仁3年(1019年)の「刀伊の入寇」の事件の時の約2倍のスピードで情報伝達ができていたわけですね。
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律令制度の崩壊とは、日本の支配が「公」の論理=国の方針から、「私」の論理=地方の有力者の都合に変化しつつあったという時代と社会の変化でもあるわけです。
同じことは「軍隊」でも起きていました。
ドラマでは「刀伊の入寇」にまつわる戦のシーンがあり、前回は道長が「朝廷が武力を振るってはならない!」と命じるシーンもありました。当時の兵制についてもお話しておきますと、北は東北、南は九州までを平定することが完了した平安時代中期以降も、太政官(≒政府)直属の「八省(=役所)」の中に、軍事関係を統括していた「兵部省」は残りましたが、有名無実化していくわけです。
役所としての「兵部省」は存続しているのですが、鷹狩に使う鷹を養育したり、牧場を経営したり、軍事とは直接関係のないことが業務の中心となっていきます。かつては兵部省の長官には多くの場合、皇族が選ばれていたのですが(『源氏物語』にも兵部卿の宮という登場人物が何人か登場していますね)、それさえ平安時代後期、三条天皇(ドラマでは木村達成さん)の皇子・敦平親王を最後にしばらく断絶しています。
つまり、平安時代の末の日本では正規軍が解体され、私兵団だけが存在する世界になっていたのです。ドラマにも出てきたような兵の鍛錬などは、主に地方にいる軍事貴族たちの裁量にお任せだったのですね。そういう私兵団を結成した者たちの間でいわゆる下剋上が相次ぎ、さらに力のある武士をリーダーとした武士団が形成され、日本は乱世に突入していくのでした。
ドラマ終盤でいきなり差し込まれた、まひろの大宰府行きについては、本来こういう時代の変化を描くためのイベントだったのでしょうが、いろいろと描き足りていない部分が目立ち、結局バタバタした印象だけで終わってしまったのではないでしょうか。
また、ドラマでは京都の公卿たちが、国家の有事に際しても危機感が足りず、あるいは権力闘争に終始し、肝心の道長も出家しているので辣腕を振るえなかった、あるいは摂政になった息子・頼通(渡邊圭祐さん)も万事、事なかれ主義でふがいないという描写についても補足しておきます。
以前のコラムでも触れたとおり、史実では重病を理由に出家した道長ですが、その直後から頼通ではなく、道長を頼る公卿たちが彼の屋敷に日参していたことが、藤原実資(秋山竜次さん)の日記(『小右記』)などからよくわかります。
実資いわく、ドラマとは異なり、史実の道長は病みやつれて、御簾越しの対面だったにもかかわらず、「容顔、老僧のごとし(*原文は漢文)」だとわかる状態でした。気力も失われていたので、実資は道長に「一月五六度(=1カ月に5、6回程度は)」朝廷に来て、我々をご指導くださいと「ヨイショ」せねばならなかったくらいです。
しかし、大宰府で苦しんでいたのは道長の政敵である藤原隆家(竜星涼さん)だったからか、病後で頭が回らなかったのか、理由は不明ながら、道長は国難である「刀伊の入寇」事件に関わろうとしませんでした。これは厳然たる史実です。
ただ、こういう重大事件の情報を、公卿たちの会議(陣定)開催よりもいち早く、私的に報告してもらえたりすることで、「自分が必要とされている」と道長が感じ、回復が早くなった可能性は多いにありますね。とくに実資からの励ましは効果があったようで、出家以来、元気がない夫のことを心配していた倫子から喜ばれた――原文では「(関係者から、倫子の素振りに)悦気有り」と伝えられたと、実資は『小右記』に嬉々と書き残しています。
さて、いまいち盛り上がりに欠けるまま最終回を迎える『光る君へ』ですが、来週以降のコラムでは今年一年のドラマについての振り返り、さらに作中でほとんど効果的に取り上げられることがなかった『源氏物語』についてもお話したいと考えています。もうちょっと『源氏物語』とドラマの世界を有機的にリンクできていたら、満足度も高かったのではないでしょうか……。